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森山城の歴史は、先日ご紹介した須賀山城の歴史と一部が重複します。まず築城年代。文治6(1190)年に千葉氏一族の東胤頼が築城したという伝承は須賀山城と重なります。つまり東氏の当初の居館がどこにあったのかがわからないということなんですね。森山から須賀山にかけてのどこかなのだろう、と。室町時代までは東氏のお城でしたが、東氏の活動場所が美濃に移るにつれて千葉宗家の力が強くなり、千葉宗家に近い粟飯原氏や原氏が森山城を守っていたと伝わります。恐らくは天正18(1590)年、小田原の役まで森山城は存続し、そ
千葉北東部に「東庄町」という町があります。香取郡に属するこの町は、かつてここにあった東庄(東荘、橘荘)にゆかりの場所です。利根川を挟んで千葉県と茨城県の境目に位置するこの場所は、ずっと昔から下総と常陸との境目に位置する場所でもありました(今の大きな利根川は江戸時代の初めにできたものですが、昔からここには川がありました)。東荘には早くから千葉氏の手が伸びていたようで、千葉氏の一族であった胤頼が東胤頼を名乗ったのは鎌倉時代の初めの頃でした。以来、東氏は千葉一門の有力な家として活躍し、美濃の郡上にも所
5年ぶりくらいで訪ねた並木城は、更に綺麗になっていました。多古町にある保存会、正式名称は多古城郭保存活用会です。保存活用会の公式ホームページによれば、多古町内では34の城郭が確認されており、そのうち15城の御城印が販売されています。多古城郭保存活用会多古城郭保存活用会www.takojokaku.jp並木城は多古町の代表的城郭ですからもちろん御城印もありますが、変わったところでは「次浦八郎常盛館の御城印もあったりします。山城ガールむつみさんによる「いざ、次浦八郎常盛館へ!の巻」という
多古町の城郭が日の目を見るようになったのはいつからだったでしょうか。城びとや城めぐりアプリで紹介されるお城がひとつもなくて、お城密度が濃い房総エリアの中でも空白地帯のようにみなされていたのが多古町でした。もちろんいくつかのお城を紹介しているサイトはありましたけれども、そのほとんどが薮の中。先達たちが決死の思いで薮をかきわけ、どうやらこのエリアには良好に遺構を残すお城が結構あるらしいぞ、となってきて・・・。何年か前に多古町の城郭保存会が立ち上がり(もしくは活動を活発化させ)、地域に眠るお城を
丸岡城下の白道寺に、丸岡有馬家ゆかりの日向御前・国姫のモニュメントが完成し、本日除幕式を迎えました。昨年からクラウドファンディングによる建立活動が開始され、無事に目標額を突破してモニュメント完成に至りました。徳川家康と織田信長の曾孫にして本多忠勝の孫という国姫が有馬家に嫁いだことで、有馬家はその後のいろんな苦難を切り抜け、丸岡藩主として明治まで家を保ったと言われています。序幕前の日向御前・国姫像国姫自身は丸岡に来たことがないのですが、丸岡有馬家にとっては救世主のような存在です。
大政奉還と明治維新は、静岡県内の諸藩にとって驚くほどの大きな変化をもたらしました。まず徳川宗家が江戸から静岡にやってきます。その煽りを食らって、静岡県内の諸藩はごっそりと房総半島方面に移動させられました。遠州掛川藩の太田家も例外ではなく、今の山武市松尾町周辺に5万石余の領地を与えられ、ここに芝山藩(松尾藩)が誕生しました。太田家というのはあの太田家です。太田道灌の太田家です。戦国時代にもいろいろありましたが、太田家はちゃんと大名として明治まで存続しているんですね。ちなみに松尾というのは今でこそ山
一宮市の苅安賀は駅名にもなっていますので、地元の方には何ということのない地名だと思いますが、筆者を含む他地域の人間にとっては難読地名の部類でしょう。「賀」の字がくせもので、「が」なのか「か」なのか。地元では「か」。「かりやすか」と読むのが正しいようです。古文書などには「かりやす」と出てきますので、最後の「か」って何なんでしょうね。苅安賀城には、浅井氏がいたと伝わります。近江で大きな勢力を保ち、織田と衝突して滅ぼされたあの浅井長政の浅井氏と同族の「尾張浅井氏」で、近江浅井氏が滅亡した後に織田信忠
福井県坂井市には「城のまちまちづくり協議会」という組織があります。「日本最古の天守閣を誇りに想う街まるおか」を基本理念とし、いくつかの分科会が構成されています。「城丸(しろまる)部会」という分科会では、「歴史・文化をみんなで語り合う街まるおか。」をテーマに、「みんあの歴史学習会」という勉強会を不定期に開催しているそうです。2026年には、「楽しく分かる歌舞伎の魅力」という学習会も開催されています。で、このたび、筆者にお声がかかりました。【みんなの歴史学習会2026-2】小城小
羽島市には、小牧・長久手の戦いと関ヶ原の戦いという二つの大きな戦いの舞台となったお城がいくつか存在します。今回ご紹介する加賀野井城もそのひとつ。加賀野井城に陣取った加賀野井氏は織田家に仕え、織田信雄の家臣となっていたところで小牧・長久手の戦いを迎えます。当時は尾張国だった加賀野井城は織田方の最前線となり、近隣の竹ヶ鼻城同様に羽柴方の猛攻を受ける形となります。遺構が全く残らない現在では想像できませんが、外郭を打ち破ってあとは本城を残すのみ、と記した羽柴秀吉の文書が残されているそうです。一説には方八
本日2026年10月4日、勝間田城跡セミナー&見学会が無事に終了致しました!会場いっぱい!すごーい!セミナー会場となりました勝間田会館には、120人くらいのお客様にお集まり頂きました。すごーい!「落城」から550年を記念して各種行事が展開されていますが、本番は11/8(日)の大祭。その前座みたいな位置づけなのですが、前座にしてこの盛り上がり。小城小次郎、死力を尽くして知り得る限りの手段を使って、「応仁・文明の乱と勝間田城」を語り倒しました。主催者の皆様のご厚意により、セ
明日(2026年10月4日)に開催される勝間田城跡セミナーは、勝間田城跡550年大祭実行委員会と攻城団とが一緒になって、ひとつのセミナーにまとまって集合する形となっています。攻城団さんから勝間田城現地見学会とセミナーとのご提案を頂いたことで、こんな形となりました。(勝間田城現地見学会は攻城団限定で、予約満席となっています)攻城団さんとはもうひとつの企画を進めています。それが、【城がたり】「名城と一緒に巡る東海隠れ名城の旅」(Webセミナー)。こちらも事前予約制で、以下のリンクから
大御所・小和田哲男先生に、筆者の名を読んで頂きました!11/8に大祭、10/4と11/7に関連イベントが行われる勝間田城跡550年大祭。何が550年かって、落城から550年というから割り切ってます。開き直ってるとも言いますか。11/8「勝間田城趾550年大祭」開催(10/4,11/7に関連イベントもあり)#shortsいよいよ11月8日(日)に、「勝間田城趾550年大祭」が牧之原市立勝間田小学校体育館にて開催されます。私と加藤理文さんによる【歴史シンポジウム】があります(13:
2026年10月の城郭カレンダ―は、福井県の丸岡城。北陸唯一の、現存天守です。二重三階という、なんとも簡素で可愛い天守。かつては高欄ではなく腰屋根だったので、見た目は今以上に三重に見えたのだそう(専門用語が多くてわかりにくいですかね)。ただいま大規模修理中で、覆屋に囲まれています。この状態が2027年秋まで続きますが、修理中の姿を見られるのも考えてみると今だけなので、行って見るとよいのかも。丸岡城下にある「丸岡城のまちコミュニティセンター」では、11月15日(日)に小城小次郎さん(
羽島市竹鼻町にある竹ヶ鼻城は尾張・美濃の国境に位置する関係からか、大きな戦いによく巻き込まれます。代表的なものは小牧・長久手の戦いと、関ヶ原の戦い。天下分け目と言われるこの二つの大きな合戦の両方に絡むお城といえば犬山城がその代表格ですが、竹ヶ鼻城もなかなかのものです。そもそも竹ヶ鼻城のある場所ですが、現在は岐阜県羽島市に属しており、江戸時代にも美濃国に属するエリアでした。ところが戦国時代、天正の初め頃まではここは尾張国だったのだそうです。竹ヶ鼻城の北を流れる境川は、その名が示す通りもともとの濃
JR東海道本線の木曽川駅からすぐ近くの黒田小学校のところに、黒田城跡を示す冠木門や石碑などがあります。この一角がなければ、ここにお城があったことを想像することすら難しいほど、お城の痕跡は残されていません。ちなみに筆者自身は黒田城の存在をほとんど知らず、5年くらい前にとある方から一枚の写真を見せられて「どこかわかりますか?」と問われた際にも答えられませんでした。それがちょっぴり悔しかったので、逆にそれで覚えたようなところもあったりします。ここには、関ヶ原の戦いの後にも大名の居城として用い
「100名城と一緒に巡る全国隠れ名城の旅」出版記念トークショー&サイン会が無事に終了しました!当日はあいにくの雨となりましたが、おかげさまで沢山の方にご来場頂きました。小城小次郎の出版というただ一点だけがテーマの単独トークにお集まり頂くことがどんなにすごいことかと思うと身震いしてしまいます。本当にありがとうございます。トークでは、執筆に至ったきっかけや執筆スケジュール、「隠れ名城」の定義付けやその狙い、「隠れ名城」の選考過程での苦労話などを、生データを駆使して説明させて頂きま
一宮市木曽川町にある黒田城に向かう途中で、気になる石碑を見つけました。「なんとや屋敷」と読めたその石碑が気になって、車をUターンさせて確認したところ、「澤井氏屋敷」とのことでした。これから訪ねようとする黒田城の主でもあった澤井氏の屋敷跡であることを理解し、あとはあとで調べればよいか、と割り切って、黒田城へとそのまま車を進めました・・・で、今、調べているわけですが(笑)。澤井氏はもともと尾張守護斯波氏の被官でしたが守護代の織田氏と反りが合わず、澤井元政の代には美濃に移って土岐氏に仕えてい
初の著書「100名城と一緒に巡る全国隠れ名城の旅」出版記念トークショー&サイン会、いよいよ明日となりました。キャンセルもあったようですので、当日飛び入りでも参加できます。お天気がなんとも言えませんが、逆に言えば明日はお城には行けなさそうですので、ぜひお越しください。プレゼン資料の準備もできました。トークでは、執筆に至った経緯や、いかにして104城を選び出すに至ったかなどについて、生データや生原稿など、作者でなければ絶対に見ることができない資料をふんだんにお示ししつつ、赤
岐阜市に切通(きりどおし)という地名があります。地名の由来は、このあたりに溜まった水を付近の境川に切って落としていたことによるものだそうで、はるか昔には排水用の水路のようなものが文字通り切り通されていたのかもしれません。このあたりは同時に長森とも呼ばれ、源平合戦の頃に渋谷金王丸が長森城を築いたとの説が残されているのだそうです。渋谷金王丸と言えば渋谷駅からほど近い金王八幡神社(渋谷城)に所縁の人物ですが、この時代の他の武将、たとえば長沼五郎とか畠山重忠とか和田義盛などと同じように、全国各地に登場し
更木陣屋は、江戸時代を通じて旗本として過ごした徳山氏の陣屋です。現在は「旗本徳山陣屋公園」として整備されているので名称がややこしいですが、江戸時代の絵図では更木陣屋となっているようなので、ここでも更木陣屋で通します。平成12(2000)年に発掘調査が行われ、その時検出された井戸や礎石等と図面を基に、当時の建物が平面復元されています。公園の入口には門が設けられているので、陣屋の雰囲気を感じることもできますね。旗本徳山氏の祖となった徳山則秀はなかなかの人物です。徳山家は土岐氏から養子
アンバサダーを務めている城びとさんで、拙著「100名城と一緒に巡る全国隠れ名城の旅」をご紹介頂きました!城びとアンバサダーの小城小次郎、『100名城と一緒に巡る全国隠れ名城の旅』を刊行!城びとアンバサダーの小城小次郎さんが、満を持してお城の本を刊行!気になる内容をご本人から紹介いただきました。shirobito.jpいつもお世話になりっぱなしの城びとさん。本当にありがとうございます。発売日以降、筆者も東京都内の大型書店をいくつか歩き回ってみました。平積みされて
2025年の秋、貴重な中世城館がまた一つ消え去りました。各務原市蘇原野口町にあった、野口館。代々この館を受け継がれてきた方がぎりぎりまで保存に向けた努力をされたようですが、最終的には保存整備という措置を受けることなく、住宅地として開発されるに至りました。何百年も続いた城館が、せいぜい30年くらいしか耐用年数がなさそうな住宅へと変貌していくのは何とも忸怩たる思いですが、全国すべてのそうした城館が救えるはずもなく。嘆こうが泣こうが怒ろうが、野口館は恐らく既に更地になったことでしょう。野口館
丹羽郡大口町に小口城があります。小口は「こぐち」とも「おぐち」とも読めるのでどっちなのかと悩まされるのですが、こちらの小口は「おぐち」。「おおぐち」にある「おぐち」なので、語源としては大口と小口に大きいも小さいもなく、同じ「おぐち」なのだろうと思います。ちなみに付近にある大口北小学校の住所は中小口です。ややこしー。小口城は、織田伊勢守系に属する織田広近によって15世紀に築かれました。広近は後に犬山で犬山城の前身とも言える木ノ下城を築いています。小口城を作ったのが長禄3(1459)年、木ノ下
愛知県と岐阜県が境を接するあたりはかつての丹羽郡があった地域です。平成の大合併で日本国中の多くの郡名が失われましたが、丹羽郡は扶桑町と大口町という二つの町によって今も健在です。郡名には古代以来の日本の歴史が詰まっているような気がしてなるべく失いたくないと思っている筆者にとっては、扶桑町も大口町も有難い存在と言えます。大口町からは有名な戦国武将が誕生しています。松江城を作った堀尾吉春。「仏の茂助」とも「鬼の茂助」とも呼ばれたこの逸材は容姿端麗にして礼をわきまえ、人に優しく「仏」の異名を持
小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴方と織田・徳川方の主力軍同士は楽田と小牧山にそれぞれ陣取って、じっと睨み合っていたと伝わります。主力同士という意味では先に動いたのが羽柴方で、世に「三河中入り」と伝わる大規模な軍勢移動が行われ、これを迎撃した織田・徳川方が羽柴方を撃破したのが長久手の戦いです。この時に中入りを主導した武将の一人が森長可で、この長可が陣取ったのではなかろうかと言われているのが青塚砦です。秀吉本陣と言われる楽田城から西に2kmちょっとの位置取りは決して最前線とは言えませんが、本陣近くの
小牧・長久手の戦いに際して羽柴方の砦の一つとして活用された場所です。岩崎山の呼称は文字通り岩が岬のように突き出た場所ということのようで、花崗岩で出来た岩塊からは小牧山城や名古屋城に向けて多くの石材が運ばれていったと言われています。そのため岩崎山には今も石切場の痕跡が明瞭に残り、矢穴が残る石も至る所で見ることができます。花崗岩は時間がたつと自然にひび割れ、あたかも何者かによって切断されたかのような切り口を示すことが多いのですが、岩崎山にも「熊野社の五枚岩」と呼ばれる奇岩があって、今もしめ縄が巻かれ
本日、ついに拙著「100名城と一緒に巡る全国隠れ名城の旅」が発売されました!早くも「届いたよー」というメッセージを頂戴しております。予約申し込み頂きまして、誠にありがとうございます。予約サイト、あるいは配達事情等により、まだ届いていない方もいらっしゃるようですが、しばしお待ち頂ければと思います。ほどなく届くはずです!本著は自費出版ではありませんので、ちゃんと全国の書店で販売されます。とはいえ、無名の著者(筆者のことです)による初の書籍ということで、最初から沢山の部数が発行され
羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康とが小牧付近で対峙した戦いは一般に「小牧・長久手の戦い」と呼称されます。双方の主力軍が小牧で対峙している間に尾張・伊勢を中心とする広いエリアで様々な戦いが展開され、局地戦としては最大の戦いとなった長久手の戦いが突出しており、かつ徳川方の勝利だったということで(恐らくは徳川方の意向もあって)「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるに至ったのでしょう。小牧・長久手の戦いについては近年いくつかの書籍が刊行され、中でも内貴健太さんの「小牧・長久手の戦いの城跡を歩く」(風媒社)と、平
2026年9月の城郭カレンダーは、静岡県の長浜城です。長浜城というのは有名なところだけでも二つ(滋賀県と静岡県)あるのですが、こちらは静岡県の長浜城。北条水軍の根拠地として名高いこのお城は富士山と駿河湾を視野に収める景勝地でもあり、近現代においては某財閥系の別荘がおかれていた場所でもあります。発掘調査とともに順次整備がなされていきましたが、整備公開されて暫くの間は別荘の「トイレ」がそのまま残されていたりして、それはそれでなかなか唯一無二の景観でした。今は別荘の面影もほとんどなくなりま
第42回目となる、全国城郭研究者セミナー。今回は駒澤大学での開催でした。昨年は名古屋でしたが今年は東京ですね。テーマは、「中世城郭の『櫓台』」。わかりやすそうで、難解なテーマです。たたき台として、ここで取り扱う櫓台は、周囲との高低差があること、織豊系以降の近世城郭を除外することを前提として、主に軍事的側面から「何を守り、攻撃するものであるのか」という目的別に分類を行うこととしたそうです。思考の過程では軍事以外の目的(たとえば神社が乗ってるとか)もとりあえず考えないこととし、極端