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高校1年の夏から空手を始めて・2年の春(3年になる前)に黒帯を頂きましたが・・・8月入会で10月の審査を受けて良いといわれ・・それから・・黄色帯になり・・緑帯になり・・茶帯になり帯研があり(顔面ありの組手で・・立ながら気を失っていた事もあったし・・人の肩を外した事もあった)・・2年の10月に一度黒帯を受け保留になり・・12月の審査で2月に黒帯を許されたが・・。私を育ててくださった先輩には・・毎日腕立て・腹筋・色々やりなさい・・といわれた・・道場には、必ず一番に行き居残りでの稽古をし
宇城憲治UK実践塾KenjiUshiroBLOG更新しました。2018/05/14去る2018年5月13日(日)東京町田市文化交流センターにて塾長による体験講習会が開催され、遠くは沖縄から、70人を超える参加者があり、実際の検証を通し「自らに眠る潜在能力」を体験しました。...<参加者の感想(一部)>●沖縄会社員45歳女性YI頭がこんがらがっていますが、本やDVDよりすごすぎて……感動です。これだけのために今日、日帰りで参加しましたが、身体で体験する素晴らしさ、本当に
気には色々な能力、可能性が満載ですが・・宇城先生は、その可能性を追いまた実証し、色々な方向からその能力を研究探索しておられます。そういう事を、じかに体験すると・・その不思議を自分自身でも実証してみたくなるものですが・・。10年前は、生活レベルでの気の検証からはじまり・・・姿勢を整えたり、気持ちを整えたり、普段の生活の中で当たり前にやって居る事に、実は姿勢という概念が内在していて、そこに気が働き掛けて来たりする。そういう基本、基礎から学び・・・、それを自分でもやってみると・・やっぱ
記憶・・・消してはならない・・決して忘れさせてはならないモノ・・その価値の大切さは、人それぞれですが・・。そういう感性は、生まれもっての血の中にも、うずもれています。伝統、格式、・・風習・・・武道、武術、芸事、etc.しかし、不思議にもその家に伝わる大切な物は・・心として受け継がれて行く・・家に限らず・古くからの地域性のある場所には必ず、伝統的風習が残っているものです。それは、日本に限らず、世界中が大切にして居る・・思いであると考えます。歴史の重み、その中で私達は何を感じ、
武道という言葉は・・武術と言う言葉から発祥しました。戦場で、身を守る為に編み出された術が、武術です。そして、戦が無くなった江戸時代に武術と言う言葉は、「武道」という言葉に代わっていきます。自分を生かす→自他を活かすに、変わったのだと考えます。術とは、意識を超えた処で身体が動く事を言うのだそうです。まさに、身について居るレベルで意志や意識よりも先に、心体が勝手に動いてくれるレベル・・それは、戦場という特殊な場で、得とくする感性であります。稽古場で・・それができるのか
灯と言えば・・高野山の弘法大師のお灯明、1000数百年の間、一度も消える事なく・・・その灯を絶やす事なく受け継がれて来て居るという。まさしく、「油断するな」「油断大敵」と言う言葉は、この高野山の弘法大師の灯明を絶やさない、受け継がれて行く意志の元に、1000数百年を繋いで来たのです。この灯明を絶やさない事の一つの意義は・・・弘法さまを忘れてはいけない・・常に心に持って修行し、人々を導く灯りとなりなさい。そう言う訓戒が、ある様にも思えますし・・また、もっと厳しかったり、優しかったり色
とりあえず。本日も500振っときました(^^♪3100。。この写真は、数年前に熱田神宮古武道大会の三学円之太刀一本目「一刀両段」左が使太刀の私、右は名古屋幹事の○木さん、相手に取っては、十分な先輩です。「一刀両段」とは・・・新陰流の極意である雷刀からのガッシ打ちが基本です。お互いの人中路を合わせ我人中路を真直ぐに斬り通せば、自ずと勝ちを得る。打太刀の切り出す拍子に合わせ・・先に斬りだして来る打太刀の上に竹刀を乗せ相手の上を取る。現代風に言えばカウンターですが・・・この技が
今日も、少し?素振りを500程・・いっときました。昨日までのと合わせますと・・2600本。だんだんと、自分の間違えが観えてきます。そう・・以前やって居た事が・・なんの拍子からか・・・そう・・緩めると言う事に拘り過ぎたせいで・・間違った事になっていました。そして、その間違いに気が付いた事で・・更に先に進む事が出来る様になりました。これぞ・・稽古の醍醐味ですね。簡単な事の様で、実は簡単ではないのです。腕を動かすとか・・握るとか・・何々をするという単純な動きではとらえる事の
いやいや・・本日、まるっと2週間お休みした後の、お仕事でした。連休前に怪我をして・・運がいいのか悪いのか・・連休突入で仕事に穴をあける事も少なくすんだ?まぁ、仕事の関係の方がたには、ご迷惑をおかけしました。本日、大した事もなく・・無事・・帰還・・多少の違和感と、本来の力加減は出ない物の・・なんとか、かんとか・・ありがとうございました。さて、本日も昨日に引き続き・・木刀での素振り1000回を・・帰宅して30分ほど休憩・・それから約1時間半強・・最後のストレッチまでいれれば・約2時間。
怪我をしてから、丁度2週間になります。医者に行って居ないので、定かではありませんが・・ハムストリングの肉離れ・・。武道の前に準備運動をしない私は、過去にも間だからだが温まっていない・・とか、少し疲労が蓄積して筋が硬くなっている状態で、稽古をしていて・・同じ所を痛めて居ます。今回は、武道の稽古中ではないですがww過去一番ひどかった様に思います。治るという事は、過去の経験上の延長でわかっていますが・・・その中で一番ひどいという印象の物が治るのに・・どれほど懸るのかと言う事は、疑問ではり
本日は・・・疲れからか・・昼前後から泥のように眠れる自分が居る。少し眉間のあたりに違和感を感じて居て・・・頭痛?か?と思いきや・・それ以上に進展がない。このところ、ネット住民時間が長かったので、目が疲れて居るのか?それとも、やっぱり5月病ならぬ・・5月にこの半年の疲れがでている。やっぱり、この時期に連休があると言うことは・・世の中の人の傾向を観て・・それなりの配慮を国がして居る?勝手な勘ぐりをしたいたりもする。まぁ・・5月病と言う事が、世の人の認めるところであるのなら・・やっぱり、
良く言われているのですが・・戈を止めると書いて武と読みます。つまり、平和を守る為の術が、本来の武であるのです。すなわち、武を思う処、生活を守ると言う事が根本に無ければなりません。そのために、心胆をねり、腕を磨き技を活かし、心身を鍛えたという事であります。しかして、現代を見るに・・その感性から遠く離れた処で、武を楽しむという感じがしています。当然、今の日本の治安をかんがみれば・・欧米諸外国・発展途上の国々に比べれば、本来の武と言うモノに対する意識が、非常に低いとも考えられます。
道塾体験講習会は、年に数度・・各地で行われて居ます。日本古武道由来の気の能力を目の当たりにし、その素晴らしさを体験できる良い機会です。武道での上達を志す方々よりも、まったく武道に関係の無い方々の方が、純粋にその力を感じ取れるのではないでしょうか。気という事のみに、囚われることなく・・宇城先生のお話の中にある、心や・・今見て居る事の先に何があるのか・と、いう探求心を持って学ぶ事が生活レベルでの気を実感でき、生活で活かす事に出来る気の大切さを痛感できるのだと思います。武道の達人と言
とても、興味深い事ですが・・魔がさす・・という事に気を付けておかなければなりません。興に入りすぎると・・刀を傷つけたり、自分を切ったりしますので・・・私も・・刀を手に入れた・・1年以内の時に・・自分の左手を突き刺す様な事をしています。真剣を持つ前に、3年ほど2尺3寸5分の居合刀で制剛流を抜いていましたので、抜き差しに関しては、2尺5寸の本身でも問題はあまりありませんでした(慣れ)お盆に独りで・・畳表を切っていたのですが・・疲れて来たりすると・・精神力で抜こうとします・・それは、心体
刀は、武士の魂と言われて居る程・・・大切にされた物です。日本には、古来よりの美術品が多く大切にされ時代の流れを感じさて暮れます。・・その時々の文化の流れや風潮・流行りなどをその品物の中に情報として埋没させ・・・現代に、贈り物として伝えられています。重要美術品・重要文化財・・その多くを刀が占めているのです。ですから、私達は刀を手にした時・・それなりの礼をとり刀を尊重し、その物に相応しい所作が取れる様心掛ける事がたいせつでは、あります。当然、重要・・という部類・・あるいは、特別
体の使い方と言う事が、とても重要です。手だけ・・足だけ・・という、部分をいくら強化しても・・身体全てを一つにして行く力には到底及びません。伝統文化の型稽古をどう熟して行くか・・まず、その型の特徴を色々な角度からとらえて行ってみる・・・順番を覚える・・そして、基本・移動稽古で指導・注意を受ける事をそのまま型に落とし込んで行けるような感性で・・型を稽古する。まずは、イメージを固め・・先生や指導員の方々が教えて下さる、見本を見せてくださる型をなるべく忠実に映せる様心掛ける。・・・・・と
自由が良いのは知って居ます。自分のやりたいように、自分勝手に・・自分の為に・・・自分が良ければすべて良し・・と・・いう言葉を並べて行くと・・・なんだか、不安になりませんか?これでいいのだろうか・・・・本当に、よいのだろうか・・いやいや・・そんななずはない・・・でも・・・わからない・・。結局、身勝手な思考は・・何の根拠もない・・自由からうまれてきますから・・結果、自由と・・言う事で悩んでしまう。何も変わらない・・事の、繰り返しなのに・・自由が好きだから・・と、いう事だけで・・
抜くに関しての最近・・の、私を観直す。イメージに近い抜きを、実現できて居る感が強いです。壁など前にして、抜く時はやはり壁に斬りつけない様きをつけますから、どうしても動きが小さくなりがちですが・・・下から抜きつける時に、私は鞘を返しません。特別に、意識して稽古をした事は、無いのですが・・鞘をひっくり返して・・鯉口や鞘の中を傷つけないように配慮して抜くという事は、道具や自分を傷つけない為にも、配慮すべき事ではあります。しかし、それは・・楷書の動きであり・・・実は、その動作(鞘をひっくり返
斬るという事は、最期の最期の勝負ですが・・斬るという行為の前に、勝てて居る身体性を練り上げて行かなければなりません。また、刀を納める前の残心、その後の、納刀で全てが活きて居るという、納得感を得る事の出来る様な、心持ち、身体操作、刀捌き、鞘捌き、所作の美を求める。その集大成が、型で有る事がの望まれます。どの部分を抜粋しても、同じクオリティーで動き、そして納まるという感性は、鏡をみたり動画をみたりしながら確認はしますが、結局は自分のイメージ通りに動いて居るのか・・と、そのイメージと言うモノが
地味な稽古ではありますが、又・・腕の使い方がメインでもありますが・・・目に映らない処を、確認しながら稽古をしています。目に映らない処の使い方が、本当に大切であるという事を、自覚した上で、そこが働いて居る感性があれば、それでOKです。
観れるとは・・思います(^^♪近々の、自分の抜刀稽古を観直して居ます(^^♪
今年の初め・・・同じ1月4日に、型稽古の後の稽古です。しかし、型稽古なくして、この表現はできません。すべて、型が基本です。
私が、制剛流を稽古する時に意識している事は、「位を創る」と言う事です。それは、今の私の感性の中では、じっくりと・・ゆっくりと・・・等速を意識しながら・・です。そして、黒田先生の著書の中にも・・・これは、私の感性とは違うのかもしれませんが、等速を大切にしておられるという事が、書かれてありました。この等速こそが、抜く瞬間の爆発的な加速を生む起爆材なのかもしれません。太極拳・・を・・見せて頂くに何故このようにゆっくりとした動きなのか?という疑問を持つ事も多いと思われます。私の考察(素人)か
どう出版「言葉では一億分の一も学べません」宇城憲治著『空手と気』より...自分のレベルで「わかる」は、「わかっていない」ということ術技を極めようとするなら、またそれを本当に身につけるには、道場の稽古だけでは不可能です。道場を離れた日常の場で師の真髄に触れることが必要です。それは道場を離れた所での日常のなにげない話から師の言葉の深さや思い、心を汲み取ることができるからです。また比喩などもそうです。たとえば、空手の基本とは・・・とい
って、言いましても大した事ではありません。近況的には・・少し不自由な生活を3日程重ねています。日曜日には、スマホなるのもを新しいタイプに代え・・・・結局、以前の物は、メモリー数というのを抑えたタイプで・・・使用して居た為に・・・1年半程で・・・すでに、メモリー数がレッドゾーン・・あまり、こういう物を使いこなせるタイプではないのですが、インターネット自体は活用したいという願望があり・・メモリーが無くなりかけて居る事に、懸念を持っていました。タイミング良く・・携帯電話会社からメールが入り
大昔・・・どれぐらい?まだまだ自然が沢山あった時代・・・。歩いて旅をして居た頃は・・・きっと、今なら当たり前に知って居る科学的な事を・・その時代に生きていた・・ほとんどの人が知らなかったはず・・・。しかしながら・・・今の時代・・文明という機械化の波の中・・・・歩いて旅をして居た人達が当たり前に知って居た事・・も、忘れ去られようとして居る・・そんな事が、沢山あるはずだ。文化と言う時代の贈り物の中で・・何とか伝承され続けて来た、大切な教えも・・・便利、横着・・etc.で・・・忘れ去られ
極真空手創世期のヒーロー方々が、時を移さずお亡くなりになられておられます事、非常に残念に思うと共に、岸先生、廣重先生のご逝去をお悔やみすると共に、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。お二方との、面識は一切ありませんが、極真空手長谷川道場で、初心を学び・・新極真厚木鈴木道場で空手を再開し、そして誠道塾愛知支部・ニューヨーク本部で学ばせて頂いた、私の中には、その存在はいつの間にか、入り込んで居る・・。それほどの、巨星お二方であったと、思います。岸先生の空手に対する姿勢、その姿勢を育んだ大自然や環境、
今日は、久しぶりの稽古でした・・が・・・全て?繋がって来て居る今・・・自信のある自分に、ある意味不思議を感じある意味・・・何故?という疑問符の中に居ます。自分の進歩進化が、感じられる度に、同じ様な事を書いていますが・・色々な事に気付けている事に・・やはり感謝せねばなりません。全て、宇城先生に理を解いていただき、それを実践できて居るから気付く事が出来るのだと、その理の正統性に感謝するばかりです。出来てから分かる。身体先にありきの・・気の世界感を持てた事は、どうでしょう・・日本
型稽古は、自分と向き合う稽古であり、人に見せることを本意とはしません。今回、当館では・・あまり外に出さないサンチン・ナイファンチ・パッサイ・クーサンクーセイサンの型の一つを動画としてUPしました。特に、隠すことはないのですが・・まぁまぁ・・それほど・・見せるほどのものではないということでしょうか・・。剣道は、独特の世界感がありますので・・見せてもなんだか、わからないというところが強いのかな・・と、思うところもありますし・・。新陰流を本格的に、稽古している人が少ないということもあり
今日も、稽古の中の話に・・・型から学ぶ心を養う事を言いました。型をある意味・・意志のあるモノとして扱う事。観えない、物言わない・・型ではありますが・・多くを語り・・多くを意識付けさせてくれます。その型が無ければ、武道の伝統・伝承は途絶えてしまうのです。学ぶ意識が乏しければ、その事に気が付く事は、難しいでしょう・・なおかつ・・普遍性の中で・・その事を意識した時・・自分勝手が先行してしまっては伝承はできません。等速で有る事は最低限ですが・・さらに、ゆっくりでも効かせて行く事の