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ご訪問ありがとうございます。いよいよ垂仁天皇も終わりに近づいてきました。30年春正月6日、天皇は五十瓊敷イニシキ命・大足彦オオタラシヒコ尊に「そなたたちは、おのおの願い事を言うがよい。」とおっしゃった。兄の皇子は「弓矢を得たいと思います。」と答え、弟の皇子は「皇位を得たいと思います。」と答えた。そこで、天皇は「おのおの望んだままにしなさい。」と仰せになって、まず弓矢を五十瓊敷命に賜り、そして大足彦尊には「そなたが必ず私の皇位を継ぎなさい。」とおっしゃった。え⁉️言うたもん勝
『『川島神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~善入寺島と七十五の神事の謎~』『『中内神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~阿波藍と秘密の女神~』『『事代主神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~大物主と二柱の事代主~』『『建布都神社』…ameblo.jp↑のつづき。さて、善入寺島(粟島)に想いを馳せながら川島神社を後にして、車でさらに西へ数分。『大明神農村公園』の看板を発見。カッコよすぎる園名に興奮しながら奥の石段を進む。立派な鳥居。この山の上には、多くの古墳群が眠っている
<無料フリースクール・カープ雑学講座-103>【日本の歴史/大和時代】3C-7C・日本書紀・古事記・崇神天皇・垂仁天皇・仁徳天皇・推古天皇・聖徳太子・大化の改新・遣隋使・遣唐使など
ご訪問ありがとうございます。さて、倭彦命については終わりましたが、彼が倭姫命とともに歩んだのではないかと考えられる「倭姫巡幸」のコースにはどのような意味があるのでしょうか?ここでもう一度「倭姫巡幸」の範囲を見ていきますと、尾張には一宮市より先には入って行かないことがわかります。これはこのシリーズの「倭姫考」でもお話ししたのですが「画文帯神獣鏡」という鏡があり、これが考古学の福永伸哉さんによると尾張・三河(愛知県)を中心とした三遠式銅鐸の地域に入っていかなくて、また三角縁神獣鏡の古い
ご訪問ありがとうございます。さて、この前の続きになりますが、以前の「続ヤマトタケル倭彦考」の中で述べた、倭彦命がヤマトタケルのモデルの一人ではないかという推論をもう一度あげておこうと思います。実はヤマトタケルには、伊吹山の遭難の後、伊吹山で白鳥に変じた、あるいは滋賀県側に下りて、そこで白鳥になった伝承が残っています。それも神社の社伝といった口伝えのものではなく、ひとつは藤原仲麻呂=恵美押勝が編纂した「家伝」の「武智麿伝」で、お父さんの武智麻呂のことを伝記にしているのですがその
日本で最初の天覧相撲が行われた。場所は、奈良県桜井市にある相撲神社だ。時代は、十一代垂仁天皇の時代だった。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/Pk2scFUV4l8日本で初めての天覧相撲當麻蹶速と能見宿祢が戦った。結果は、能見宿祢が勝った。垂仁天皇隣席で天覧相撲が行われた。戦いで負けなしの當麻蹶速だ。戦うものはいないのか。と、豪語していた。相手に選ばれたのは、能見宿祢だった。史上初めて、天覧相撲が行われた相撲神社だ。日本書紀では、能
ご訪問ありがとうございます。最初のはすすっと流しますので、とりあえずお付き合いを。26年秋8月3日、天皇は物部モノノベノ十千根トオチネノ大連オオムラジに命じて、「使者を出雲国へ派遣し、その国の神宝を検分しようとしたが、(神宝について)明答できるものがない。そこでそなたが自ら出雲に行って、検分調査してまいれ。」と仰せになった。そこで十千根大連は神宝を調査して、明らかにしたことを天皇に申し上げたので、(天皇は)神宝を管轄することにした。ここは出雲の神宝をめぐって、出雲臣振根が誅伐された
ご訪問ありがとうございます。「日本書紀」には簡潔に書かれていた「倭姫巡幸」のコースですが、平安時代の「皇大神宮儀式帳」、鎌倉時代の「倭姫命世記」とどんどん詳しくなっていきます。以下Wikipediaの両書の説明です。「皇大神宮儀式帳」『皇太神宮儀式帳』は、皇太神宮(内宮)に関する儀式書で、1巻・23条からなる。804年(延暦23年)8月28日に、大宮司・大中臣真継、禰宜・荒木田公成、大内人・磯部小紲らによって神祇官に提出された。その内容は、皇太神宮の年中行事の大綱、神々鎮座の伝承、宮
ハラミ山に生えるチヨミ草というにがい薬草を食べながら、日本のお国をよくするために、ただひたすら尽くしてくださったアマテルカミさまは、神上がりされる前に、サルタヒコさまに遺言を残されました。「昔、そなたに与えた、三つの宝(注1)をもちいて、常に天と繋がりながら、国を守りなさい。そして、いざというときに、道を示しなさい」サルタヒコさまは、そのお言葉を、気が遠くなるほど永い間、守り続けました。アマテルカミさまが最後に過ごした伊勢のお宮に、三つの宝をお祀りし、その時が来るのを、待っていました
ご訪問ありがとうございます。前回の相撲の起源は、実は丹波の五人の后妃とホムツワケ王の伝承の前にあるのですが、狭穂姫との関連でまとめたので、年次的に前後してしまっています。正しい順序はこうなります。4年9月23日、狹穗彦王の叛乱を計画5年10月1日、皇后狹穗姫命による垂仁天皇の暗殺未遂と狭穂彦王の叛乱と鎮圧。狭穂姫命自死で崩御7年7月7日、當摩蹶速と野見宿禰の試合15年2月10日、丹波の五嬢の入内23年9月2日、誉津別王の白鳥伝承となります。「日本書紀」では誉津別王の話は、出雲
ご訪問ありがとうございます。春場所真っ只中の大阪府立体育館(エディオンアリーナ大阪)週一でこの前を通るので、3月は準備中も入れて3回ほどこの景色を見られます。混んでて大変なんだけど、不祥事やコロナでないことが続くと、寂しいものです。さて、タイミングよく、垂仁天皇のところの相撲の起源伝承なので、そこだけでも書いておこうと思います(^∇^)垂仁天皇7年秋7月7日、側近の者が「當麻邑タギマノムラ(奈良県葛城市當麻タイマ)に勇猛果敢な者がおり、當摩蹶速タギマノケハヤといいますが、その人の
ご訪問ありがとうございます。さて誉津別命ホムツワケノミコト(誉津別王ホムツワケノミコとも)は生まれてまもなく母の狭穂姫を失いますが、即位してすぐの后妃と皇子女を記載したところには、生アれまして天皇愛メグみたまひて、常に左右モトトに在オきたまふ。壮ヒトトナりなりたまふまでに言マコトトはさず。とあり、父の垂仁天皇の側近くで、可愛がられて育つのですが、大きくなっても言葉を発することができないのでした。23年秋9月2日、天皇は群臣に対して「譽津別王ホムツワケノミコは今年30歳となり、胸まで
古代史にまつわる1テーマを3分でまとめるというコンセプトで始めたYouTube「古代史新説チャンネル」の【3分古代史サーガ】シリーズの第2回目は、古代史最強のヒーローである「日本武尊(やまとたけるのみこと)」についてまとめました。今回も内容をテキストとして本ブログに残しておきます。動画より文字の方がわかりやすいという方は、こちらをご一読いただけますと幸いです。※内容は、本ブログ「邪馬台国と日本書紀の界隈」および「古代史新説チャンネル」で考察した仮説をもとにまとめています。【3分
ご訪問ありがとうございます。今回からはホムツワケ王の物語です。実は「古事記」「日本書紀」の両方にこの話がのっていて、大筋は似ていてもけっこう肝心なところで違うのですが、このあとの景行天皇のヤマトタケルの話になると、内容がめちゃくちゃ乖離しますので( ̄▽ ̄;)「古事記」の作者は神代や神武東征、欠史八代などの、新しい部分の創作には関与したけれど、もともと伝えられていた崇神天皇以下の編纂にはノータッチだった、という見方と一致します。ここでは「日本書紀」を読むのが目的なので、まずは「日本書
皆様こんにちは😊3月に突入時が経つのがこんなにも早く感じるのはワタクシだけでしょうかさて今回も【愛知、岐阜への参拝】パート②です。伊奈波神社www.inabasan.com伊奈波↹いなばと読みます。祭神編集垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を主祭神とし、妃の淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)、母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)、外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと、稲葉国造の祖)、臣下の物部十千根命(もののべのとちねのみこと)を
ご訪問ありがとうございます。長くなってしまうので2回に分けましたが、「日本書紀」の続きの天日槍アメノヒボコの記事だけあげておきますね。出石神社(兵庫県豊岡市出石町)(垂仁天皇)3年春3月、新羅王子、天日槍アメノヒボコがやって来た。持ちきたる物は、羽太ハフトの玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々ウカカの赤石アカシの玉一箇・出石イズシの小刀一口・出石イズシの桙ホコ一枝・日の鏡一面・熊の神籬ヒモロギ一具ソナエ、併せて七物あった。そこで但馬国に収蔵して、常に神の物とした。但馬国の一之宮、出
「人生」忍耐(255)★スクラップを久しぶりに見る。同じ意味ならポジティブが楽(尾も白い)*一位いいかげん⇒おおらか*二位気が多い⇒好奇心旺盛*四位飽きっぽい⇒切り替えが早い*八位空気が読めない⇒周りに流されない*十位往生際が悪い⇒粘り強い◆古代豪族の婚姻の意図婚姻の目的は表向きは融和と見せかけての服属化である。○崇神天皇ー紀伊国造の娘・尾張連の祖先の娘垂仁天皇ー丹波国から姉妹▲神祇政策の推進○神武が三輪山の巫女と結婚したこと
こんばんは。古墳っぽいようなヤツに登って来ました。2代目大工の三島です。前回の桃太郎神社。→ユーモラスなコンクリート像群。犬山市の桃太郎神社へポタリング。とても楽しく興味深い場所でした。その帰り道も思い返しては楽しむ。行きと同じくノンビリなポタリング。でも時間もう少し時間もある。なのでちょっとだけ寄り道。やって来たのは各務原の蘇原。小さな小山の入口。この山頂にあるのがコレ。市隼雄命(いちはやおのみこと)墳墓です。岐阜市の一番大きな神社、伊奈波神社。ソコの祭神の子ども
ご訪問ありがとうございます。今回から垂仁天皇の巻に入ります。とりあえず読んでみましょう。活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇(崇神天皇)の、第三子である。母の皇后曰御間城ミマキ姫は、大彦命の娘である。天皇は、崇神天皇29年壬子ミズノエネの年春正月1日瑞籬宮に生まれ、生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。(崇神)天皇はたいそう可愛がって、お側にお置きになっ
2023年8月中旬、夏休みで、福岡に帰った際に、佐賀県と長崎県の北部に、プライベートで、出撃して来た速報レポをアップしましたが、こちらもまた、シリーズでアップして行きますよん。2023年8月17日・18日の佐賀県・長崎県の北部出撃速報レポ『昨日今日は、松浦鉄道乗り鉄旅と、池島炭鉱坑内体験ツアーに、出撃!』昨日2023年8月17日と、今日2023年8月18日は、佐賀県と長崎県の北部に、プライベートで、出撃して来たんですよね(^^)昨日は、松浦鉄道に乗って沿線…ameblo.jp
【倭姫宮】「月夜見宮」へいく途中気になったので、夕方になってしまいましたが、「倭姫宮」へ⛩️倭姫宮は、皇大神宮(内宮)の別宮御祭神は、倭姫命(やまとひめのみこと)倭姫命は第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫宮@三重県#倭姫命#皇大神宮別宮#youtube.com鳥居をくぐる前から気持ちよさを感じ入ると、森のような空気✨近くには、神宮美術館や神宮農業館があり次行く時は、もっとゆっくりしたい場所です#倭姫宮#三重県#神宮美術館#神宮農業館#皇大神宮別宮
兵庫県朝来市に鎮座する但馬国一宮粟鹿(あわが)神社へお参り。京都駅から山陰本線で簗瀬駅まで向かう。京都駅での待ち時間と乗り継ぎの待ち時間を合わせると、特急列車に乗っても到着が同じになるので普通列車のみで行く事に。京都駅から園部まで行って、豊岡行きに乗り継ぎ。乗り継ぎ待ちをしている時に、この先IC乗車券が使えない駅がある、と放送があったので、園部駅で手続きをして切符に変更。待ち時間があってよかった。園部駅での待ち時間20分を含め約3時間の普通列車の旅となりました。簗瀬駅から粟鹿神社ま
「蒙古襲来絵詞」今週末は紀元節と初午ですみなさん、おはようございます将棋の王将戦藤井聡太八冠は強かったです20代の青年は異次元の人材の集まりのように思います20代の世代に美しい日本を引き継ぎましょうアリガトウ「2月9日」の國史です「蒙古襲来絵詞、作られる」永仁元年(正応6年、1293年)蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は肥後国御家人の竹崎季長(たけさきすえなが)が文永・弘安の役(元寇)で世界最強の蒙古(モンゴル)と戦った様子を克明に記録さ
奈良市山陵町。第11代垂仁天皇皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)狹木之寺間陵へ。再訪です。青年不詳〜垂仁天皇32年7月6日。垂仁天皇の2番目の皇后。拝所。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇の他2皇子、2皇女を産む。「日本書紀」によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により、同15年2月甲子(10日)に丹波から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に皇后に立てられた。この頃から殉死の悪習は絶たれ、墳丘上には埴輪が並べられたと
古事記の一節によると第10代、垂仁天皇は不老不死の薬といわれる、時じくの香の木の実(別名:非時香果)を探し求める為に田道間守を呼びました。一年中とても良い匂いを放つ非時香菓というものがあるらしいので手に入れて持ち帰るように命じました。探し回ること10年ついにその非時香菓を見つけました。美しい黄色の実と葉のついた枝であり、その時に持ち帰った非時香菓は橘の実でミカンの原種といわれております。私の場合は上記の前知識なく本当に周囲の空気を清浄にしていると感じるくらい、かなりハッキリとした素晴
古代日本の物語りを覚えている者は幸せである❗️心豊かであろうから・・・私達はその記憶を印されてこの日本に生まれてきたにもかかわらず思い出す事の出来ない性を持たされたから・・・それゆえに稗田阿礼の語る古事記の物語りを伝えよう・・・こんばんは😁Hickey超訳・古事記シリーズの超訳者のHickeyです😁Hickey超訳・古事記シリーズでイマイチわかりにくかった部分を補完するのがHickey超訳・古事記:解説版となります☝️😁このシリーズも回を重ね今日でナント11
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一昨日投稿しました「イクメイリヒコイサチ(垂仁天皇)と久米氏とを結ぶもの」を、まちがって削除してしまいました。今回アップしたものも基本的に同じ内容ですので、既に読んで下さった方には、再読して頂くほどの変更はありませんが、こっそり、足しておきました。せっかく「いいね!」をして下さった方々、大変申し訳ございません。以下、再投稿です。_______________________________________________________________________________
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