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今年の秋の彼岸も終わりました。いきなりの墓地画像でビックリ!かもしれませんが、別にお墓を撮ったわけではなく中央にある花に二匹のアゲハ蝶が確認できるでしょうか。お墓参りの時にアゲハ蝶が登場すると、亡くなった方がアゲハ蝶の姿となって、故人とのつながりや、人生の新たな始まりを告げる、非常にポジティブでスピリチュアルなメッセージとして解釈されています。アゲハー揚羽蝶といえば平清盛率いる平家(伊勢平氏)の家紋としても有名ですが、以前は源平合戦といえば源氏と平家の戦いで平家滅亡ということ
『いわかけるセカンドバージョンPART7』傭兵韓国の情報機関、国家情報院(国情院)は18日、北朝鮮がロシアのウクライナ侵攻に「参戦」するため、「特殊部隊など4個旅団計1万2000人規模の派兵を決定した」と明らかにした。北朝鮮が1.2万人派兵決定ウクライナ侵攻に「参戦」―韓国政府:時事ドットコム【ソウル時事】韓国の情報機関、国家情報院(国情院)は18日、北朝鮮がロシアのウクライナ侵攻に「参戦」するため、「特殊部隊など4個旅団計1万2000人規模の派兵を決定した」と明らかにした。北
鎌倉歴史文化交流館の特別展「異国襲来文永の役750年東アジアと鎌倉の中世」を見に行く前の散策。巽神社の少し先には、八坂神社。源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府初期の御家人となった千葉常胤の“次男・相馬師常”が、邸内に守護神として勧進したのが始まりだとか。御祭神は、スサノヲノミコト桓武天皇葛原親王(かずらはらしんのう※桓武天皇の皇子の1人)高望王(葛原親王の子で、臣籍降下し、桓武平氏初代・平高望となる。)※千葉氏は坂東平氏(桓武平氏良文流の子孫)。社殿の裏手の石碑。神輿庫の
令和6年、最初のキック・ザ・ツアー。成就院が管理する虚空蔵堂から更に長谷駅方向へと進み、江戸時代・寛政年間の建物を遺す和菓子屋さん“力餅屋”の角を曲がると、御霊神社。↓鳥居のすぐ前を江ノ電が走るという立地で、江ノ電と鳥居のセットで撮影をしたいと思う人が増えている。その関連で何かトラブルでも有ったのか??近年は境内撮影禁止となっているので、この日の、ここから中の写真は無い。御祭神は、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ※坂東平氏の一族)。平安時代、奥州での「後三年の役
碓井貞光は、平良文(桓武天皇の孫・高望王※臣籍降下して“平高望”の五男であり、平将門の叔父)の孫、もしくは曾孫と思われる。貞光の子孫は、坂東平氏の鎌倉党、及び、三浦党となったという。生まれは、現在の群馬県側から軽井沢へと登る碓氷峠と言われ、先のブログにも書いたとおり、足柄山で坂田金時(金太郎)を見出だしたのみならず、この碓氷峠に住み着いた大蛇を十一面観音の加護の下に退治したという逸話も。(今昔物語)後に、頼光の弟・頼信(頼朝の先祖)にも臣従したとか。歴史は常に動いている。
かつて、関東で“新皇”とまで祭り上げられたあの『平将門』を御存知でしょうか?平安時代の朝廷支配に一石を投じ、最後は朝敵とされてしまった平将門の一生を、是非、御覧下さい!↓https://youtu.be/dphIY99xgwk私の番組『歴史のお話』で、“平将門”を取り上げた時の録画です!チャンネル登録も、どうぞ。安心して下さい。登録も、視聴も、無料ですよ!
平氏出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動この項目では、日本の平氏について説明しています。漢姓については「平(姓)」をご覧ください。平氏揚羽蝶(代表的な家紋)※各、平氏によって異なる。氏姓平朝臣氏祖天皇の諸王種別皇別著名な人物平将門平忠盛平清盛平時忠平重盛など後裔桓武平氏仁明平氏文徳平氏光孝平氏凡例/Category:氏平氏(たいらうじ、へいし)は、日本の氏族のひとつ。姓は朝臣。日
源義朝は源為義の長男として生まれる。子供の頃のある日、父(為義)に呼び出されます。義朝に為義が伝えます。(お前は東国へ行け)都育ちの少年、義朝は親元を離れ、都の遥か東(関東)行きを命じられたのです。幼いわが子に出した非常な命令、そこには源氏の将来がかかっていました。平安時代、源氏を初めとする武士は天皇や貴族を守る家来に過ぎませんでした。屋敷の中に座る貴族に対して外で控える武士の姿仕える=さぶらう→さむらい貴族にとって武士は自由に使える使用人のような存在でした。しかも、源氏はラ
4月5日水曜日に、千葉城の夜桜を見たのですよ。※さくら祭りは4月9日(日)まで。これ、夜の6時から9時までライトアップされています。千葉城ってね、本当は写真のような城郭の形をしていなかったんです。「お城」がこういう風になったのは「信長や秀吉が外見で敵をびっくりさせる」ということをやり始めた戦国時代からですね。ですから坂東平氏の棟梁である千葉常胤公がここにお城を構えて城下町を作っていた頃(12世紀)は、平城(平屋)だったのです。それでも高台の要塞だったら天然の地の利を得て勝てまし
「麒麟がくる」の染谷将太は、斉藤道三に会ったとき、「織田上総介でござる」と自己紹介してました。こういうとき「信長です」と諱(イミナ)を名乗らないのが、日本の武士のキマリです。ということで、織田信長は、若い頃、「織田上総介」と名乗っていたわけですが。上総って千葉でしょ。織田は尾張(愛知)の戦国大名でしょ。なんで?のちに尾張守、弾正忠(父と同じ)などと名乗りますが、この最初に名乗った「上総介」っていったいなんだ、という話をします。桓武平氏の祖である高望王は、平姓を賜った直後、上総介に