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期日前投票の数値は投票所の投票率とは別になりますが。私は昨日までに期日前で投票してきました。
皆さんこんにちは!森こうじです。地方議員の国政選挙での役割。我々「地侍」の役割は、地元の皆さまにしっかりとお願いできているか。それが最大のポイント。SNSも大事。街頭演説も大事。でも、投票所の投票率は直接的に「地侍」の評価になると思っています。国政選挙に関わらず、普段から政治的な活動が盛んな地域で、政治に興味を持ってもらえる環境が整っているはず。市街地、過疎地、様々な環境はあるにせよ、それが選挙で数字に表れる。私は地侍として、このバロメーターは大事に分析したい。さて、今回はど
「その後の物集女氏」と題する歴史講演会に行ってきました。講師は地元の小学校の校長先生で、勤務校近くの地域の歴史について史・資料を集め、丹念に調査された成果の「中間報告」とのことでした。向日市文化資料館の研修室が会場で、結構広い部屋ですが、満席で立ち見の人もいました。定員50名ということでしたが、申込み制ではないので100名ぐらいは来ていたのでは?物集女というのは、向日市から京都市西京区樫原(かたぎはら)方面に向かう南北の街道=物集女街道(府道67号線)と、桂川・久世橋方面から西行し、J
※こちらの記事は、平成29年10月15日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回はまた『哲学ニュース』の記事「大航海(だいこうかい)時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について検証してみようということで、第1回ヨーロッパと日本の距離について第2回日本から産出された資源について第3回日本の産業について第4回日本とヨーロッパの戦力差(前編)第5回日本とヨーロッパの戦力差(後編)第6回1501年時点での日本の統一状態について第7回1549年時点で
国衆、国人というのは地生えの独立小領主のことで、もともと京都から派遣されてきてその国を管理していた守護にとっては、自前の家臣ではなく、いわば取引先の下請け企業みたいな存在です。この状態のままなら、一国のなかに多くの勢力がまだら状に混在する、不安定なままです。室町幕府に権力があるうちは守護の権威も効きますが、乱世になると国人たちは独立性を強め、その国の守護が頼りないと見るや簡単に隣の国の保護下に走ろうとします。これでは国はバラバラになりますので、これらの国人を家臣団の一員として再構成すること
皆様、如何お過ごしでしょうか?私は本を読んだり散歩したりして過ごしています。今回はそんな散歩のついでに地元の名所旧跡をご紹介したいと思います。こちらは堅田衆という中世~戦国に活躍した地侍の屋敷居初家屋敷です。浅井、朝倉、織田、明智やその使者が謀議に訪れたのでしょうか?普段は観覧できます以下、大津観光ガイドより❮堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史
以前このブログに「国衆とは」というテーマで一文を書いた。その時にブログに付したヒエラルキーの図にこうした国衆(国人たち)の下に「地侍」との表記をした。そもこの「地侍」とはなにものなのか。侍なのか、ただの百姓なのか、これが分からないと、戦国時代も良く分からない。鎌倉幕府自ら拓いた土地はその者のものになるという方針を示し、従来の高級貴族、大寺社が保有権を持つ荘園制度を次第に解体していく。そして武士による土地私有が実質的に行われていった。また幕府は、義経追討を名目に荘園の警備
皆さん、こんにちは。いつもありがとう。R君からの質問です。中世・社会経済史違いがよくわからない国人と地侍の違いがよくわからない状態です。守護との主従関係の有無が関係するのでしょうか国人と地侍R君、こんにちは。国人は、地頭から在地領主へと成長した、室町時代における地域の有力武士層です。ここは必ず学習するところで、R君にとってわかりにくいところではないはず。一方、地侍とは、農村の自治的結合である惣(惣村)の指導者が国人などと主従関係を結んだ場合の呼称で、室町時代
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切畑城(美方郡新温泉町切畑字城の尾)切畑城は岸田川支流の照来川右岸、切畑集落南東の標高約475mの丘陵に所在する。城域は東西約120m・南北約90mある小規模城郭である。集落との比高は約135mを測る。切畑は照来地域の東端に位置し、そこから柤岡(香美町村岡区)方面に抜ける事ができる。城主や城史に関する伝承や記録は不明であるが、規模的には地侍クラスの「村の城」である。部分的に小規模な曲輪群が残るところから、その築城起源は南北朝期に遡るが、戦国末期の堀切・堅堀や畝状堅堀による補強・改修が顕著で
『尻啖え孫市』という地侍がいます。作家・司馬遼太郎氏(故人)の同名小説の主人公です。作品で描かれる孫市は、鉄砲の名人にして無類の女好き。赤い陣羽織の背に定紋の八咫(やた)烏(がらす)(三本足の熊野烏(からす))を黒く染め抜き、無敵の織田信長に“尻啖わせる”痛快なストーリー。孫市のファンは多いようです。しかし、孫市の実像となると、その生年はおろか、その死さえ、秘密のベールに包まれる謎の人物なのです。司馬氏も小説のラストを「(孫市は)風吹峠(和歌山県岩
清富城(美方郡新温泉町清富字段々畑)清富城は岸田川・久斗川右岸、清富集落北側、標高約67mの丘陵に位置する。城域は広く、東西約180m・南北約300mもある。集落との比高は約57mを測る。城主や城史に関する伝承や記録は不明である。城は城域も広く、南北朝~室町期には地侍連合か下級国人の持城であったものと思われる。戦国期の『但馬国にしかた日記』(弘治3年・1557)には、清富(当時は極楽寺村)に「極楽寺孫兵衛」「極楽寺弥助」など「極楽寺」を冠した名前がみえる。また、相応峰寺の永禄年間(155
高井城(美方郡香美町村岡区高井字鳶ヶ岡)高井城は湯舟川左岸、高井集落南東、標高約360mの尾根中程に所在する。集落との比高は約110mある。城域は東西約90m・南北約50mを測る小規模城郭である。城主に関する伝承や史料は不明である。高井城は小規模であるが、堀切・堅堀などによる戦国期の改修が顕著である。縄張りから考えると、室町期に築城した城を、戦国期に改修したものであろう。規模的には、地侍層が築城した小規模城郭で、村人が非常時に逃げ込むための「村の城」と思われる。弘治三年(1557)の「但
毎年のように村へ略奪にやって来る野武士集団。泣き寝入りばかりしていた村人たちはついに戦うことを決意し、七人の浪人たちを雇って見事、野武士集団を全滅させる。ご存知、故・黒澤明監督の名作『七人の侍』のストーリーです。それでは、野武士というのはどういう人たちなのでしょうか。有名な日吉丸の伝記にも野武士が登場します。日吉丸というのは豊臣秀吉の幼名とされますが、事実ではありません。それはともかく、この物語ではまず、矢作川の畔で眠っていた日吉丸が橋を渡る馬蹄の音
日本史の基本歴史の問い8(中世対外関係+戦国期+室町文化)(リンクは「問い」に対する答え、もしくは解説がある記事を示す)➊海禁政策とは何かを説明せよ。→日本史の基本99(22-2日明貿易)➋日明貿易の経過を,簡潔に説明せよ。→日本史の基本99(22-2日明貿易)➌中世の日朝貿易が日本の社会にもたらした,もっとも大きな変化について説明せよ。→日本史の基本100(22-3日朝貿易の特徴)➍琉球王国のもとでの琉球船の活動の特徴を説明せよ。→日
23-2戦国大名の領国支配戦国大名(せんごくだいみょう)は、家臣団(かしんだん)統制や領国支配のための政策を次々に打ちだしていった。➊指出検地(さしだしけんち)土地の面積・収入額・耕作者などを記した土地台帳を、家臣などに提出させる自己申告方式の検地。これにより、戦国大名は農民と土地に対する直接支配の方向を強化していった。➋貫高制(かんだかせい)領国内の土地・地代などを銭に換算した数値を貫高(かんだか)といい、領国の直接支配をめざす戦国大名は、この貫高を、農民から年貢
本日は晴天鳴り!益々のご繁栄を祈念致し候。ということで、ござるwwwなんだか侍言葉にw侍といえば、どうやら僕の祖先は地侍、苗字から調べると中信から南信あたりの出のようです。父親の田舎の遠い本家は大地主さんで(僕には全く恩恵はありませんwwwですけど本家のおじいさんは日本画の絵描きだったようですので、その血が流れてるのかもしれませんw)、どうやら地侍だったようですので、なるほどなと思うところはあります。って、そんなことはどうでもいいですがwww、侍といえば、名古屋(愛知)は三
「真田丸」の主人公は真田信繁であるが、彼の父親の真田昌幸がこのドラマを9ヶ月という長きにわたり引っ張ってきた。前回「昌幸」で九度山蟄居生活を強いられた昌幸は没し、いよいよ今夜からは名実ともに真田信繁(幸村)が主人公となる。ここでおさらいしてみよう、真田氏とはそもそもどのような家なのか。平安時代の中頃に皇族から出て信濃国の佐久、小県に下りその地を支配した滋野氏があった。その流れの中に滋野三家といわれる海野、望月、祢津があり、真田氏は海野または祢津の流れと云われる。どうやら滋野一族で
2-10戦国の争乱(SNG上p.109~p.113)➊貫高制の内容について、戦国大名の支配のもつ過渡的性格がわかるように説明せよ。→参考:教科書の研究(貫高制)➋地侍とは何かを説明せよ。→参考:一橋大論述新研究8(98-Ⅰ問題)→参考:一橋大論述新研究9(98-Ⅰ問題を考える)→参考:日本史の基本103(23-2戦国大名の領国支配)➌寺内町のもつ都市としての性格を説明せよ。→参考:日本史の基本104(23-3都市の発展)➍寺内町の代
*問題は、「一橋大論述新研究8(98-Ⅰ問題)」で確認してください。解説2つの時期(中世後期と近世)を対象に、2つの身分(武士と百姓)のあり方の変化とその背景(太閤検地の役割)を説明しなければならない。つまり、設定されている論点は5つ。解答の基本形は、「中世後期、武士はA、百姓はBだったが、Cという特徴をもつ太閤検地により、近世には武士はD、百姓はEへと変化した」、ということになるだろう。やや難しいのはここまでで、内容的には、教科書レベルといってよい。A~Eの順に