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「仰ぎ見る空の色さへ澄みはてて、木枯らしの風吹きにけるかも」は、土田耕平の短歌です。澄み渡る青空、舞い散る木枯らしの風から感じるのは、秋の深まりと静けさでしょう。少し立ち止まって季節の中の静かな美しさを見つめてみませんか。
コスモスは倒れたるままに咲き満ちてりとんぼうあたまとまる静かさ土田耕平の短歌です。コスモスを読んだ短歌は他にも複数ありますが、わたしはこの歌がイチバン好きです。コスモスは咲く時期が台風シーズンと重なるせいか、花の高すぎる茎が風になぎ倒された場面を見かけることがあります。でもコスモスは外見の可憐さの反面、【倒れたままで、新しい根を伸ばし新しい花をつける生命力を持っている】花なのだそう私は小さなコスモスにも及ばないパパちゃんの看護生活をしていた頃、「あみねこ」つながりで知
千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな土田耕平がこの短歌を詠んでから100年今日は関東大震災から100年土田耕平の飯山での短歌と詩きはだちてふかき峯こそあらなくにこの地のすがたわれは親しむ歌集「斑雪」千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな歌集「斑雪」国境の山低くしてつらなれり北に落ちゆく千曲の河水
8月20日【残暑なほ】残暑なほ単衣の肌に汗ばめど磯の木蔭に鳴く蝉もなし土田耕平ーーーーー残暑がなおも続き、単衣でもまだ汗ばむほどに暑いのに、磯の木蔭にはもう鳴いている蝉の姿は見えない秋の訪れを感じながらも、残暑にうなだれる作者の様子が伝わってきます#和歌#残暑なほ#土田耕平
今日は、下の王子のピアノ発表会へ。ちびっ子たちが素敵なお衣装着て(女の子たちめちゃ可愛い〜)一生懸命弾いている姿は、本当に可愛くて愛おしくて。遥か彼方昔の自分の発表会を思い出す。おかんと、私の最初の発表会の話になって、どんな服着たとか、前夜に細かく三つ編みしてソバージュ(もはや死語)にしたねぇとか、色々話した。そんなでティールは覚えてるのに、肝心の弾いた曲は全く覚えていない・・・。楽しかったなぁ〜小さい王子、とっても上手に弾けてたし、偉かった。初めての発表会って(初め
千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな土田耕平の歌碑飯山城址公園に建立されています。土田耕平はアララギの歌人。土田耕平は100年前の、大正12年(1923年)不眠症治療のため、島木赤彦の紹介で飯山で転地療養し、飯山を詠んだ短歌や詩などの作品を多く残しました。この歌はその時の千曲川に架かる中央橋で詠んだ作品です。当時の中央橋は、板橋でした。#千曲川#土田耕平#板橋#アララギ派歌人#長野県#長野県飯山市#横丁大家の店番日記
妙専寺の土田耕平の歌碑建立から30年~土田耕平が飯山で転地療養し,この歌を詠んでから100年。かにかくに人のなさけに我れ生けり手にとりて見る珠数の一房~土田耕平の短歌妙専寺に歌碑として建立かにかくに人のなさけに我れ生けり手にとりて見る珠数の一房この短歌は、寺の姨よりもらひうけし珠数を弄びつつ思ひつづくることありという詞書をつけて詠んでいます。妙専寺で療養生活をおくっていた土田耕平が、ある時妙専寺の奥様に「どうもこの頃眠れなくて困る」と嘆かれたそうです。その時奥様が、新しい珠数を持っ
皆様、ごきげんよう(^-^)今日は[名古屋教室]の受講生・村上芳江さんの朗読で土田耕平作「大寒小寒」をお聴き下さいませ。♬(*^・^)ノ⌒♬《村上芳江さんのプロフィール》日本朗読協会パートナースクール認定講師有資格者━☆♬(*^・^)ノ⌒♬☆━土田耕平作「大寒小寒」〈朗読村上芳江〉━☆♬(*^・^)ノ⌒♬☆━━⇨【Wikipedia土田耕平】♬(*^・^)ノ⌒♬〈村上芳江さんの朗読チャンネル♬〉⬇朗読☘️そらいろのたね🍀|
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろですお母さんの思ひ出お母さんは、炬燵の上に庖丁とおこがしを、用意してゐた。おこがしは柿へつけて食べるのだ。お母さんは、柿を二つに切つて、大きい分を私の前において、「さあ、お食べよ。」と云つて、小さい方を自分で小口に食べながら、「ああ、おいしいわね。」と云つた笑顔が、電燈のかんかんしてゐる光にうつつて、うつくしく見えた。私もほんとにおいしかつたけれど、何とも云はなかつた。熟柿を食べてしまふと、すぐに読みさしの太閤記をひらき、お母さんは
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろですお母さんの思ひ出私の家は、細い露路の奥にあつて、門燈一つついてゐるきりで、うす暗いところだ。そこから二三町ゆくと、大通がひらけて、まぶしいほど明るい。私は五銭玉をしつかり握つた手を、ふところへ入れて駈けて行つた。頬ぺたがちぎれるやうに冷たい。大通へ出たすじかひに、果物屋のあることは、よく知つてゐたけれど、ふだん買ひつけたことなんかないので、何と云つてよいか、すぐ言葉が出ないで、私は黙つて店さきに突立つてゐた。すると店の爺さんから、「坊
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろですお母さんの思ひ出「ええ?」と私は聞きかへした。お銭(あし)をいただいて買ひ食ひをしたことなど、一度だつてなかつた。まして、お母さんから、そんなことを云ひ出したことなどあらう筈がない。私は何だか偽のやうな気がして、ぼんやりお母さんの顔を見てゐると、「あのね、熟柿を一つ買つてきておくれよ。おいしいだらうと思ふから。」とお母さんは、顔を赤くしてまた云つた。かりかりと氷つた冬の熟柿ほど、身にしみておいしいものはない。私は田舎の親戚で食べ
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろですお母さんの思ひ出土田耕平私が十一か二の年の冬の夜だつたと覚えてゐる。お父さんは役所の宿直番で、私はお母さんと二人炬燵にさしむかひにあたつてゐた。背戸の丸木川(まるきがは)の水も、氷りつめて、しん/\と寒さが身にしみるやうだ。お母さんは縫物をしてゐる。私は太閤記(たいかふき)かなんぞ読みふけつてゐる。二人とも黙りこくつて、大分夜も更けた頃だつた。「孝一や。」とお母さんが呼んだ。私は本が面白くて、釣りこまれてゐたので、「ええ。」と空(
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろです雪に埋もれた話「一体この人は何だらう。こんな洞の中にいつも一人でゐるのだらうか。」などとお秋さんは考へました。そのくせお秋さん自身が、どうしてこんな洞の中へ来たのか、それについてはちつとも考へませんでした。その中に柴の束はだん/\燃やしつくされて、すつかりおしまひになりました。炉の火が消えてしまふと一所に、男はぱつちりと目をあいて、「御苦労々々々。もうかへつてもよろしい。」と云ひました。お秋さんは大男を怖いと思ふ心は、全く消えてゐまし
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろです雪に埋もれた話「もつとこつちへお出で。」と大男が云ひました。声は低いが底力があつて、洞一ぱいひゞきわたりました。お秋さんは恐る/\三足ばかり前へ出ますと、「柴をおろしな。」とまた大男が云ひました。お秋さんは雪に降りこめられた時のまゝ柴の束を背負つてゐたのです。さつそく背中からおろしますと、「こゝへ焼べな。」とまた云ひました。大男の前には炉があつて、とろ/\火が燃えてゐました。お秋さんが柴をくべますと、火は勢よく燃えあがつて、洞の上か
歌うように朗読したい社会保険労務士のゆきまろです雪に埋もれた話土田耕平お秋さんは、山へ柴刈に行つたかへりに、雪に降りこめられました。こん/\と止めどなく降つてくる雪は、膝を埋め、腰を埋め、胸を埋める深さにまで積つてきました。お秋さんは、大きな柴の束を背負つたまゝ、立ちすくんでしまひました。「もう助かりやうはない。」と思つて、目をつぶつて静かにしてゐますと、だん/\気が遠くなりました。そして、何時間たつたことやら分りませんが、誰か自分を呼ぶやうな気がしてひよつと目をあいて見ますと、雪
アララギ歌人土田耕平の歌碑~千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな~城山公園に建立~江沢岸生さんがんばれ!~36~千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかなこの歌は、アララギ派の歌人土田耕平の歌です。土田耕平は、島木赤彦の紹介で、飯山神明町の妙専寺で約3ヶ月間療養生活を送りました。飯山へ来たのは大正12年7月。この年の9月1日に関東大震災がありまししたが、土田耕平は大震災の時はまだ飯山にいました。「千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな」の板橋は、今の中央橋です。中
島木赤彦像下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館下飯山市外様出身清水謹冶島木赤彦と清水謹冶が親友だったことで~斎藤茂吉&土屋文明などの著名な歌人等が飯山へ~飯山再発見のための連載~58「清水謹冶」その32清水謹冶と島木赤彦不眠症のような症状に悩む土田耕平は、毎年夏になると暑さを避けると言う意味もこめ、あちこちで1ヶ月ほどを過ごしました。飯山へは、島木赤彦が無二の親友である清水謹冶に頼み、清水謹冶が紹介して神明町の妙専寺で療養生活を送りました。1ヶ月ほどの予定が、3ヶ月半にも延
古田先生の書斎斎藤茂吉の歌集の初版本蔵書のほとんどは飯山市立図書館「愛宕山房古田文庫」として保存されている「高田浪吉」~昭和23年~古田十一郎青年の招きで来飯し、「島木赤彦の短歌について」の講演会~飯山再発見のための連載~57「清水謹冶」その31清水謹冶と島木赤彦アララギ歌人の高田浪吉は、大正12年8月妙専寺で療養中の土田耕平を見舞うために飯山を訪れただけでなく、昭和23年学校の先生方を対象にした講演会の講師として飯山を訪れています。飯山市社協が出版した古田十一郎「とうど塾」講演
アララギ歌人「高田浪吉」は、大正12年8月土田耕平を妙専寺に見舞い短歌を残されている~飯山再発見のための連載~56「清水謹冶」その30清水謹冶と島木赤彦土田耕平が、飯山妙専寺に来て療養生活を送っていることを「アララギ」歌人達は、島木赤彦から聞くと同時に、アララギに発表される土田耕平の短歌からも知るところとなりました。恐らく大勢の歌人達が、土田耕平を見舞うために飯山に来られたと思いますが、記録がないので分かりません。ただ、アララギ歌人で、大正5年アララギに入会し、島木赤彦に師事して「ア
常盤屋旅館の看板も見える看板には「宇都宮自動車部出張所」とある駅前通り線開通式飯山駅駅周辺に旅館や食堂が開店し~乗り合いバスも営業開始~土田耕平が飯山で暮らした時代~飯山再発見のための連載~55「清水謹冶」その29清水謹冶と島木赤彦島木赤彦が初めて飯山に来たのは大正7年11月。土田耕平が妙専寺での療養生活を送るために飯山に来たのは大正12年7月。飯山鉄道の飯山駅までの開業は大正10年10月。飯山駅開業を前にし、飯山駅周辺は活気に溢れていました。飯山駅が升の浦という田んぼの中
土田耕平が詠った飯山町市ノ口土田耕平が飯山で暮らした大正12年~飯山駅が開業した直後で、駅周辺は活気に溢れていました~飯山再発見のための連載~54「清水謹冶」その28清水謹冶と島木赤彦土田耕平は、不眠症のような症状を改善するため、病気の療養と言うことで、気持ちは沈んでいました。その沈んだ気持ち寂しい気持ちは、短歌にも詩にもよく現れています。飯山飯山の町は、丘にそひて寂しき町。昼なほひぐらし啼き青葉ごもりに、寺古りしその丘。飯山の町は、河にそひて寂しき町、
土田耕平が療養生活を送った妙専寺のある神明町通り飯山の町は、丘にそひて寂しき町。昼なほ、ひぐらし啼き~土田耕平の「飯山を詠った詩」飯山再発見のための連載~53「清水謹冶」その27清水謹冶と島木赤彦土田耕平は、飯山滞在中に、短歌や詩などの作品を残しました。「きはだちてふかき峯とてあらなくにこの地の姿われは親しむ」この歌は、飯山の素晴らしさを表現するために、今でも通用する素晴らしい短歌だと思います。土田耕平が妙専寺での療養生活を送ったのは大正12年。飯山線の豊野・飯山間が開通したの
かにかくに人のなさけに我れ生けり手にとりて見る珠数の一房~土田耕平の短歌妙専寺に歌碑として建立飯山再発見のための連載~52「清水謹冶」その26清水謹冶と島木赤彦かにかくに人のなさけに我れ生けり手にとりて見る珠数の一房この短歌は、寺の姨よりもらひうけし珠数を弄びつつ思ひつづくることありという詞書をつけて詠んでいます。妙専寺で療養生活をおくっていた土田耕平が、ある時妙専寺の奥様に「どうもこの頃眠れなくて困る」と嘆かれたそうです。その時奥様が、新しい珠数を持ってきて耕平に渡し、「眠れ
千曲川流れて遠しこの丘は慧端禅師のおくつきどころ~土田耕平の「飯山正受庵にて」の一首飯山再発見のための連載~51「清水謹冶」その25清水謹冶と島木赤彦島木赤彦から清水謹冶が頼まれ、妙専寺で療養生活を3ヶ月半飯山で過ごしたアララギ歌人土田耕平は、多くの短歌や詩を残しました。大阪毎日新聞に掲載された飯山正受老人の墓にて5首は土田耕平を見舞いに来た、アララギの歌人の高田浪吉と一緒に正受庵を参拝した時の歌だと言われています。この下に夢やたふとくおはすらむ年古りてゆく石文の文字お墓の下に
冬の千曲川桑名川付近奥ふかく何かこもれるものありて北国空は澄みゆかぬかも~土田耕平の歌集「斑雪」の「飯山にて」に~飯山再発見のための連載~50「清水謹冶」その24清水謹冶と島木赤彦土田耕平が妙専寺で療養生活をした大正12年は、10月20日ごろには向こうの山、三国山脈に雪が降ったようです。木の間には雨の雫のしげくして向こうの山に雪降りにけりという短歌があります。仰ぎ見る空の色ふかしこの町に雪の来む日は近づきにけり鋭いまでに澄んだ空の色を見て、冬が近いんだなあと感じた歌です。国
歌碑のある場所からも千曲川と越後境の山が見える千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな~土田耕平の短歌~歌碑となり飯山城址公園に~飯山再発見のための連載~49「清水謹冶」その23清水謹冶と島木赤彦土田耕平が妙専寺へ来たのは大正12年7月。一ヶ月の予定が3ヶ月に延びました。9月1日には関東大震災もありました。土田耕平の「飯山にて」という短歌はきはだちてふかき峯とてあらなくにこの地の姿われは親しむの他6首あります。木ずえふく風あらあらし鳴く蝉の声はまぎれてまた聞かざらむ妙
妙専寺の隣のお寺本光寺愛宕町通り神明町通りはお寺が軒を連ねているきはだちてふかき峯とてあらなくにこの地の姿われは親しむ~土田耕平の「飯山にて」7首のうちの一首飯山再発見のための連載~48「清水謹冶」その22清水謹冶と島木赤彦土田耕平は、神明町の妙専寺での療養生活をしながら、時折飯山の町の中や千曲川のほとりを散歩しました。そして耕平は、妙専寺の奥様を始め、後に飯山小学校の校長になる横山秀男さんや、やはり学校の先生となる秀正さんなど妙専寺の皆様の暖かなお世話を受けたこと、散歩の途中での
土田耕平の飯山での生活~ひと月がふた月、ふた月がみ月に~飯山がすっかり気に入られました~飯山再発見のための連載~47「清水謹冶」その21清水謹冶と島木赤彦アララギ歌人土田耕平は、飯山神明町の妙専寺で転地療養生活をしました。耕平は、最初は座敷で暮らしていましたが、本堂の裏手にあった狭い部屋に移って生活しました。妙専寺は、昭和27年の火災により焼失してしまい、耕平が暮らした座敷やその小さい部屋もなくなっていますが、妙専寺の奥様は、不眠症の耕平にかなり気を遣われたと言います。耕平は、時々
妙専寺清水謹冶土田耕平が妙専寺へ来たのは大正12年7月~関東大震災の年でした~当初の予定は1ヶ月~飯山再発見のための連載~46「清水謹冶」その20清水謹冶と島木赤彦島木赤彦から土田耕平の療養先を探して欲しいと頼まれた、清水謹冶は神明町の妙専寺の奥様に事情を話し引き受けてくれるように依頼しました。神明町の妙専寺は、後に飯山小学校の校長になられた横山秀男さんのお宅です。その頃、秀男さんは長野師範学校を卒業して柳原小学校に勤めていました。清水謹冶から頼まれた妙専寺の奥様は、「そんな、
清水謹冶が、島木赤彦の依頼に応え~土田耕平の療養先として紹介したのが~神明町妙専寺~飯山再発見のための連載~45「清水謹冶」その19清水謹冶と島木赤彦島木赤彦は~信州信濃の飯山町は行って見なされよい所と童謡に詠うほど飯山の町が大好きでした。そして島木赤彦は、「君達、僕の尊敬する友人の住む町、臨済禅中興の祖、白隠禅師の師正受老人の庵のある町、飯山町へ一度は行って見給え!」と、ことある度に歌の仲間や、弟子達に声をかけていました。島木赤彦の誘いに応え、大勢の歌人達が飯山を訪れ