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トップページ都道府県別索引へ岐阜県の索引へ鷺山城は岐阜の中心地から北に6kmほどの住宅地の中にある。平地の中にボコッと盛り上がった鷺山一帯が城で、東の麓には堀で囲まれた居館があったという。その歴史は12世紀末の文治年間にまで遡り、佐竹常陸介秀義が居城にしていたとか。その後は土岐氏の城となり、戦国時代の一時期は美濃の守護所が置かれたこともあった。天文元年(1532年)土岐一族の相克の中で土岐頼芸が枝広館ついで稲葉山の麓に移り、最後は斎藤道三の隠居所となったが、弘治二年(1556年)の長良
揖斐川町町谷汲岐礼の法雲寺(臨済宗妙心寺派の寺院)にいきました。ここは土岐家最後の美濃守護の土岐頼芸の墓があります。山門の左手前に高さ1,4mの自然石の墓がある。この土岐頼芸は斎藤道三によって追放され、最初は越前さらに関東に移り住んだが、老年に至って天正10年(1582)夏旧臣の稲葉一鉄がこの岐礼郷に迎えた。同年12月4日に至り82才で亡くなり、この法雲寺に墓があります。この後根尾川沿いの県道255号線を北にいき、根尾川の橋を渡り国道157号線を少し北にいった本巣市金原の円勝寺(浄土真宗
*5月5日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。本日は、斎藤山城守道三のおはなしです。あんみつ「先生、天文十五年(1546)九月、長年争った土岐頼芸(よりのり)と次郎頼充の叔父甥が和睦しました。頼充は斎藤左京大夫利政(道三)の娘婿に収まった翌年、24歳で急死。知行を継いだ弟の八郎頼香(よりたか)は利政に対し不信感を持ったようですね、油断させて始末したん
*4月28日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。本日は、斎藤左近大夫利政のおはなしです。あんみつ「先生、長井新左衛門尉の名跡を継いだ斎藤道三の生年は、かつては明応三年(1494)と言われてました。最新研究では永正元年(1504)。史料上の初見は30歳になった天文二年(1533)六月、長井新九郎規秀(のりひで)名義です。それにしても、親子してころころ名
*4月21日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。本日は、長井新左衛門尉のおはなしです。あんみつ「先生、かつて斎藤道三一代記と思われた前半生は、道三の父・長井新左衛門尉の人生でした。出自は貴族日野家の青侍だった松波氏の庶流というのが現時点の最有力で、山城国は西岡(現:京都府西京区)が本貫地です。幼くして日蓮宗妙覚寺の小僧になっていました。法名は峯丸改
※こちらの記事は、令和2年5月16日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第13~14回)に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【『麒麟がくる』の楽しみ方】・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4
山県市の椿野はじかみ林道にいきました。この林道は、武儀川沿いの山県市佐野から大桑への林道になり、峠近くに古城山への登山口があります。広い駐車場があり、今回はここから大桑への林道を下って古城山展望台にいきます。この登山口がある古城山は、大桑城といわれ美濃守護土岐氏の居城になります。それまでは、守護所といい岐阜市内の枝広館にありました。土岐氏の凋落によってこの地に移転させられた。守護土岐氏の最後になる土岐頼芸が、当時の実力者斎藤道三によって追放されこの大桑城は廃城になった。古城山登山口の
斉藤氏から織田家へ斉藤道三の美濃の乗っとりに必要だった美濃金山城斉藤正義(妙春)が築いたと言われていますが、道三の猶子(養子)として道三の支援を受けていたことには間違いないと思います。1537年に城を建てとされる時は道三の長男である義龍でさえ8歳〜10歳だったということになれば、なんらかの縁故である近衛稙家の庶子の多幸丸その後大納言妙春とした正義をもって治めさせ、当時まだ服従していない東濃の国衆らに対して、道三の同名衆で尚且血筋の良い妙春(正義)をもって
今、テレ朝系の「謎解き伝説のミステリー・本能寺の変」を見てました。結論は明智光秀は武田信玄のスパイだった説。綿考輯録(めんこうしゅうろく)と言う細川家代々の記録に斎藤利三の10歳の息子の証言が載っていたそうな。おおまかに明智は東美濃の時代にすでに武田信玄に取り込まれており、信玄死去してからもバレずに織田方の武将として大出世したが、武田氏滅亡の際、武田家家老の穴山梅雪が徳川家康に寝返り、急いで本能寺の変を起こした。これちょっと反論しようが無い・・・多分、安土城の饗応で徳川
明智城跡から北方に見えた「美濃金山城」を訪ねます。可児市兼山の町は、もともとは「金山」と書きました。今から350年前頃に「兼山」と書き方をかえた町です。北側を木曽川が流れ、湊もあり、多くの人や物が行き交う交通の要衝でした。そこに城を築いたのが、斎藤正義という人物でした。この時期は、斎藤道三が美濃国を乗っ取ろうとする、まさに下剋上の時代でした。正義は関白近衛植家の子として生まれますが、庶子であったこともあり出家させられています。16歳の時還俗し「正義」を名乗ります。「斎藤」
三宅弥平次⑦「明智光秀書状写」(福井県史)『御書謹致拝見候誠其以降者、依日々取乱候、不能言上候、相似疎略候哉、迷惑仕候、仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、今畏存候、元来此方無事之覚悟本意之旨、今以其分候、然二越州御同心之筋目候之条、致満足候、就其書物写由爲御披見進上仕候、朝倉殿へ御次之時者、可然様ニ被成御心得被仰越可忝存候、宜預御披露候、恐惶謹言、八月廿二日光秀(花押)前野丹後守殿』三宅弥
法雲寺は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲岐礼にある地蔵菩薩を本尊とする臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は東春山。土岐頼芸終焉の地として知られる。開基稲葉良通土岐頼芸の墓岐阜県指定史跡揖斐の領主であった稲葉良通が没落していた旧主の土岐頼芸を招いて館を設けたのが起源である。土岐頼芸はこの地に移ってから間もなく没したため、その居館を草庵に改め、その名を法名の東春院殿左京兆文官宗芸大居士に因み東春庵とした。ようやく血圧も落ち着き…今月の中には山城へ行けるかな…
自分の絵をミッドジャーニー先生にリメイクお願いしたら楽しかったのでその続き。今度は読み仮名が最近やっと確定した土岐頼芸(ときよりのり)さんのイラストをお願いしてみました。腕に鷹を載せているイラストになります。元絵が↑こちら。↓ミッドジャーニー先生へリテイクお願いしたもの・・・。鷹と人物は別々に発注しろと怒りの(?)ご提案(笑)。よくあることなのでしょうかわかりませんが。でもチャンと侍っぽいおっさんと鳥で出してくれたのでちゃんと認識してくれてるんだとちょっと嬉しかった。とりあ
話題のAI絵師『Midjourney(ミッドジャーニー)』さんに、今度は自分が描いた絵を見てリメイクをお願いしていました。そうしたら、なんか元絵によってだいぶ提案される絵のやる気に差がある気がしましたのでそのご報告。まずは、最近描いた陽性さん(ママ)ことフェアリーのリメイクをサラッとお願い。わぉすぐに一応ワタシの絵もみてくれたっぽいのに断然に素敵な仕上がりのご提案が。↓↑右側の絵とか結構こちらの絵の雰囲気をのこしてくれていていい感じ。表現の注文を追加たところ、だいぶ印象は変わってし
御望山・・・鵜飼山城があったとされる山この辺りの山は城址や砦の宝庫なのか?西側の山は前回紹介した筵田砦の船来山東側には上城田寺の城ヶ峰城ヶ峰の南は城田寺城のあった下城田寺東北側には紹介済の石谷の山石谷の北はこれも紹介済の安楽寺のある岩利の山御望山すぐ北側には城址があったとされる安食の山その西側には大平山大平山は掛洞城祐向山城法林寺城山口城と連なっています掛洞以外は宝探し的な薄い遺構が多いです
史跡めぐりの記事です。今回は、岐阜県山縣市にある大桑城です。土岐氏の府城となった山城ですが、かなり奥まった場所にある岐阜県下では、登城に時間がかかる体力消耗度の高い城です。大桑城(おおが)城は、逸見義重が承久3年(1221)の承久の乱での功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされるが始まりとされています。天文4年(1535)年に発生した長良川の大洪水により、枝広にあった土岐氏の守護所は大きな被害を受けました。当時の守護土岐頼芸は、大桑に政治的機能を移し、城と城下町
土岐頼武(ときよりたけ)は、戦国時代の大名で美濃国の守護大名である。土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の三女。子に頼純。(Wikipedia)土岐頼芸は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣
【問題】美濃国の守護大名・土岐頼芸は、あるものの絵を好んで描いたが、そのあるものとは次のうちどれか?【選択肢】海鷹滝馬【正解】鷹【解説】土岐頼芸(よりのり/よりなり、など)は、文化人としても知られる。守護在職中から好んで鷹の絵を描き、それらは「土岐の鷹」として現代にも伝わる。
土岐氏は清和源氏の一流で、室町時代に美濃守護となって繁栄したが、戦国時代には内紛などで家運が傾き、頼芸の時に斎藤道三によって国を追われて滅亡した。一説には、道三の子義龍の実父ともされる。頼芸の墓は、揖斐郡揖斐川町谷汲岐礼の法雲寺にある。
●土井利勝の家系図(父徳川家康)1※参考文献ウィキペディアABRJ・FC2ホームページ土井利勝◎土岐光行(?~1249年10月26日)⑤土岐光定土岐頼貞(よりさだ)(土岐本家)②饗庭光俊(あえばみつとし)→22代・氷見清貞(饗庭次郎あえばじろう。土岐氏?)妻・大河内貞重の娘→氷見貞愛(ひみさだちか)(父・徳川家康)土岐光定⑦土岐頼貞
●西郷局の家系図(徳川家康。明智光秀。土岐頼芸)土岐頼忠(池田四郎頼世)(1323年~1397年9月2日)土岐頼益→土岐頼芸明智頼兼→明智光秀西郷頼音(さいごうよりね?)(三河守)西郷頼音(妻・西郷殿?)数代西郷稠頼(ちかより)(岡崎城、築城)(1452年、岡崎城築城。龍燈山城りゅうとうざんじょう)西郷頼嗣(よりつぐ。弾正左衛門)西郷信貞(松平昌安)(?~1525年8月10日)娘(夫、
●明智光秀の家系図④(揖斐氏。番外編)※参考文献ウィキペディア日本通信百科事典〇揖斐氏。岐阜県揖斐川町。土岐九郎頼貞(頼定)(伯耆守ほうきのかみ)(1271年~1339年4月1日)⑥土岐六郎頼清(頼宗)①土岐頼康娘(夫・二条良基)②明智頼兼娘(夫・長山頼重)④揖斐頼雄(いびよりかつ)
ある日のこと歴友あきさんから『ブックカバーを作りにいかない!?』とお誘いがきました。歴友あきさんに会えるならばと『いいよ~♪』と即答いたしまして後日関ケ原へ。関ケ原へ着陣し本日のイベントを検索!当日調べる愚か者越前兵( ̄▽ ̄;)それがコチラ↓美濃和紙を使った土岐の鷹・・・日本画家の先生の指導のもと??(;◉`ᾥ◉´)ゴクリブックカバー作りって絵から描くの??絵(え)ーーーーっΣ(・ω・ノ)ノ!大河「麒麟がくる」で土岐頼芸(ときより
先月の新聞記事からですがひさびさに戦国ネタを。美濃守護土岐頼芸については、令和2年大河ドラマ『麒麟がくる』で尾美としのりさんが演じられていた武将。といった方がわかる人も多いかと思います。この美濃守護土岐頼芸の名前“頼芸“のよみについてなのですが、これまで「よりあき」「よりなり」「よりよし」「らいげい」など長年テキトーに呼ばれてしていました。ところがこのたび江戸時代のものではありますが、書状に「芸(藝)」に「のり」とルビがあるものが見つかりました。そこで根拠のある呼び名として今後はたいて
●土岐頼義・土岐頼晴の家系図25(19代目・20代目)(19代目)土岐頼義(よりよし)(?~1685年)妻・諏訪数馬(すわかずま)の娘①土岐頼晴(よりはる)⑤土岐兵庫守頼泰②土岐頼重(妻・村上吉久の娘)土岐頼久土岐頼意(よりもと)土岐頼邑(よりむら)(20代目)土岐頼晴(よりはる)(1633年~1702年)前妻・依田信
●土岐頼次・土岐頼勝の家系図24(17代目・18代目)(17代目)土岐小次郎頼次(よりつぐ)(1545年~1614年12月10日)妻・湯島武房(ゆじまたけふさ)の娘①土岐頼勝(18代目)土岐頼義(19代目)土岐頼晴(20代目)②土岐頼高土岐頼重土岐頼章(よりふみ)娘(夫・土岐持益。父・斎藤頼元)土岐頼長土岐頼元(大膳だいぜん)
●土岐頼芸の家系図(深芳野)23②(16代目)〇一色五郎義清(?~?)(丹後守護)妻?深芳野(B説)〇深芳野(みよしの)前夫・土岐頼芸(よりのり)①斎藤義龍後夫・斎藤道三(1526年12月頃、結婚)②斎藤孫四郎③斎藤喜平次斎藤道三(1494年~1556年3月28日)妻・
●土岐頼芸の家系図(深芳野)23①(16代目)(16代目)土岐頼芸(よりのり)妾・深芳野(みよしの)(父一色義清又一色義遠?)斎藤義龍(よしたつ)斎藤義興(よしおき)〇深芳野(みよしの)・一色義遠の家系図(ABC説あり)(A説)一色義遠・義清・孫説。一色義遠(?~?)妻?一色義清深芳野(A説)一色義幸一色義道娘(夫・佐良木光俊)土
●土岐頼芸の家系図22(14代目・15代目)(14代目)土岐頼芸(よりのり)(1502年~1582年12月8日)(美濃守)正室・六角定頼(ろっかくさだより)の娘①一色頼栄(よりひで)(廃嫡)?②土岐小次郎頼次(よりつぐ)③土岐頼奏(よりやす)娘(夫・土岐持益)③土岐頼宗(よりむね)土岐義良④斎藤頼元(よりもと)(五郎左衛門。頼重。道庵)
●土岐政房の家系図21(12代目)(12代目)土岐政房(1457年~1519年7月12日)(美濃守)妻・斎藤利永の娘①土岐次郎頼武(よりたけ)(?~1530年)(13代目)土岐頼純(よりずみ)(15代目)②土岐頼芸(よりのり)(14代目・16代目)土岐頼次斎藤義龍(一色氏)(母・深芳野みよしの)斎藤頼元(頼重)③原三郎治頼(はるより)(江戸崎