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土岐成頼(ときしげより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主。土岐持益の養子。実父は一色義遠で一色義直は伯父とされているが、土岐氏の支族饗庭氏の饗庭元明(備中守)の子とする説、佐良木光俊(持益の従弟)の子とする説などに分かれている。養子となる際に第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」の1字)を与えられて成頼と名乗る。法名は宗安(そうあん)。美濃守護・土岐持益の嫡男・持兼(もちかね)が早世したため、持益は孫で持兼の子の亀寿丸を後継ぎにしよう
●土岐頼次・土岐頼勝の家系図24(17代目・18代目)(17代目)土岐小次郎頼次(よりつぐ)(1545年~1614年12月10日)妻・湯島武房(ゆじまたけふさ)の娘①土岐頼勝(18代目)土岐頼義(19代目)土岐頼晴(20代目)②土岐頼高土岐頼重土岐頼章(よりふみ)娘(夫・土岐持益。父・斎藤頼元)土岐頼長土岐頼元(大膳だいぜん)
●土岐頼芸の家系図(深芳野)23②(16代目)〇一色五郎義清(?~?)(丹後守護)妻?深芳野(B説)〇深芳野(みよしの)前夫・土岐頼芸(よりのり)①斎藤義龍後夫・斎藤道三(1526年12月頃、結婚)②斎藤孫四郎③斎藤喜平次斎藤道三(1494年~1556年3月28日)妻・
●土岐政房の家系図21(12代目)(12代目)土岐政房(1457年~1519年7月12日)(美濃守)妻・斎藤利永の娘①土岐次郎頼武(よりたけ)(?~1530年)(13代目)土岐頼純(よりずみ)(15代目)②土岐頼芸(よりのり)(14代目・16代目)土岐頼次斎藤義龍(一色氏)(母・深芳野みよしの)斎藤頼元(頼重)③原三郎治頼(はるより)(江戸崎
●土岐成頼(11代目)の家系図20一色頼遠(よりとお)(義政・義牧よしひら)娘(夫・佐良木光俊)土岐成頼(養父・土岐源三郎持益。10代目)(11代目)土岐成頼(1442年~1497年5月5日)妻・斎藤利永の娘①土岐政房(頼継)(まさふさ)土岐頼武(よりたけ)土岐頼芸(よりのり)②大桑定頼(おおがさだより)(美濃国山県郡大桑
●土岐成頼の家系図19(B説・C説)〇土岐頼忠(1323年~1397年9月2日)(頼世・池田六郎)9男・大桑頼名(おおがよりな)3男・佐良木光俊(妻、一色義遠の娘?)長男・一色成頼(土岐氏)(B説。土岐成頼の祖父、佐良木光俊)大桑頼名(おおがよりな)(?~?)妻?池田太郎康忠大桑頼近(よりちか)佐良木光俊妻・饗庭元明(あえばもとあき)の娘?
●土岐一色成頼の家系図18(11代目)足利泰氏(足利家4代目)(1216年~1270年5月31日)一色公深一色公深(きんふか)(1325年~1388年)(三河地頭)(丹後一色氏祖)一色太郎頼行(よりゆき)一色行義(ゆきよし)一色範氏(のりうじ)一色範光一色頼行(よりゆき)一色範氏一色範氏(のりうじ)(1300年~1569年)(九州探題たんだい)一色直氏
●土岐頼益(9代目)・土岐持益(10代目)の家系図16(9代目)土岐頼益(よります)(1351年~1414年4月23日)妻?土岐持益(もちます)(池田次郎)(美濃守)養子・池田益貞(父・大桑頼名おおがよりな)(美濃池田氏)※西池田氏。美濃国池田荘(いけだのしょう)(岐阜県揖斐郡池田町)(10代目)土岐源三郎持益(1406年~1474年10月17日妻?土岐持兼(もちかね)(早世)亀寿丸(植
舎衛寺(しゃえいじ)は岐阜県岐阜市城田寺にある真言宗御室派の寺院。船田合戦終焉の地の碑がある。平安時代前期の天慶5年(942年)に天から舎衛国と書かれた旗が降り落ちてきたため、その奇瑞により寺を建立し舎衛寺と命名した。また、旗が堕ちてきたことに因み別名を旗堕寺と称した。所在地の地名である城田寺は旗堕寺の転訛したものである。本尊の釈迦如来坐像はそのころのもので、岐阜県指定の重要文化財となっている。保元元年(1156年)には後白河天皇の発願により阿弥陀如来と薬師如来が納められたと伝わる。戦国時代
岐阜市は22日、岐阜市内の路面電車として親しまれた「丸窓電車(モ513号車)」を重要文化財、毎年4月に開かれる「伊奈波神社祭礼に伴う岐阜まつり行事」を重要無形民俗文化財、中世の貴重な城郭跡の「長山城跡」を史跡にそれぞれ指定しましたこれで、岐阜市指定の文化財は計167件となりました丸窓電車は1926年に製造された車両(長さ13メートル、幅2メートル、高さ4メートル)。楕円(だえん)形の窓は当時流行したデザインで、名鉄岐阜市内線などが廃線になる2005年まで活躍しました翌年から岐阜
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切るから見る戦国史」シリーズです。前回の「応仁の乱」の続きです。東岩倉の戦いを経て、応仁の乱で最大の激戦と呼ばれた相国寺の戦いへと発展して戦闘が激化していく応仁の乱の戦ですが、将軍が東軍についた事で、西軍が不利となるかと思われた応仁の乱ですが、周防の守護・大内政弘が西軍に組したことで西軍の勢いが優勢になってきます。将軍