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これまで話④さて、ここでもう一つの明智家、「上総介家」についても話しておかなければならない。京都にいた明智本宗家に対して在地領主化した「明智上総介家」は、下克上によって宗家を一掃し、頼尚の時に地頭職となった。さらに宗家から送り込まれた頼典を義絶し、実子である頼明に家督を譲ったのである。頼尚が死ぬと頼明は、どうやら光継(頼典)と和解し、親戚づきあいをしていたようである。このとき光継は美濃の実力者となっていたからであろう。頼明は家督を定明に譲るのであるが、定明の
これまでの話②光秀の出自についてはいろいろな説があるが、代表的なものとしては下記のとおりである。この系図を見て「頼典(光継)の系図は後から付け加えられたものである。よって光秀の出生は不明である。」と主張する人がいる。しかもその理由は、ただ系図が繋がりが「怪しい」からだというのだ。本当なのであろうか?たとえば「沼田藩土岐家」に伝わる「土岐定政伝」によると「土岐定政は明智光秀の従兄弟である。」とはっきり書かれている。また「定政伝記」にも「定政は光秀の
南光坊天海⑲「子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵衛へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に。」(「綿考輯禄」)慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの前哨戦で、人質になることを拒絶して死んだ細川ガラシャの遺言に「三宅藤兵衛」の名があることから、重利がこの時まで細川家に仕えていたことは間違いない。しかし翌年には唐津藩・寺沢家に仕えたというのだ。時期から考えて、ガラシャの死去と関係があるのだろう。キリシ
天海(93)【太閤薨去】伏見城の徳川屋敷に中間を連れた一人の若侍が訪れた。「細川家家臣、三宅藤兵衛と申します。我が主より天海上人に御届け物があり、お訪ねいたしました。」と門番に告げた。藤兵衛は中間を腰掛待合に残し、案内とともに邸内に入ったのである。徳川屋敷の奥に天海が宿泊している部屋があった。部屋に入ると、香が焚かれていて、小さな仏壇があった。「お父上、お久しぶりにございます。藤兵衛にございます。この度は大殿様に御口添えいただき誠にありがとうございます
明智物語⑥『その後、光秀は「土岐では愛菊丸をどこかに逃がしたと聞いたが、年月を経て成長したのなら、定明公の御子なので懐かしい、訪ねてみたいものだ。」と近臣に語った。』明智物語によると定明は家督を継いでから待望の男子(愛菊丸)を授かったようである。ようやくできた後継者にさぞ皆喜んだことだろう。そこで物語に出てくる人物の家系図とそれぞれの代表的な生没年をはめ込んでみた。実は光秀の年齢について考えてみようと思ったからである。下図・上段は通説による家系図及び生没年である。(異
【問題】土岐定政とは、次のうちどの大名の家臣か?【選択肢】佐竹家上杉家徳川家浅井家【正解】徳川家【解説】土岐定政は美濃の土岐定明の子で、2歳の時、父が戦死したため、母方の実家を頼って三河に移った。14歳で徳川家康に仕え、その後は各地の戦いで軍功を挙げた。
●華陽院の家系図6(菅沼定望さだもち編)※参考文献武家家伝・菅沼氏ウィキペディア世界帝王辞典・菅沼氏菅沼定忠(愛知県設楽町田峯したらぐちょうだみね)菅沼定成田峯城・菅沼定望(定広?)菅沼定継娘(夫・明智定明)鵬雲(ほううん)(僧侶)野田城・菅沼新八郎定則(さだのり)(愛知県新城市豊島)(1493年~1
●水野信元の家系図1※参考文献日本帝王百科事典ウィキペディア武家家伝・水野氏源重遠(しげとお。浦野四郎)(?~?)妻・源義家の娘(義家。1039年~1106年8月4日)浦野重直(尾張国春日井郡浦野邑。愛知県春日井市?に移住)小河重房小河重房(尾張国知多郡阿久比郷小河、愛知県知多郡東裏町緒川に居住する)小河重清水野清房、尾張国春日井郡水野郷(愛知県瀬戸市水野)に居住する。水野氏祖。水野雅経水野雅継水野胤雅(たねまさ)水野光氏水野正房(小
●岩城重隆の家系図(佐竹義重・真田信繁・伊達政宗・日本武尊)※参考文献ウィキペディア歴代天皇事典(高森明勅監修。PHP文庫)◎岩城氏。建許呂命(たけころのみこと)が、成務天皇(せいむてんのう)の命令で、岩城国造(いわきのくにみやつこ。陸奥国石城郡むつのくにいわきぐん。福島県浜通り付近)を作りあげる。※成務天皇(稚足彦尊ちかたらしひこのみこと)(13代。295年?~355年?)(実在の疑いあり)ヤマトタケルの異母弟。(父・景行天皇けいこうてんのう。
●土岐定政の家系図(諸説あり)(本多成重編)8※参考文献ウィキペディア武家家伝世界帝王辞典※本多氏、豊後国日高郡本多郷(大分県日田市?)、出身。藤原光秀(父母不詳)本多助定本多助政本多定正→本多正信(弥八郎家)本多定通本多定通本多定忠本多定助本多助時→本田忠勝(平八郎家)本多正時→本多成重(作左衛門家)(淡路守)(越前丸岡藩主)本多正時本多信正本多重正本
●井伊直勝の家系図(鳥居氏編)遠江国引佐郡渭伊郷井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)(とおとうみのくにいなさぐんいいごういいのや)井伊直氏井伊直平(1479年~1563年10月5日)井伊直宗井伊直盛井伊直虎養嗣子・井伊直親(なおちか)井伊直満井伊直親井伊直満(?~1545年2月4日)井伊直親(1536年~1563年1月8)妻・ひよ(父・奥山朝利くやまともとし)井伊直
●土岐定政の家系図(菅沼氏・鳥居氏。番外編)7◎菅沼〇〇菅沼定広娘(夫・明智定明)明智定政(土岐定政)菅沼定仙(さだのり)養子・明智定政(菅沼藤蔵)◎平氏。鳥居行範(ゆきのり。重氏。忠氏)(紀伊国熊野新宮、神職)(三河国矢作庄に移住。愛知県岡崎市渡町東浦)数代鳥居忠明(三河碧海郡、渡城主)鳥居忠吉(伊賀守)(?~1572年5月7日)①鳥居忠宗②本翁意伯(ほんおういはく?)(浄土宗誓願寺
●土岐・滝川雄利の家系図(木造氏・柘植氏編)6※参考文献ウィキペディア武家家伝(木造氏・柘植氏)〇木造氏(きづくりし)(伊勢国一志郡木造荘・木造城。三重県津市木造町)。村上天皇~北畠顕能(きたばたけあきよし)、木造氏祖。〇柘植氏(つげし)(平宗清祖。?~?)(伊賀国阿拝軍柘植郷あはいぐんつげごう。三重県伊賀市柘植)◎柘植氏・木造氏。柘植三郎兵衛〇〇妻・木造具康(きづくりともやす)の娘?柘植雄利(かつとし)(下総守)
●土岐頼長の家系図(真田信繁編)5真田幸隆真田昌幸(まさゆき。源五郎。武藤喜兵衛)娘真田信尹(のぶただ。双子の兄弟)妻・馬場信春の娘真田幸政(妻・昌幸の娘)真田昌幸(正室・山の手殿)(父母不詳。京の生まれ?)真田信之(信幸)(妻・本多おねい、小松姫。父・本多忠勝)真田信政娘(夫・土岐頼長)真田信重(妻・
●土岐・滝川利貞の家系図4(滝川氏編)※参考文献ウィキペディア伊勢雲林院城・城郭放浪記奈良県五條市滝町。紀長谷雄(きのはせお)(中納言)(845年~912年3月1日)(高安氏祖)(河内国高安、大坂府八尾市。中国からの帰化人)子孫は、近江国甲賀郡へ移住する。甲賀忍者につき、出自は不詳となる。スパイは身元を後世に明かさない。滋賀県甲賀市甲賀町櫟野町こうがちょうれきの。◎近江国滝川城主。滝川氏・大原氏。近江国甲賀郡大原村。滝
●土岐定政の家系図3(牧野氏)※参考文献日本通信百科事典他※画面をクリックすると、アメバブログへ飛びます。明智頼秀明智頼尚明智光継(頼典)明智光綱明智光秀明智頼弘明智彦九郎頼明明智頼弘(右京大夫)明智彦九郎頼明(上野介)明智彦九郎定明妻・菅沼定広の娘明智定政(愛菊丸。菅沼藤蔵すがぬまふじぞう)(養父・菅沼定仙さだのり?)土岐定政(1551年~1597年
●土岐定政の家系図(明智頼重編)2※参考文献日本通信百科事典明智彦九郎頼重(頼助。浄栄入道)明智十郎頼篤(よりあつ)(頼助?)(美濃守)明智国篤(くにあつ)(頼邦よりくに)明智頼秋(よりあき)(長寿丸)(民部少輔)肥田頼寿(ひだよりとし)明智頼利明智頼衡(よりひら)明智彦六郎頼秀(よりひで)明智彦六郎頼秀(よりひで)(個人的な仮説あり)妻・惟任
●土岐定政の家系図(諸説あり)1〇参考文献日本通信百科事典ウィキペディア他土岐頼清土岐頼貞土岐長山頼基長山頼基妻・堀口貞満の娘?明智頼重明智頼篤明智国篤(くにあつ)明智兼貞明智彦十郎頼隆(藤田頼隆・頼高・頼澄。下野入道)妻・山岸加賀守満頼の娘山岸彦五郎政安岩手満頼(外山頼行。山岸光明)岩手頼慶(よりのり)岩手頼重