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名称:古河城別名:古河御所城郭:平城築城年:1180年頃築城主:下河辺行平改修者:小笠原秀政、松平康長、土井利勝主要城主:足利成氏(古河公方)、土井利勝所在地:古河市古河本丸跡諏訪郭
今年も古河総合公園に行きたいなぁ(ღˇ◡ˇ*)♡古河は僕が青年時代を過ごした街です。茨城県の大きな都市はその殆どが県庁所在地である水戸市と鉄道か国道6号・50号・51号などの主要道路で結ばれていますが,古河市は地図を見れば明らかなように水戸市と直結された鉄道も道路もありません。それどころかJR宇都宮線や国道4号の沿線であり,久喜・大宮方面に向かう列車の発着するJR古河駅や幸手・春日部・越谷方面に繋がる日光街道(国道4号)を最初に目にした際には「ここはまるで埼玉県の都市のようだ」という印象を
お疲れ様です。今日はちょっと散歩に出掛けたサラリーマンです。佐倉城址公園にやってきました。こちらが城址公園の中にある国立歴史民俗博物館。今日は博物館の中には入らず公園内を散策。佐倉城とは、徳川家康の命令で、土井利勝さんが1610年に築城したそうな。江戸時代、佐倉藩の藩庁が置かれていた。今はいわゆる城、天守などは再建されておらず、城跡のみとなっております。本丸の入り口。一の門の跡。ここは基本的に山を切り開いたような地形です。ここが本丸があった場所。山の上に広く作られた開けた
小山ゆうの漫画「颯汰の国」(全15巻)を読んだ。最初の方は、忘れていたので1巻から一気読みした。江戸時代初期。伊豆地方の寺で育てられた颯汰は、佐々木家の養子となり佐々木颯汰となり、剣の腕も立ち仲間にも慕われる青年に成長する。実は、颯汰は、徳川家康の御落胤で、その為に命を狙われていたのだが、寺の和尚の機転により死んだこととされて生き延びていたのだ。が、颯汰たちが仕える高山家に、幕府から領地の改易が言い渡されて、それに反発した仲間達と颯汰は、幕府を相手に過酷な戦いを開始する。その事が
*6月11日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。本日がシリーズ最終回、東照大権現のおはなし。あんみつ「先生、慶長二十年(1615)五月、豊臣家を滅ぼした家康は、秀吉を豊国大明神と祀る豊国社を破却。のち神体を方広寺大仏殿に移し、仏教式で埋葬しました。現在の豊国神社が京都東山に造営されるのは明治維新期の慶応元年(1868)閏四月のこと。もう敵がいなくなった
今年は特に出張で家を留守にする時間が長かったです。出張などのネタをブログにアップしましたが、一年を振り返ってブログを見たら銅像の写真を撮影しているのが多かったのでまとめました。新潟駅忠犬タマ公雪崩にあった飼い主を救った犬福井駅恐竜白衣を着た恐竜の博士?(先生?)横須賀市三笠公園東郷平八郎元帥ここは来て良かったところです釧路市幣舞橋春の像(四季の像の一つ)今年一番撮影で来た場所です宮崎空港温水洋一さん大分駅前大友宗麟公
天守跡:所在地:千葉県佐倉市城内町官有無番地築城主:鹿島親幹築城年:不詳別名:鹿島城城主:鹿島氏→千葉氏→土井氏→堀田氏御由緒:天文年間本佐倉城主・千葉氏が鹿島氏に命じ築城を開始するが中断慶長15年徳川家康の命により、土井利勝が中断していた築城を再開し、完成させる。城郭は石垣を用いず、干拓前の印旛沼を外堀の一部とし、三重櫓を天守の代用とする。廃城令による取壊し。江戸期歴代城主のうち9人が老中となり「老中の城」とも呼ばれる。礎石:旧陸軍の営所が置かれた際、兵
栃木県民は別に、毎日、湯葉ばかり食べているわけではない。湯葉は、あれは観光地のお土産品であって、栃木県民は、普段、普通にカレーとかラーメンとか食っているわけで、九州の人が普段、豚骨ラーメンや明太子ばかり食べているわけではないのと一緒である。海のない栃木県は、大して美味い特産品もなく、海のある茨城や千葉が羨ましい。大田原牛なんて高級品は、普段、庶民の口には入らない。野菜は美味いが、栃木のスーパーに売ってる野菜は、茨城県産のキャベツとか千葉県産のピーナッツである。私が住んでいる町の近くにある栃木
NHK第一AMラジオ。DJ日本史のコーナーです。
土曜日の午後土井氏一族発祥の地へポタリング4年前もポタリングで同地に行っている。。。二回目です。。徳川氏の臣下だった土井氏岡崎市土井町の社口司社という神社の入口右側に発祥地と刻まれた石碑が立っているどうやら石碑周辺が発祥地らしい当時を思わせるものは何も残っていない石碑の周りは木々が茂り石碑の文字が見えなくなりそう徳川幕府創成期から三代将軍の時代に老中・大老を務めた土井利勝は岡崎在住時代はこの辺りに住んでいたらしいです
先週、千葉の孫たちに会いに行きましたが、その前に近くにある佐倉城址公園に寄りました。目的は公園内の国立歴史民俗博物館でしたが、その駐車場が満杯で入れることができず、急遽の変更です。^_^;国立歴史民俗博物館幸いにして城址内の人影は思ったより少なく、空気はおいしく、明るい日差しの中に見える新緑は新鮮そのものでした。城址案内茶室「三逕亭」と新緑おかげで新緑と初夏の太陽を十分に堪能することができました。本丸跡広場佐倉城址には当時の建物は残っていませんが
和文化・おもてなしマナー講師の安達和子です本日は【古河】について話しますね古河桃むすめおもてなしマナー研修でした関東平野のほぼ中央茨城県の西端に位置する古河市は関東のド・マンナカと言われ隣接している県は、栃木、埼玉、群馬、千葉の4県で関東の中心に位置していますまた、古河市は歴史文化財も多く「茨城の小京都」のようなところだと思っていますそれは、奈良時代に編纂された「万葉集」巻十四の東歌で「まくらがのこがのわたりのからかじのおとたかしもなねなへこゆえに」「あは
上野恩賜公園で歴史建造物散策の続きです寛永4年(1627)、築城の名手・藤堂高虎が造営し、後に三代将軍家光が造替した上野東照宮不忍口鳥居唐門キンキラな社殿社殿の外壁には日光東照宮の社殿に匹敵するほどの豪華な彫刻が・・・寛永8年(1631)徳川家康に仕え、2代将軍・秀忠の政権を中心となって支えた老中(後に大老)土井利勝が寄進したんだけど、寛永16年(1639)花見客の過失で焼失してしまい
子供と遊びに。ラグビーボールで少しとラジコン関係。空と陸。寒いけど。もともと城があったんね。明治の廃城令で無くなったと。土井利勝とか出てくると歴史感じる。ここにあったようで。ちなみに水道のとこにいるのは子供です
大輪陣屋『別名』大輪藩陣屋『所在地』茨城県常総市大輪町910-15『城主』土井利直『遺構』曲輪、堀跡か?土塁か?『城郭形態』陣屋『駐車場』なし『歴史』大輪陣屋は古河城主・土井利勝の五男・土井利直の陣屋だと言われています。延宝5(1677)に土井利直が亡くなると、その後断絶となり大輪藩は廃藩となったと言われています。大輪陣屋1枚目の写真の隅っこにあるのは土塁なのかな?ここに土塁があっても全然おかしく無いし…下にあるのが堀跡なら横矢もバシバシ掛かるしな…って感
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何やら風格のあるお寺です。江戸時代初期、家康・秀忠・家光の三代に仕えた古河城主土井利勝が開いた正定寺(しょうじょうじ)です。鐘撞堂の雰囲気もなかなかのものです。
●青木重正の家系図4(父・朝倉宣親)朝倉在重(ありしげ)(河内守)(1545年~1615年12月26日)朝倉宣正(のぶまさ。藤十郎。筑後守)(1573年~1637年3月2日)妻・朝倉清(昌清尼しょうせいに)(父・土井利昌。正利)朝倉宣親(あさくらのぶちか)朝倉重正(青木)朝倉正世(まさよ)朝倉景行朝倉宣季(のぶすえ)屋代忠位(ただたか)朝倉正高
11月末からの首都圏紅葉見頃情報を優先アップしていたため中断していました茨城県古河市の探訪記、再開させて頂きます(^^)v訪れたのは10月30日(土)。そうです、翌日は衆院選総選挙という日でございました(^^)/『「古河宿(茨城県古河市)」を歩く(^^)vその1』今回の訪問先は茨城県古河市お手持ちの地図で関東地方を広げて頂くと、関東平野のほぼ中央部に位置する茨城県南西部にある人口14万人強の首都圏近郊の都市。この古河…ameblo.jpこちらは町中にありました篆刻(てんこく)文字を用い
間もなくクリスマスですね。クリスマスに向けて準備していることは?クリスマスに向けて準備していること・・・。私は娘用のクリスマスプレゼントとしてこちらを用意しました。気に入ってくれるといいなぁと思う反面、床に散らばりまくる未来しか見えません(笑)【あす楽】おもちゃAQ-S86アクアビーズすみっコぐらしスペシャルセット[CP-AQ][CP-X]誕生日プレゼント子供ビーズ女の子男の子5歳6歳ギフト楽天市場3,980円さて今回は、国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄
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●土井利勝の家系図2◎徳川家康(落胤説らくたねせつ)(妾・葉佐田則勝の娘?)(出自不詳)土井利勝(甚三郎)(1573年4月19日~1644年8月12日)(または土井利昌の娘・後玉等院こうぎょくとういん)土井利勝◎土井利昌(甚三郎。早乙女小左衛門正利)(?~1598年9月11日)妻・葉佐田則勝(美作守みさくのかみ)の娘(出自不詳)朝倉清(あさくらきよ。昌清尼せいしょうに)(夫・朝倉宣正のぶまさ)朝
●土井利勝の家系図(父徳川家康)1※参考文献ウィキペディアABRJ・FC2ホームページ土井利勝◎土岐光行(?~1249年10月26日)⑤土岐光定土岐頼貞(よりさだ)(土岐本家)②饗庭光俊(あえばみつとし)→22代・氷見清貞(饗庭次郎あえばじろう。土岐氏?)妻・大河内貞重の娘→氷見貞愛(ひみさだちか)(父・徳川家康)土岐光定⑦土岐頼貞
●水野信元の家系図3(明智光秀・妻木熙子)水野忠政妻、大草(おおくさ)・松平信貞(昌安)の娘②水野信元(下野守しもつけのかみ)水野信元(忠次。藤四郎。藤七郎)(1523年?~1576年1月27日)妻、桜井・松平信定の娘?水野十郎三郎水野一信(甚左衛門。茂尾平兵衛。)娘(夫・水野守次。直盛・盛隆。監物かんぶつ)(常滑城主)水野守信(1577年~1637年1月21日)娘(夫・荒尾重就し
●水野信元の家系図2(徳川家康・樵暗恵最)※参考文献日本帝王百科事典ウィキペディア武家家伝・水野氏水野清忠(?~1509年)(下野守)水野忠政(1493年~1543年8月22日)(正室、大草・松平昌安の娘)(離婚)於丈の方①(前夫・水野成清。緒川城主)水野長勝(後夫、形原・松平家広)松平家忠②水野信元水野十郎三郎(早世?)水野甚左衛門(溝尾
雪は冬を象徴するものだ。大粒の雪もあれば、小粒の雪もある。降る速度が速い雪、速度が遅い雪もある。硬い雪あれば、柔らない雪もある。雪にはさまざま種類があり、表情を見せる。江戸時代末期、下総古河藩の第4代藩主で土井家宗家11代目の土井利位という大名がいた。この利位は日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物として知られている。蘭学者であった家老の鷹見泉石の協力により、20年にわたって、雪の結晶を観察した。利位は雪の結晶を『雪華』と命名して、観察した結果を『雪華図
●西郷局の家系図(徳川家康。明智光秀。土岐頼芸)土岐頼忠(池田四郎頼世)(1323年~1397年9月2日)土岐頼益→土岐頼芸明智頼兼→明智光秀西郷頼音(さいごうよりね?)(三河守)西郷頼音(妻・西郷殿?)数代西郷稠頼(ちかより)(岡崎城、築城)(1452年、岡崎城築城。龍燈山城りゅうとうざんじょう)西郷頼嗣(よりつぐ。弾正左衛門)西郷信貞(松平昌安)(?~1525年8月10日)娘(夫、
御落胤説が囁かれる人物には、たいてい、共通のパターンがあります。もともとの家柄に比べて、異例に出世してる、ってことです。土井利勝の場合も、余りに順調な出世ぶりを周囲がやっかんで流した「中傷」のたぐいである可能性が高いです。だって、もし本当にわが子なら、最高権力者である家康が、それを隠さなければならない理由があるんでしょうか。家康には十何人の男の子がいて、いまさら一人増えたって、どうってことはないでしょう。憚らなければならない格上の正室がいるってわけじゃないし。要は、土井家というのが、文句
今回の訪問先は茨城県古河市お手持ちの地図で関東地方を広げて頂くと、関東平野のほぼ中央部に位置する茨城県南西部にある人口14万人強の首都圏近郊の都市。この古河市には歴史もあり江戸時代では日本橋から数えて9番目の日光街道沿いの宿場町。そしてchuは古河総合公園(古河公方公園)で開催される「古河桃祭り」を鑑賞するため何度か訪れたことがあるのですが(リンクblogは2019年訪問時)『日本一の花桃の里(^^)/「古河桃まつり」に行ってきました!』茨城県古河市、そこには桃源郷がありました「古河桃まつ
本佐倉城(千葉県佐倉市・印旛郡酒々井町)の御城印。下総守護千葉氏最後の居城築城年・室町時代(文明年間/1469-87)主な城主・千葉氏、小笠原吉次、土井利勝国指定史跡続日本100名城御城印デザインは、千葉氏の家紋である月星紋。佐倉ふるさと広場売店、佐蘭花にて購入。