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本日も、2025年2月ベトナム旅行ハノイ編の続きをお届けします前回のレポはコチラハノイ4日目。ベトナムフレンチのランチの後は、grabに乗って世界遺産を見に行きました🚙気持ちの良い木々の中を通っていきます世界遺産タンロン遺跡タンロン遺跡とは、かつてのベトナム王朝の都が置かれた場所で、ベトナムの首都ハノイの中心部にあります。チケットを買うために建物の中へ。左手にチケット売場がありましたが、現金しか取り扱いがなくて、市場の買い物でほとんど現金を使い果たした私達は入場券を買うことができず
9月9日今日もなんて暑い日でしょうー昨日はたくさんのお客さまで、お持ち帰りのとりめしもたくさん予約注文頂きました。ありがとうございますお持ち帰りといえば、現在注文をストップしているABC弁当ですが、再開したいけどこの暑さ…もうしばらく難しそうです。引き続き、椿とりめし折、トリサン弁当、天まきのみご注文承ります新しいタイプのお弁当も試作中ですお楽しみにー
2023年11月09日。哲学の道から銀閣寺へ向かう途中、銀閣寺道で見つけた「国旗掲揚臺」。臺は台の旧字体で、昔の国旗掲揚台です。上下に大きな穴があるので、ここに大きな国旗を掲揚していたのは間違いないと思います。当時のここの町内会で立てたものであろうか?色々と当時の状況に興味が湧くが、それを聞くあてもないので、次へ。#京都#国旗掲揚台#銀閣寺道
近いからと、後回しにしていた阪和貨物線の廃線跡に行ってきました。敬愛するしょうさんのブログで見て以来、行こう行こうとは思いながら、やっと見て来ました。詳しくはこちらで、しょうさん、よろしくお願いいたします。前編もあるよ!関西本線貨物支線(阪和貨物線)【後編】|廃鉄の処女Ⅱ(ameblo.jp)JR関西本線加美駅からのスタートです。廃線跡沿いにまっすぐ道があるわけではないので、住宅街を通りながら、なんですが、道が結構入り組んでるところ
嵐電撮影の合間に訪ねた「車折神社」で、偶然にも国旗掲揚台を見つけました。正面に刻まれている文字は「天壌無窮」。日本書紀に出てくる言葉でその意味は「いつまでも終わることなく、天と地と共に続いていくこと」だそう。建立年は「昭和十八年八月」と刻まれており、国旗掲揚台としては遅い方ですね。建立者は「尚徳西」とまでは読めるのですが、その下の数文字が読めませんでした。一番最後の文字が「町内」らしいので、「尚徳西」と合わせて調べてみたのですが「車折神社」があるのは右京区嵯峨朝日町で、戦前から町
<2025/4/23基追加(No.333橿原市見瀬町/No.334川西町下永/No.335明日香村雷><2024/11/62基追加(No.331河合町薬井/No.332大和郡山市椎木町(東椎木)><2024/10/21基追加(No.330広陵町百済(新子)>このような石柱を見かけることがあると思います。これらは国旗(掲揚棒・旗竿)を取り付けるための石の台(柱)で「国旗掲揚台(※)」と呼ばれるものです。(※その他の呼称もありますがここでは国旗掲揚台と呼びます)
通りかかった地元小学校の国旗掲揚台には半旗が翻っていました。「翻」。「番」+「羽」の会意兼形声文字。「番」は「田」+「米」で、田に米の種を平らに広げてまくさまで、平らに開いた意を含みます。よって「翻」で、羽のように薄く平らでひらひらすること。ひるがえる・平らな面がひらひらする・翻って裏が見える・裏表が逆になる等の意。くつがえす意に当てたのは「反(ハン)」に当てた用法です。また「飜」と書くこともあります。桜堤から小学
1/28(金)は平端・安堵・小泉・筒井辺り。先週(水)は柳本、(木)は大阪、(土)は高取、そして今日(月)は天理の山手と斑鳩のハシゴ。2年ほど前まであった琺瑯看板が無くなっていた。(>_<。)泣きたいけど笑えるほどきれいに無くなっている。こちらは柳本農協コンビ☆左は交通安全看板(タイプ3)っすよ。以上、無事トリオ。最近琺瑯看板の盗難がかなり多いらしいからね。今の時代、場所なんて調べりゃすぐにわかるけど一応場所の詳細は公けにしないほうがいいと思う。マップは作ってるけど公開す
先週は大阪、(日)は宇陀、(火)は桜井・三輪。そして今日(水)は私の地元、橿原。橿原市内で道標を2基見つけた。一つ目は今井町。一見ただの「いけず石」のようだけどよく見りゃ道標だった。「右いせ…(埋没)」と刻まれている。頭頂部には盃状穴が見られる。その後、教育委員会の方に立ち会ってもらったが市のほうでも把握していないとのこと。(→のちに市の資料に掲載されていることが判った)二つ目、おふさ観音の境内。てっぺんに梵字「カ」、仏像の左右に「右かうや道」「左於か寺(岡寺)道」と
今日見つけた国旗掲揚台①(橿原市四条町)施設の敷地内にある。コンクリート製。文字なし。昔から気になっていた逓信省の標石?(大和高田市北片塩町)今日見つけた国旗掲揚台②太神宮常夜燈のとなり。(大和高田市中三倉堂)立ち入り出来ないので撮影はちょっとたいへん。「支那事變一週年紀念」(昭和13年/個人の寄贈によるもの)本日のみのり橋。(橿原市四条町)本日のぼっち。(大和高田市大中)(記事編集)
歩くとぽかぽかして風が涼しくて気持ちがいい一日だった。今日はお昼前から↑こんな感じでならまち(奈良町)を縦横に歩いてきた。今日歩いた赤のラインはほぼ奈良町内に収まっているけど、これ引っ張ると近鉄奈良駅から橿原神宮前駅ほどの長さ(約23km)になる。奈良町の中だけを23kmも歩くとは自分でもちょっと呆れるけど、観光客や犬の散歩する人とか同じ人と何度もすれ違ってちょっと気まずかった。*****さて今日の一つ目は、このゲートの下にある石。土に埋められて
今日は香芝・王寺・河合方面。今日見つけた国旗掲揚台だけど…、これ、県内で1番中途半端な場所に立っている国旗掲揚台では?w(王寺町本町)この道標の…、左端には、これ確かに文字があるよな。(王寺町本町/大正3年)これは頭頂部に球分体があり明治時代の水準点のようだが…、「明治」「二十二」…他面は光の加減で読めず。(河合町薬井)2頭の牛が向き合っているように見える、光のいたずら。かわいいな。(杵築神社・香芝市平野)おまけ。ではまた次回!(記事編集)
まずは、昨日、天理の大和神社付近を歩いていた時、東の龍王山の山腹にぽつんと輝く黄色の点を見つけた。写真を拡大したらそれは一本のイチョウの木のようだった。現在地と遠くの家並みから推測して、萱生と竹之内の集落の間の谷のひとつを入って行った辺りのようだ。あのイチョウの木を見に行ってやろう!ということで今日行ってきた。ほら、あそこに見える黄色い点。あれを目指す!けっこう距離はありそうやな。1kmぐらいか。お寺や神社があるのかな?地図には載ってないけど。そんときは簡単に行けるや
先日母が国旗掲揚台があったで、とか言ってたので見に行ってきた。橿原市飯高町の子部神社。「皇太子殿下御誕生紀念」の文字の両脇にうっすらと「在郷軍人會青年團」の文字が見える。見える人には見える。ボルトがカラカラ動いて心地よい。そしてもう一つは寺川の吐田橋南詰の道標の奥にさらに道標があったとの情報を遠巻きに頂いていたのでさっそく見に行ってきた。こないなとこにある。前には太神宮常夜燈(奥)と愛宕山常夜燈(手前)が並ぶ。(※以下すべて立ち入り許可を得て撮影)道標は2
これ、元は国旗掲揚台かな?倒れそうな木製電柱を支えているけど、どっちも倒れそう。(安堵町窪田・窪田墓地(阿土墓地))窪田墓地(阿土墓地)入口横にある、浄瑠璃の豊竹浪太夫(弘化2年没)と豊竹勝太夫の墓(明治13年)。向かいには聖武天皇さん像。あと、阿土墓地には関取の若緑春吉の墓石(明治20年)などもある。(※「浄瑠璃・相撲の顕彰碑道標」)墓地好き。廃屋とかは怖くて入れんけどお墓は真夜中でも行ける。お墓で酒盛りしたい。あたしゃ下戸である。今日見つけた農協の交通安全
高取町松山の春日神社境内に「壷坂寺近道」と刻まれた道標が転がっている。指差し指示の下には大きく「壷坂寺近道」とあり、右端には小さな文字で「道路改修記念」と刻まれている。上下には穴が開いており、この道標が一時期、国旗掲揚台として使われていたことを物語っている。左側面には「昭和八年十二月二十三日」と刻まれている。右側面には文字は無いようだ。裏面(下面)には「皇」の文字が見える。頭頂部の形状。左の指差し指示。折れた断面。穴の部分で折れている。春日神社境内の片隅に倒れ
畝傍御陵前駅北の国旗掲揚台。本体は昭和8年でステンレスポールは平成元年製。現役だぜ!これは道標かも?って思っているやつやけどどっちかと言えば国旗掲揚台の根元やろなぁ。(橿原市御坊町)橿原神宮前駅前で見つけた国旗掲揚台。表面がザラメみたいで気持ちいい。洗い出し仕上げの鏡!大根おろせそう。背中もかけそう。「建国記念日制定記念」建国記念日の制定は昭和41年(1966年)なので本体は昭和41年製、ステンレスポールは昭和50年の後付ってことか。ポール部分の基礎の質感が違うよ
大阪市西区九条の歩道上にあった国旗掲揚台。昭和9年の関西風水害(室戸台風)による高潮浸水高が刻まれた災害記念碑を国旗掲揚台に改造したらしい珍品だったのですがマンション工事の為、2019年に撤去されてしまったそうです。確かに歩道上にあり、邪魔な存在だったかもしれませんがこの地域における「風水害」と「戦争」と言う“2つの歴史”を物語る貴重な存在だっただけに移設されること無く撤去されたのは残念な事です。
本日のパトロールと言う名の散歩。国旗掲揚台を3つ見つけた♪過去に何度も歩いてんだけどなぁ…気付かなかった。節穴!あとはいくつかの道標の撮影などなど。近鉄耳成駅のすぐ南の空地に国旗掲揚台が2基並ぶ。「石原田町壮年会」昭和40年のもの。角ワッシャーの跡がくっきり残る。となりのこの人はおそらく前任者。風貌から見て戦前のやつ。コンクリートの表面に粗目のを塗り重ねて洗い出し仕上げっぽくしてある。文字は無し。中央の円柱は、超極太巨大国旗掲揚棒をぶった切ったもの。この一角は国旗掲揚エリ
先日通りすがりに見つけてずっと気になっていた○○幼稚園にある国旗掲揚台!休園日だったのか人や園児はいなかったがうろうろして園内を覗き込んでいては不審者の極みなので前科を増やさないためにも歩きながら遠くから園内を「瞬写!!」背後の新しいステンレス掲揚棒は独立して立てられているので掲揚台としては機能していない。自分はこの○○幼稚園(もう園名バレているが)の出身だが知らなかった(あたりまえか)「昭和うん年…」とか側面に書いてあるので自分が通っていた頃にもあったのかも。一度ちゃん
4/26(土)クアラルンプール2日目です。冷房の調整方法が分からないので部屋が寒く、夜中に何度も目が覚めました。6時頃起床し、熱いシャワーを浴びます。今日は天気良さそうです。7時半食堂に行き、お粥とカレー?の朝食を頂きます。味はまあまあでしたが、コーヒーは今一でした。あまり暑くないので歩いて出掛けます。途中のヒンドゥー教寺院からヒンドゥー教的音楽が聞こえて来ました。何故か「マレーシアに来たんだ」と言う感じがします。クアラルンプールタワーを横目に歩きます。まだパノラマ
東大阪市の足代に残る国旗掲揚台。おなじみの紀元二千六百年記念なので、建立年は1940(昭和15)年。建立者は一条町、おそらくこの付近の旧町名でしょう。しかし、何と言っても「国威宣揚」の文字を揮毫したのは競馬の「有馬記念」に、その名前を残す「有馬頼寧」伯爵なのです。伯爵に揮毫を頼む事が出来るほど、中央政権に近い有力者がこの付近に居たのでしょう。掲揚台も立派で金が掛かっていそうです。
京都の紫野児童公園に残るラヂオ塔。手前は一段高いステージ状になっていて、ベンチも付いていると言うかなり大規模な物で、ラヂオ塔の背面には丸い窪みが有る事から国旗掲揚台も兼ねていたのだと思われます。上部には、丸い穴と「飾り金具」の入った四角い穴が開いています。そのどちらかに、スピーカーが入っていたのでしょう。向かって右側には、扉付きだったと思われる長方形の開口部があるのでその中に、ラジオ受信機が入っていたのだと考えられます。設置時期は不明ですが、この公園は昭和10年に作られていますし
地下鉄阿波座駅近くにある薩摩堀公園の国旗掲揚台。一見すると石碑のようですが、ちゃんと上に掲揚柱の穴があります。中央部が石材で、周辺部がモルタル造りの大きな掲揚台で正面には、おなじみの「皇紀二千六百年記念」と「八紘一宇」の文字。背面には「廣教部内各會」が昭和15年に建立した事が刻まれています。1945(昭和20)年の「第1次大阪大空襲」で焼失するまでこの公園の隣接地には、明治5年の創立と言う長い歴史を持つ「廣教国民学校」があり、そこの内部部会が共同で建立したのでしょう。
東大阪市の布施で見つけた国旗掲揚台。正面に刻まれている文字は「旭光照萬邦(旭光は萬邦を照らす)」この手の文字だと、大体は「皇紀二千六百年」記念の物なんですがこれは、昭和12年に「布施市制記念」として「西榮會」が建てたもの。市制施行を記念して作られた国旗掲揚台は、珍しいのではないでしょうか。旗竿は、半分ほどが残り、固定用ボルトも当然ですがあります。現役時代に、一番近い姿を残している国旗掲揚台です。(都合により、画像には修正を加えてあります)
おなじみの「皇紀二千六百年記念」の国旗掲揚台なのですがこの掲揚台があるのは、なんと大阪市のど真ん中「天神橋」の南詰なんです。刻まれている文字から、「久良岐組」と言う所が建立して「京橋三丁目町内会」と「京橋三丁目青年団」に寄贈したようですね。建立年は不明ですが、おそらく1940(昭和15)年でしょう。掲揚柱のあった穴に、いつの頃か木の実が落ちたのでしょうね。今では、見事に木が生え、掲揚台と同化しています。----------------------------------------
半分埋もれながら聖天山公園に残る国旗掲揚台。おなじみの「紀元二千六百年」記念で造られた物ですね。旗竿を固定していたボルトも、しっかり残っています。この手の国旗掲揚台は、町内会などが建てる事が多いのですがここのは「清交乗馬倶楽部」と言う所が建立しています。この「清交乗馬倶楽部」については、どう調べても出て来ず詳細は不明です。しかし、ここに国旗掲揚台を建てたと言う事は、この付近に縁があるはずでオーナーがこの付近に住んでいたとか、この付近で営業していたとか何かがあるはずなんですが・・・
阪和線美章園駅近くの小さな神社にある国旗掲揚台。国旗掲揚台と言えば、紀元二千六百年記念が圧倒的に多いのですがここの国旗掲揚台は「昭南島改稱記念」と言う変わり種。この「昭南島」と言うのは、現在のシンガポールのこと。日本軍が、シンガポールを占領したのは1942(昭和17)年2月15日。占領後に「昭南島(昭和時代に獲得した南の島)」と改称します。この国旗掲揚台が建てられたのは、改称からほぼ1ヶ月後の3月10日。設置したのが誰なのかは不明ですが、おそらく町内会でしょう。掲揚柱は痕跡だけを
かっては、すぐそばを平野線が走っていた桃ヶ池公園。その片隅に建つ、石碑のように見えるのは国旗掲揚台。昭和15年の「紀元二千六百年」に伴い建てられたものが多い中でかなり早い、1938(昭和13)年に建てられており正面に刻まれている「国威宣揚」の文字は、当時の大阪市長の揮毫。国旗掲揚柱は、後ろでは無くて左横に建てられていたようです。公園に国旗掲揚台が建てられる場合は、ラジオ塔とセットになる事が多いので桃ヶ池公園にも、ラジオ塔が有った可能性がありますね。
帝塚山にある万代池公園には、こんな物があります。一見すると、ただの古い石碑のようにも見えますが、実は国旗掲揚台なんです。裏には、ちゃんと旗竿を収める丸い溝がありますし、土台には丸い窪みもあります。旗竿を固定していた金具の跡も残っています。この国旗掲揚台を建立したのは、帝塚山の耕地整理を行った「神一耕地整理組合」。左側面に「紀元二千六百一年」と刻んであるので1941(昭和16)年に建てられたのだとわかります。正面に刻まれているのは、お馴染みの「八紘一宇」の文字。意味は、「いくつもに