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松林の中にひっそりと居並ぶ苔むした礎石〈そせき〉、備中国分尼寺跡のこうした風景は吉備路風土記の丘の見どころの一つとなっています。しかし、五重塔がそびえる備中国分寺や、巨大な石室が口を開けるこうもり塚古墳からやや離れていることもあって訪れる人も少ないのが現状です。そこで、備中国分尼寺跡の全貌を明らかにしてその魅力を全国に発信しようと、大正11年(1922)に国の史跡に指定されて以来はじめてとなる発掘調査が行なわれました。国分寺(金光明四天王護国の寺)と国分尼寺(法華滅罪の寺)は、奈良時代の聖
2022.12.29①②山門③④本堂本尊の薬師如来は、およそ1300年前に行基によって作られたもので、重要文化財に指定されています。=龍頭光山筑前国分寺=創建奈良時代開基聖武天皇本尊薬師如来宗派高野山真言宗札所九州四十九院薬師霊場(1番)筑前国分寺は、大宰府政庁跡から北西に位置しており、その西側には国分尼寺跡、東側には両寺の瓦を焼いた瓦窯跡が残っています。伽藍は、中門・金堂・行動が直線上に配置され、中門の左側に七重塔がありました。現在の伽藍は、創建時の金堂跡に
2024年1月27日(土)。天気晴れ。今週も京王線「府中駅」へ。昼食は、「LeSigne」の「鳥光圀」へ。食後は、「ミッテン府中」の「ノースリンク」で紅茶とカップケーキです。嘉永5(1852)年に建てられたという「新宿庚申塔」。「新宿」とは府中宿の三町(番場・本町・新宿)のうちの一つです。「府中駅」から京王バス「寺91国分寺駅南口行き」に乗って、国分寺へ。2年4カ月ぶりの訪問ですが、また同じことを思いました。「国分寺書店」の国分寺。国分寺駅構内の賑わいは相変わらず。この真ん中にあ
お勉強の続き『しもつけ古墳群下野型古墳の特徴』①凝灰岩大型切石を使った石棺式石室②前方後円墳の前方部に横穴式石室を持つ③墳丘の第1段目が低く、幅が広い…②なんて呼び名が前円後方墳になってしまわないか?気になります6世紀以降の下野市周辺の古墳は6系統羽生田壬生石橋・薬師寺山王山・上三川国府飯塚・国分これを見ると飯塚・国分が一番目立ちますね本家という感じがします吾妻古墳国指定史跡6世紀後半壬生…下野型の典型的な古墳ですね国分寺愛宕塚古墳
寺社No.6410御朱印No.【なし】国指定史跡備中国分尼寺跡岡山県総社市2018年7月7日240111山陽新聞「南門礎石と基壇端確認」240419「備中国分尼寺実態に光」
銚子塚古墳から茶筅塚古墳へ。と思ったのですが、バスの時間まで1時間以上あったので、肥前国分寺・尼寺跡へ寄ることにしました。モズ顔に黒い線がないので、女の子のようです。カラスウリサネカヅラ国分寺跡まで2kmですが、植物好きには苦ではありません(笑)サザンカ肥前国分寺跡説明板があるだけです。そして、”塔跡”のあたりに建つと思わ
§6.市原市の郷土史65上総国分寺(前編)主要伽藍の跡地はいずれも国の史跡全国に遺跡として残る国分寺、国分尼寺は737年(天平9年)の天然痘の大流行や740年(天平12年)の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などに対して世の乱れを案じた聖(しょう)武(む)天皇が741年(天平13年)、いわゆる「国分寺建立(こんりゅう)の詔(みことのり)」を出して仏教の力で国家鎮護(ちんご)を図ろうとしたことにより創建(そうけん)された寺院であります。※国分尼寺の創建は光明皇后の存在が大きいようだ。ま
令和5年9月9日(土)今回も昼から出掛ける。11:45頃自宅を出発する。近鉄丹波橋駅⇒大和西大寺駅⇒奈良交通バス⇒法華寺。バスは30分に1本。西大寺駅で25分程気長に待つ。13:25頃法華寺に到着する。法華寺は奈良市法華寺町にある光明宗の本山の寺院である。山号はなし。本尊は十一面観世音菩薩で開基は光明皇后である。奈良時代には日本の総国分尼寺となっていた。元は真言律宗に属していたが1999年に真言律宗を離脱し、光明宗と称することになる。《法華寺》赤門。法華寺駐車場。由緒
平城京の古代寺院、法華寺と海龍王寺金澤成保奈良博の特別展「聖地・南山城」を観た帰り、TVで紹介された総国分尼寺の法華寺を、平城京跡の東域に訪ねた(拝観料700円)。近鉄新大宮駅から西北に徒歩で20分ほどの距離であった。その後、その神宮寺であった宇奈多理神社に立ち寄り、平城京遷都の頃に建立された海龍王寺を参拝した(拝観料500円)。宇奈多理神社は、造化三神の髙御魂(たかむすび)の神をお祀りする古社であるが、毎月1日と15日のみ門が開かれるため、当日は参拝できなかった。法華寺
さてさて……………ランチタイムにとても美味しい『ぼっこう蕎麦』を頂いた我々は、この日最後となる目的地に到着した………【吉備路風土記の丘】にある…………【備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)】岡山県総社市上林1046こちらも2019年10月以来2回目の参詣となる『吉備路ツアー⑫〜備中国分寺〜』【こうもり塚古墳】岡山県総社市上林【松井の井戸】こうもり塚古墳のすぐ近くにある。【松井】和歌にも詠まれていた井戸のようだ。再び【こうもり塚古墳】とのどかな風景…ameblo.jp前回の【備中国分
基本情報場所:栃木県下野市国分寺993電話:0285-44-5049開館:9:00~17:00(入館は16:30まで)休館:月曜日、第3火曜日、休日の翌日、年末年始(12/28~1/4)料金:無料特記:駐車場有①しもつけ風土記の丘資料館しもつけ風土記の丘資料館は、平成27年4月1日に栃木県から下野市に移管されました。令和3年5月には、常設展示室の全面改修および、収蔵庫や講堂を備えた新館の増築を行い、リニューアルオープンしました。歴史を初めて学ぶ小学生はもちろん
基本情報上総国分尼寺跡場所:千葉県市原市国分寺台中央3-5-2電話:0436-21-7633(上総国分尼寺跡展示館)開館:9:00~17:00(入館は16:30)休館:月曜日(祝日・休日の場合は翌日)、12/29~1/3料金:無料特記:駐車場有上総国分尼寺跡の見学は常時見学可能国指定史跡上総国分尼寺跡(リーフレットより)■国分寺の建立史跡上総国分尼寺跡は、市原市が古代上総国の政治・文化の中心地であったことを象徴する歴史的文化遺産です。国分寺は、
場所愛媛県今治市郷桜井1丁目伊予国分尼寺は愛媛県今治市にありました。伊予国分寺の南東の今治市立桜井小学校付近に伊予国分尼寺があったと云う。小学校に隣接して法華寺があります。国分尼寺と書いてありました。遮断機の無い踏切を渡る登って行く。さらに登って行く。山門。境内を見渡す。本堂。大師堂。さらに登る。瑜伽大権現堂。国分尼寺塔跡はさらに南にある。塔跡を東から見る。南からアクセス。塔跡。史跡碑。説明板。礎石。塔跡からJR伊予桜井駅を見る。伽藍配置
当ブログは趣味の釣りや自然観察郷土の歴史、庭仕事、家庭菜園など田舎暮らしの様子を岡山県からお届けしているブログです。みな様おはようございます。本日も訪問ございます。今日は4月12(水曜日)大安(吉備路の春を散策)ご覧いただいている写真は岡山県総社市にある備中国分寺周辺の様子です。軽トラを駐車場に置いて備中国分寺を一周してみました。この日の目的はキジを探して撮影する事でしたが、キジの鳴き声も聞けませんし見つける
相模国分尼寺講堂跡#相模国分尼寺講堂跡
こんにちは!昨日から新年度、予定とちょっと違うけど、今年度も色々と楽しむ予定です。年度末はいつものバタバタ、その上長期休み恒例の孫シッター、春休みも6日間お泊りしていきました。そんな訳でブログもすっかりご無沙汰でした。おかげで、桜も結構堪能できて・・・こちらは、「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」2月に行った時と違い、お花が咲いてすっかり春になっていました。カフェもなかなか美味しかった。キッズスペースもあります。カフェ・プイスト–CafePuist
薄墨桜開花しました2023/03/13撮影こんなに開花していました。昨日開いたのかもしれません。入口から2本目の木です。国分尼寺の礎石を再現した広場、奥の方の木もやはり開花していました。こちらは国分寺跡、ピンクの桃が咲いています。西の空が明るくなってきました。明日は良い天気、開花も一気に進みそうです。
【東大寺の歴史】HistoryofTōdai-jiTemple東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、神亀5年(728)に建てられた山房(後の金鍾山寺)に源を発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。〜東大寺より〜https://www.todaiji.or.jp/history/#東大寺#大仏
1/22日曜日は豊川市へ。以前から行ってみたいと思っていた三河国分寺跡へ。調べてみると三河国分寺跡だと思っていた場所は三河国分尼寺跡でした。三河国分尼寺跡奈良時代741年(天平13年)聖武天皇は仏教による国家鎮護のため、日本全国に建立された寺院です。国分僧寺と国分尼寺が国ごとに置かれました。僧寺は男性の僧侶がいる寺院、尼寺が女性の尼僧のいる寺院、一般に国分寺と呼ばれるのは国分僧寺になります。三河では現在の豊川市の国府町にありま
ガイドさんにご親切に案内してもらってやっと法華寺様に着きました❤境内のお向かいにあった空き地に「天皇宮法華寺」という石碑が立っていたのですがなんでしょうね❔本堂正面の入口は格の高い方専用らしく通行禁止でしたので、残念ながらここからちょっと歩きました。生け垣としてカラタチの木がびっしり生えていてトゲトゲがすごいです。入場出来る門まで結構離れていて松とカラタチが続いています。入場出来る門に着きました❗正式名称は光明宗総国分尼寺法華滅罪寺といいます。およ
場所福岡県太宰府市国分2丁目7−22筑前国分尼寺は福岡県太宰府市にありました。水城跡展望台から大宰府市立国分小学校の方を廻って下りて行きました。途中に陣ノ尾1号墳。説明板。ここから下った所に筑前国分尼寺があったと云う。説明板が建っています。説明板を拡大。筑前国分尼寺跡と云われる所は畑で何も遺構なし。少し南へ行った住宅地の中に礎石と云われる石があります。説明板。礎石は近くの畑にあったものと云う。筑前国分尼寺跡を見渡す。筑前国分寺の西に位置しているので、この辺
国分寺・国分尼寺1.東北陸奥国分寺***陸奥国分尼寺2.関東常陸国分尼寺***上総国分寺・国分尼寺***下総国分寺***安房国分寺***上野国分寺***下野国分寺・国分尼寺***武蔵国分寺・国分尼寺***相模国分寺3.北陸佐渡国分寺***越後国分寺***越中国分寺***能登国分寺***越前国分寺***若狭国分寺4.中部甲斐国分寺***信濃国分寺***美濃国分寺***遠江国分寺***三河国分寺・国分尼寺***尾張国分寺***伊勢国分寺***伊賀国分寺5.関西山城国分寺
一粒万倍日です!って買いてあって何年振りでしょう…宝くじを買いました300円じゃない方の宝くじです図柄が「仙台市」ここへ行ってみよう街探検へGO楽天球場の近く?ちょっと歩くけど史跡陸奥国分寺・尼寺ガイダンス施設というのがありましてまずはお勉強ガイダンス施設の横にこの宝くじの絵の天平回廊がありました再現施設ですね館内には国分寺、国分尼寺の歴史や出土品が展示されています宝くじの図柄になったのはこれか?国分寺は奈良時代、天平の頃聖武天皇の詔で全国各地60くらいだったかな
本日は、鈴鹿考古博物館の特別講演会に参加します。現在鈴鹿考古博物館では、伊勢国分寺跡史跡指定100周年記念秋季特別展として「国分寺」が開催されています。その「国分寺」にちなみ、特別展関連講演会『疫病と国分寺・国分尼寺』に参加です。講師は、日本宗教史や国分寺の創健や思想など数々の書籍を出版し、大学特任教授をされているお方です。
さてさて、童心に還ってブドウ🍇狩りを楽しんだ後は、せっかく古代からの歴史ある地に来たのだからと歴史のお勉強にレッツらゴー(古っ)ジャーンここは「国分寺市」。なにゆえ国分寺かといえば、さかのぼること1300年、時は奈良時代。さぁ皆さん、日本史で覚えたご記憶がおありのはず。「なんと(710)美し平城京」「鳴くよ(794)ウグイス平安京」ってね(^o^)/まぁそれはおいといて………(笑)時の帝「聖武天皇」が国内に国分寺と国分尼寺を造ろうじゃないか‼️と発令。これを「国分寺建立(こ
場所宮崎県西都市三宅3216-5日向国分尼寺は宮崎県西都市にありました。日向国分寺の北に日向国分尼寺があったと云う。跡地は宮崎県立妻高等学校の敷地になっています。校内に日向国分尼寺跡の碑が建っているらしいが…さすがに入れず。付近には尼寺坂という地名が残っています。場所が解かっただけでも良かった方かな。(おまけ)宮崎県ではダイキチの自販機にお世話になりました。山梨県のハッピードリンクショップみたいなものでしょうか。
坂出から高松市内に入ってまず向かったのは国府の北東2.5kmにある讃岐国分寺跡現在も四国霊場80番札所の国分寺として法灯をつないでいます(真言宗御室派)立派な山門をくぐってまずはお詣りしました現在の国分寺を含む東西330m南北240mが特別史跡として指定境内には金堂跡や塔跡の礎石が残り現在の本堂には講堂跡と考えられる礎石が確認されています本堂は鎌倉時代中期頃の建物国の重要文化財の銅鐘は奈良朝の鋳造ですいったん境内を出て民
5月に呼んでいただいた岡山での似顔絵イベントのあと古墳巡りへ。両宮山古墳など200mを超す巨大古墳の横に『備前地域最大!両宮山古墳〜岡山県赤磐市』最近はバタバタと忙しくゆっくり古墳ネタを書く暇がなかったので久々の古墳ネタです!5月の岡山県出張の際に訪れた岡山県赤磐市の両宮山古墳!ずっとリョウミヤヤマ古墳…ameblo.jpありますのが備前国分寺跡!!看板奥の緑の山が両宮山古墳です。国分寺ラブ奈良時代、741年に聖武天皇によって全国67ヶ所に作られた国分寺の1つ、備前国分寺。
2021.10.24陸奥国分寺と国分尼寺の位置関係①②山門③④本堂=護国山国分尼寺=創建奈良時代中興1570年(元亀元年)開基聖武天皇中興開山明屋梵察本尊聖観世音菩薩宗派曹洞宗札所仙台三十三観音(24番)陸奥国分尼寺は、奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、陸奥国国分尼寺の後継寺院に当たります。現在の国分尼寺の寺伝によると、もともとは天台宗の寺院で、前九年・後三年の役等により荒廃し、奥州藤原氏が壮麗な堂塔伽
このエリアでは1番有名なお寺ですね。こちらも5度目の参詣だったかな……遥か奈良時代、光明皇后の創建と伝わる名刹、その光明皇后を写したと伝わる、国宝の十一面観世音菩薩立像があります。東大寺が国分寺であった頃、こちらは国分尼寺として、女人救済を担っていたそうです。今日も尼さんが出迎えてくれました🙏十一面観世音菩薩立像は榧の一木造り、1メートルという、それほど大きな仏像ではありませんが、木目を活かした像容は、慈悲の姿をより暖かみを持って表現されています!特別拝観時以外は写しの像を拝観🙏