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『身体』を見つめ『感覚』にフォーカスし『心』に気づき本来の自分で『大丈夫』です私たちは『人間』ですから人を恨んだり羨ましがったりちょっとした儲け話に飛びついてあとで大変後悔したりそんなことがたくさんあってそりゃもう大変です会いたくない人に会ったり親しい人とお別れしたり欲しいものが手に入らなかったり欲情が燃え盛ったり心は
こういう考え方、捉え(とらまえ)方がある。参考まで。だから孤独を恐れる必要はない…僧侶が説く「仏教で“最も深い喜び”を得られるとされる行動」自分の「外側」より「内側」にこそ一番の喜びがある2025/11/03PRESIDENTOnline大愚元勝佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表https://president.jp/articles/-/104193?cx_referrertype=mail&utm_source=presidentnews&utm_med
私たちは自身の身体の何処かが痛くなると自然に心も重く暗い気持ちになります。また私のように医者から「あー、これは心臓の手術を受けないといけないですねー」と聞くと、痛くも無いのに暗くなるというか、ビビるかもしれませんね。それだけでなく自分の身体がもう永く無いなと思うとやはり心は重く暗い気持ちになるでしょう。身体の真実を知るとは、身体とは苦であると納得することです。身体は生まれた瞬間から歳をとり病になり死に近づいて行くのです。これはごく普通の事なのです。普通のことに対して、心が不安になり重く苦し
今日は日曜日でしたので、仕事がお休みの方はゆっくり出来たでしょうか。好きな事が出来たでしょうか。それとも大変な1日だったでしょうか。残念な日だったでしょうか。私の方は今日も仕事でしたけれど、気付き(サティ)の数が増えてきて、まあ一昨日よりは充実した1日であったかなと感じています。身体は苦(ドゥッカ)であるいつでもどこでも、瞬間の自分の身体と心の観察(気付き:サティ)が出来るようになれないと、落ち着いた世界にはなかなか到達しません。しかし俗世間の価値観に慣れ親しんだ私たちには難しい事でもあ
9月10日(水)19:30~、ひかりの輪東京教室(世田谷区)にて、上祐史浩の「ヨーガ瞑想講座」を開催いたします。心の安定・健康・悟りを助けるヨーガの体操・呼吸法・瞑想を解説・実習し、特に今回は「初期仏教の中核の瞑想:四念処」を特別に解説します。ヨーガ・瞑想思想の学習であって、宗教・信仰では一切なく、予備知識も不要で、一般の方でもご参加いただけます。来場参加に加えて、ご自宅等からのZoomでのご参加もできます。参加費は3000円となっております。ご機会・ご関心のある方は、お気軽にお問い合わ
常楽我浄の大転換-臨済宗大本山円覚寺[2022.07.17]を、必要となる経文を少しだけ補って読んでみます。本日は、ご法事の予定がありませんでしたので、お塔婆を書いたり、お戒名を考えたり、花瓶(けびょう)の水を代えたり、お電話に出たりして過ごせました。以下、ご法話の全文です。藤田一照さんは、坐禅を通して、私たちが大自然や他者に対して抱いている抵抗や対立が脱落してエネルギーの調和が生まれるということを説いてくださっていました。そこで一照さんは「全体的なエネルギーからからだが切
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)470〜471頁仏子よ、菩薩大士に十種の行処(ぎょうしょ)がある。十種とは何んであるか?一には正念の行処である。四念処を満足するから。二には諸趣の行処である。正しく法趣をさとるから。三には智慧の行処である。諸仏に随順するから。四には波羅蜜の行処である。一切智を満足するから。五には四摂の行処である。もろもろの衆生を教化し成就するから。六には生死の行処である。一切もろもろの善根を長養するから。七には一切衆生と雑談して戯(たわ
すでにある選択なき存在、気づきが存在意識といわれるものであるそれは粗大状態(日中の状態)、微細状態(夢見の状態)、元因状態(無明、熟睡)ではなくトゥーリア(ブラフマンは実在である)でありトゥーリアティータ(宇宙はブラフマンである目覚めた熟睡)である奇跡講座(ACIM)というスピリチュアルメソッドの参考書でもある「神の使者」という本(河出書房新社、ゲイリーレナード著存在の秘密の章より)では分離という空想心のあと、心が分裂し、最初の個別化つまり意識があらわれたとい
朝食。パンに塗るジャム等なにもない。バターもないので砂糖だけで作ったシュガートースト。パリパリ食感がいい。【七輪】悪魔のシュガーバタートーストがうますぎる!#asmr#recipe#bbq-YouTubewww.youtube.com昼食。チャリで隣町に行く途中のスーパー休憩室で自家製弁当。夕食。今日(15日)から「ささみかつ増量フェア」の松のやで。ゆっくり食べながら聴くmp3は、【瞑想の悩み】気づきは臨機応変に――四念処の実践方法スマナ
ヴィパッサナー瞑想は、瞑想と付いているので、素人の方は、座禅をしながらひたすら無になる、というような宗教的、信仰的なものと勘違いをされるでしょう。Vipassanābhāvanāヴィパッサナーバーヴァナーは、解りやすく言い換えると、「人間の心から苦が発生するシステムを、四念処を明確に観察し理解する事で、苦から脱け出す修行法」と言った方が、良いのかなと思います。四念処の四つとは、身・受・心・法(体、感覚、心、真理)で、要するに「人間が生きる事で発生する苦しみの原因を、自分の身体と心を使
道端で財布を拾って、心の中で天使と悪魔が言い争いをする。「ラッキー!貰っちまおうぜ。どうせバレないさ」「交番に届けてあげましょう。落とした人もきっと喜びますよ」心の葛藤を表す、古典的な表現です。誰の心にもある善と悪を象徴しているわけですが、もしこの中に仏さまも居たとしたら、どんなことを仰るでしょうか。私たちが拠り所とするべきものについて、お釈迦さまは「自らを拠り所とせよ」と仰いました。しかしこれは直感を信じるだとか、我が儘に生きるだとか、そういう意味ではありません。この言葉には
『ブッダの感興のことば』(ウダーナヴァルガ)中村元訳ブッダ(お釈迦さま)が、感興(かんきょう)(=興味がわくこと)をおぼえた時に、ふと口にしたことばを集めたものです。第30章楽しみ14.「心が真理を楽しみ、覆(おお)いをはなれたやすらぎを執著(しゅうちゃく)せず、四念処(しねんじょ)を楽しみ、またさとりを得るための七つのよすが(七覚支(しちかくし))を楽しみ、」15.「心が真理を楽しみ、覆(おお)いをはなれたやすらぎを執著(しゅうちゃく)せず、四神足(しじんそく)と八つの部分よ
不垢不浄、般若心経に出てくるこのことばには、世の中には汚いものと綺麗なものがあるわけでなく、全ては、汚くなく、綺麗でないと言っている。一元論的な、無分別な考えにのっとったら、浄、不浄の二つに全てを分けるのは間違っている。コロナウイルスを例にとれば、かかった人が不浄でかかっていない人が浄ではなく、経済を無視してロックダウンすることが正解ではなく、かといって感染防止対策を全くしないのが正解でもない。世の中が元の世の中と違って不浄になったと考えるのはおかしいのは、人間以外の生物が、全く変わらず過ごして
2小なる章2-11ラフーラ335[師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしばともに住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか?諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」336(ラーフラは答えた)、「しばしばともに住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、わたくしは致しません。諸人のために炬火をかざす人を、わたくしは常に尊敬しています。」以上、序の詩337「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。338
≪目次≫~プロローグ・断捨離を口にする二人の友人~~三毒「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」~~2種類の「涅槃経」~~人生は「生老病死」という苦しみの連続である~~涅槃と「輪廻転生」の違い~~六道輪廻とは~~涅槃に入るためには煩悩を捨てなければならない~~仏教を構成する三大要素「仏法僧」~~組織が衰亡しないための条件とは~~なぜ、戒律は必要なのか~~「戒」を守らずにいると災いが起きる~~仏陀が弟子たちに示した「法鏡」~~自灯明法灯明と「四念処」~~エピローグ・仏教は心
誰が何をやってるかじゃなくて誰が何を話してるかじゃなくて誰がどんな心でそれをやってるか誰がどんな心でそれを話してるかに興味がある。自分が何をやってるかじゃなくて自分が何を話してるかじゃなくて自分がどんな心でそれをやってるか自分がどんな心でそれを話してるかに興味がある。行動や言葉は分かりやすいけど、目に見えない心を知ることは、容易ではない。私たちには、神通力でもない限り他人の心を本当に知ることはできない。そして自分の心すらも、簡単に騙してしまう。だから今この瞬間も、気付き続
面白い経典(S.22.80:PiṇḍolyaSutta)を目にしたので、備忘のため、掲載しておく。引用元は、こちら。-------------------------------------------1.Sohabeichgehört.EinstweiltederErhabeneimLandederSakyer,beiKapilavatthu,imNigrodha-Kloster.2.DamalsnunhattederErhaben