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【問題】豊臣家による四国攻めで、城を明け渡して土佐へ戻った東条関之兵衛は、長宗我部元親にどのように処遇されたか?【選択肢】加増された柏島に匿われた死を命じられた高野山に追放された【正解】死を命じられた【解説】東条関之兵衛(実光)は長宗我部配下で、四国攻めの際、木津城(徳島県鳴門市)を守った。豊臣軍との激戦の末、開城して土佐に戻ったが、これに怒った元親に切腹させられた。
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。戦は終わり、元春は経言(つねのぶ、後の広家)と共に炎上した高尾城(たかおじょう)跡から戦場を眺めていた。小早川(こばやかわ)軍は金子元宅(かねこもといえ)ら伊予の軍勢に勝ったんだよね経言「父上、隆景(たかかげ)叔父上らの軍勢は河野氏(こうのし)をも降伏させましたが、我らは行かなくてよいのですか?」元春「わしは河野討伐には要はない。」経言「元宅(もといえ)殿との一騎討ちのみ…でし
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「お前は吉川元春!!」伊予国の野々市ヶ原から逃れた金子元宅(かねこもといえ)らの前に元春が太刀を持って現れたのだ。秀吉(ひでよし)さんの四国攻めで毛利(もうり)家は伊予を攻めたんだよ元春「元宅、久しいの!いつぞやの決着をつけにきた。」元宅「決着…知られていたのか…元春、隠居したのではないのか?」元春「お主と戦うのだけは話は別、この決着だけに来た。」元宅は笑みを浮かべ、元宅
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。元春と経言(つねのぶ、後の広家)は忍びの弥助(やすけ)と伊予国の氷見で合流した。元春「弥助、金子元宅(かねこもといえ)は今、どこにいるのだ?」弥助「手勢を率いて高尾城(たかおじょう)にいます。その数、600余。」経言「600⁉︎小早川(こばやかわ)軍は20,000近くの兵数ぞ。これではひとたまりもあるまい。」元春「経言、戦は兵の数だけにあらず。かつての厳島合戦では、我ら毛利(
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)6月27日、羽柴秀吉(はしばひでよし)の四国攻めの一軍、毛利(もうり)軍の小早川隆景(こばやかわたかかげ)軍は伊予国今治浦に上陸した。秀吉さんは伊予の他に讃岐は宇喜多(うきた)軍、阿波は弟の秀長(ひでなが)さんに攻めさせたんだ小早川軍の上陸を阻もうと長宗我部(ちょうそがべ)の兵が襲撃してきた。「うぉぉ〜!!」「向かって参れ!討ち取ってくれるわ!!」小早
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)春…四国は土佐国の岡豊城(おこうじょう)。城主は四国を統一しつつあった長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)である。一説には元親さんの四国統一は完成してはいないとも言われてるね「ふんッ!!」長宗我部元親像元親は長い槍を振っていた。そこへ弟である香宗我部親泰(こうそがべちかやす)がやって来た。親泰「兄上、羽柴秀吉(はしばひでよし)からの返答が来ました
【問題】天正13年の羽柴秀吉による四国攻めでは、弟の秀長が総大将となっているが、その理由は次のうちどれか?【選択肢】秀吉は九州に侵攻したため秀吉が出家中だったため秀吉は勅命で在京していたため秀吉が病気になったため【正解】秀吉が病気になったため【解説】四国の長宗我部氏との交渉が不調に終わり、天正13年(1585)、秀吉は配下に四国攻めを命じた。しかし、自身が病を得たため、弟・秀長を総大将として送り込んだ。
しくじり先生というバラエティ番組がある。過去にスキャンダルや不祥事などで失敗した著名人が、教師として教壇に立ち己の失敗談を告白する反面教師バラエティーだ。たとえば、M-1グランプリ優勝のミルクボーイ。過去に目標を見失ったことで5年間ほぼネタを作らず先輩付き合いやギャンブル三昧。二人の気持ちもバラバラになっていき劇場でも全くウケなかったしくじりの時代があったことを自ら告白。ネタづくりを止めて芸人としてどん底にいたふたりは、ある大きな出来事をきっかけに本気で漫才に向き合うと決意。そこか
今日の夜のテレビでなぜ、明智光秀が本能寺の変で主君である織田信長を討ったか・・・の光秀の葛藤と他の大名を守るためというのが分かりあぁそれが本当の所だろうなぁと思いました。とにかく昔の武将って皆、一生懸命してるのよそれを現代に生きる人があれはどうでこうでと批判するのは、愚の骨頂なのかもしれないですね。現に光秀は、私が裏切り者としか思われてしまうかも本当の心は違うのに主君を討ったことだけで私の真意は誰にも伝わらず後世まで裏切り者とだけしか、誤解されないのかもしれないと
光秀は謀反・裏切り、はたまた野望を持って信長を討ったとした秀吉の「惟任退治記・明智討」説が主流の本能寺の変。近年、四国統一を成し遂げた長宗我部元親(以下、元親)と「本能寺の変」の関連性を指摘する史料も出て来ています。天下布武を目指す信長は関東方面は滝川一益、北陸方面は柴田勝家、中国方面は羽柴(豊臣)秀吉、四国は明智光秀にそれぞれ担当させ競わせていました。そこに中国方面担当の秀吉が四国に関与した事で「本能寺の変」が起きたとする四国説。四国説土佐の武将・元親は信長から「四国は切り取
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【問題】西園寺氏の家臣であった土居清良は、豊臣氏の四国攻めで小早川隆景が入国した際、次のうちどのように処されたか?【選択肢】拷問の上処刑された所領を安堵された大友家へ送還された日振島へ流された【正解】所領を安堵された【解説】土居清良(せいりょう、きよよし)は、伊予西園寺氏の家臣で、四国攻めの後に小早川隆景が伊予に入った際には、その所領を安堵されている
今週が始まりましたね今週はバタバタしそうな予感でげんなりですSNSで話題の制県レベルを測ってみました。思ったより色んな地へ出没してました富山に宿泊してて、山梨に宿泊したことがなかったのが自分的に意外アプリがあるみたいなのですが、私はこちらで作成しました。皆様もよかったら、お試しください(¨̮)و✧来年は四国一気攻めでも計画しよーかなー
『讃岐人名辞書』は戦前に出版されたものなので、イロハ順で人名を探すことになる。またデジタル書籍は慣れないと扱いが難しく目が痛くなる(-_-;)しかしながら讃岐の古今の人物の伝記が記されているのでなかなか興味深いもの。岡山には山陽新聞社から出版された『岡山県歴史人物事典』があるが、香川にはこれほどの大著はまだ無いようである。四国新聞社から出版されないかな~?ところで『讃岐人名辞書』には高松左馬助頼邑について以下のように述べられている。「高松頼重の裔なり。道勝と諡す。喜岡城に居
https://the-liberty.com/article.php?item_id=143562020年大河は明智光秀実は超デキる武将だった!?《本記事のポイント》「本能寺の変=怨恨」ではなかった!?あまり知られていない光秀の「善政」あえて「悪役」を買って出た!?2020年の大河ドラマは、明智光秀を主人公とした戦国武将の群像を描く「麒麟がくる」に決まった。主演は長谷川博己さん、脚本は池端俊策さんが務める。内容は、光秀への従来のマイナスイメージを覆し、ポジティブな面
バカ殿扱いされている織田信長の次男信雄さん、多少は同情できるところもあるんですね(´・ω・`)長男信忠さんは優秀だったので、お父ちゃん信長は武田攻めの総大将に任命しました。そして、三男信孝さんもそれなりに優秀だったので、信長は四国の長宗我部攻めの総大将に任命したんですよ。この二つの戦いは、まず勝つことが決まっている戦ですが、大規模な戦いであることは間違いありません。信長は長男と三男を大戦の総大将に任命して武将としての軍歴を飾らせようとしたんですよ、それだけ長男と三男には期待していたんで
湯築城の続きは2つある武家屋敷のひとつ目、内部からご紹介。今で言う1DKか。仲間同士で連歌を楽しんでるシーン。左奥の僧侶、結構悩んでる感じが茶の準備中。内堀土塁。2つ目の武家屋敷。決して広いスペースでは無いですが、見てて楽しい中世の道具や遺跡が展示してあります復元された道路と排水溝。下の案内板を見ると、かなりはっきりと発掘調査でその遺構が見つかったのが分かります。土坑跡。用途はゴミ穴だったようで、それを表す出土品も相当量あったようです。ここまでで見所の7割ぐらいに達成
仙石秀久は秀吉最古参の武将です。織田氏と浅井氏との戦い=姉川の戦いから秀吉に付き従います。信長の命令を受けて秀吉の旗下になります。秀久14歳。秀久は順調に出世を重ねていきます。秀吉が近江の領主になると野洲に領地を得ます。後に淡路洲本4万石になります。秀吉の九州攻め、『戸次川の戦い』の際に、属将長宗我部信親、十河存保を戦死させた上、軍を取りまとめることなく、逃げ帰ったので秀吉の逆鱗に触れて領地を没収されます。秀久は高野山に追放されます。実は秀吉からの密命を帯びていたと言われます。四国攻
織田家明智家内藤家夢の共演明智光秀がのちに南光坊天海でないのか?と言う小さな頃からの私の疑問になった説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われること。本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」。長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』
博多やっちゃったあとだから記憶がボケてるけど整番150番代で高知よりは人いたけど箱が高知より見づらかったド下手5列目くらいにインしたスペース結構あったけど段差下だったから他の人降りてこなかったそっからだとギルとこーちゃんがスピーカーで全然見えないしかな?キリターなんでマイクスタンド見れたらいいんだけどちょっと残念(゜д゜;)タケオさんは要塞に入る時こーちゃんの機材の脇横歩きして入ってった。そんな狭いの???お兄ちゃんステージ狭すぎてセンターから動かないしOMG\(゜□゜)/
なぜ土岐氏が家紋を桔梗紋にしたかというと土岐氏の祖である土岐光衡が先陣で桔梗の花を兜に差し敵を大いに打ち破ったと「見聞諸家紋」にあることから、戦いに勝つという縁起を担ぐ意味もあったのではないかといわれています。当時は戦に勝てなければ家の存続自体が怪しかったでしょうからね。そして超有名な陰陽師・安倍清明が使った「清明桔梗」いわゆる五芒星ですがこれには魔よけの意味があり、土岐氏が使用した桔梗紋にも魔よけの意味があるとされています。桔梗紋は主君・織田信長を打った明智光秀が使用していたことから
4月29日に新居浜市の金子山に行き、戦国武将・金子元宅(かねこもといえ)を供養する法華塔(ほっけとう)を探しました。その②です。前回はこちらだよ⬇️あっさり見つけました!①下りの山道を進んでいくと……あっ!あれかな!!あっさり見つけちゃったね〜一歩行けばあったって感じでした。これが金子元宅の法華塔。この塔は金子元宅の家臣・伊藤嘉右衛門(いとうかえもん)の子孫が天保五年に建立しました。天保五年って1835年かな。江戸時代で徳川幕府の将軍は徳川家斉(とくがわいえなり)さんだね。
ふと昨年の2月の自分のブログを振り返ると…ん?何してたっけ?愛媛県西条市氷見の高尾城跡に行ってたのです。あ〜、そうだったね。高尾城跡って山城なんだよね。昨年は今年より少し暖かく感じましたね。この時は登山口を見るだけのつもりが…一気に登ってしまいました。その時のブログのその①がこれ⬇️懐かしいね〜。またどこかの山城行こ〜!もう少し暖かくなれば行きたいなぁ〜。ちなみに…この高尾城は羽柴秀吉の四国攻めの戦いの一つ、「天正の陣」の戦場になった一つですね。
徳島県徳島市一宮町にある山城。一宮城を攻めました。一宮城の説明。打つのめんどくさいので読んでください。因みに補足しますと、一宮成佑(なりすけ)は三好氏と対立しており、一宮氏は土佐の長曾我部元親と誼を通じ、長曾我部の先鋒となって活躍しています。その後、一宮成佑が三好康長と通じていると長曾我部元親の耳に入り、成佑は長曾我部の手の物によって謀殺されたのであった。そして一宮城は増改築され長曾我部の家臣谷忠澄、江村親俊が入り、天正13年(1585)6月羽柴秀吉の四国攻めが始まると
オープンハートの海景。です☆昨日は出張ヒプノに行ってきました。近くにはこんな会社がありました(^^)(磯じまんの上に避雷針?笑)クライアントさんは40代男性、Mさん。(あまり、詳しくはお伝えできませんが)彼は1500年代後半、日本の四国のとある土地に男性として生きてました。時は、戦国時代の真っ只中…人工的に作った水路石でできた橋竹林を青白く照らす綺麗な月囲炉裏のある8畳一間の小さな家多くの人と一緒に食事をしてる自分お城…焼き討ち…逃げる…追われる…Mさんの
自分が訪れている山城跡は遺構らしいものは少ししか残っている程度。しかし、その場所には城があったのです。新居浜市の城はほとんどが羽柴秀吉の四国攻めの1つ「天正の陣」で滅びてます。金子城跡新居浜市の高尾城跡おっ!金子城跡!久しぶりに行きたいね〜。実は行っていない城跡もあります。それは小河城跡!小河山にある標高約420mの山城で、やはり「天正の陣」で滅びました。その時の戦死者の霊が山に漂っていて、昔は日が暮れて小河山から帰ってこないと騒ぎがあり、その後、見つかった時には大ケガをしてい
本日は仕事が休み~天気は快晴で暑い~わぉ~出掛けよう~って言っても午前中は病院…昼少しに終わり、さてさて…実は!ビックリした~!どうしたの~?目指す城跡をあらかじめ決めていました。それは…愛媛県四国中央市の松尾城跡!!今まで西条市や今治市の城跡を目指していましたが、たまたまネットで調べていて、この城跡の存在を知りました。何やらピン!と来るものを感じました。この松尾城は戦国時代の豪族・真鍋大炊介通周(まなべおおいのすけみちかね)の山城で羽柴秀吉の四国攻めで小早川隆景率いる毛利
2016年6月1日、愛媛県西条市丹原町の耳金城跡に行きました。その⑤です。前回はこちら⬇️遊具いっぱいの城跡④さて樹々に囲まれた展望所を後にして帰りましょう~。山ん中は鳥さんの声が響いていたね~。来た道を先ほど来た案内板まで戻りました。ここからテニスコート方面へ降ります。ワンワン!足を滑らないよう気をつけるワン!って忠告ありがとう~。ふと樹々の方を撮りました。耳金城は伊予の河野氏の居城の1つ。1343年と1379年に讃岐の細川氏に攻め落とされています。南北朝時代だね。再び