ブログ記事7件
家系図を作成しながらのルーツを辿る旅。このブログに残す理由は3つ。・紙媒体で老化する可能性もあるので、デジタル保存用。・もし、今生きてる中でまだお会いしたことのない親戚がいるなら、会いたい。・ルーツを辿ると、「今生きている自分」が何倍にも尊くて、有り難く感じられます。何でも出来そうなほど、守ってもらってもらえてると、自己肯定感が上がる気がします。読者の皆様にも、こうしたことをお伝えすることで、元気をお届けできたら、と思ってますというわけで、「河野」家からスタート。前回
明智秀満(98)「信長公記」『明智日向西国出陣の事五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本をうち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、惟任日向守心持ち御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申し侯。廿八日、西坊にて連歌興行、発句惟任日向守ときは今あめか下知る五月哉光秀水上まさる庭のまつ山西坊花落る流れの末を関とめて紹巴かよう
明智秀満(86)「信長公記」『阿波国、神戸三七御拝領の事四月廿一日、安土に御帰陣。さる程、四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ侯につきて御人数御催なさる。五月十一日、住吉に至りて御参陣。四国へ渡海の舟ども仰せ付けられ、其の御用意半ばに候。』「いやぁ、さすがに疲れたわい。無事に安土に帰れて何よりだ。」と信長は上機嫌で言う。ここは安土城の奥の間、信長、長秀、光秀の三人しかいない。一益は関東御取次となり、厩橋にいるのだ。「左近がなぁ。所領を返上
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)1月、毛利輝元(もうりてるもと)は羽柴秀吉(はしばひでよし)との国境画定に応じた。「120万石か…」元春は吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)から小早川隆景(こばやかわたかかげ)と共に城下を眺めていた。吉田郡山城跡毛利は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国の7ヶ国と備中国、伯耆国の2ヶ国の西部を領有することとなった。隆景「120万5,
本能寺の変②「信長公記」『中国備中へ羽柴筑前相働き、すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落とし、数多討ち捕り、並びに、えつたか城へ、又、取り懸け候ところ、降参申し、罷り退く。高松の城へ一所に盾籠るなり。(中略)芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引率し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合い候事、天の与うるところに候間、御動座なされ中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけられるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使いとして羽柴筑前かた、条々仰せ遣わさ
第64番前神寺から東へ14km程永平寺の流れを汲む曹洞宗別格本山へきました達磨大師像寺院名;仏国山瑞応寺宗派;曹洞宗別格本山御本尊;釈迦如来所在地;愛媛県新居浜市山根町8-1TEL;0897-41-6563瑞応寺は、文安5年(1448)生子山城主11代松木景村が、鎌倉から月担禅師を請して父母の菩提のために堂宇を建立されました天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景の攻略により生子山城は落城し、戦火により消失したのです
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四国出兵。縄張りでけー。海城ー。天守ほしーですぅ。生駒親正。岐阜県可児市土田出身。信長系か。。。海城と言われる名残の櫓。石垣に味わいがある。テレビが撮影してた。ものすごいでかいクレーンで撮影してた。NHKか。大がかりだったな。今ならドローン。生駒騒動?初めて知った。ドロドロしてるな。混乱期だ。生駒家と藤堂家。
香積寺の次に向った先は第51番石手寺から西へ800m程道後温泉への道路沿いのお寺に来ました寺院名;護国山義安禅寺宗派;曹洞宗御本尊;釈迦如来所在地;愛媛県松山市道後姫塚114TEL;089-921-0966道後の「河野一族」は天智天皇4年(665)頃より活躍していた伊予の豪族です義安禅寺は天文8年(1539)に河野景通の子・河野彦四郎義安が建立したといわれ河野氏ゆかりの寺院で寺院名は建立者に由来します河野家は代々湯築
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お盆が近いので、試みにご先祖様、讃岐高松家の系譜を考察してみた。自分の代から祖父、曽祖父までは分かるが、そこまででだいたい戸籍制度の開始された明治初期か江戸末期になる。それ以前を調べるとなると菩提寺の過去帳、墓碑銘などからだろうか。残念なことに江戸時代中期から末期の讃岐高松家の詳細は明治期に菩提寺で内紛があったそうでよく分からない。南北朝時代の高松頼重から数えると自分で26代目位の末裔と聞いている。現在もどうにかならないものか調べてはいるのだが(^_^;)・・・。天正年間の高松
【問題】四国征伐の際、前線から戻った長宗我部家臣の谷忠澄は、主君元親に次のうちどのような進言を行ったか?【選択肢】全軍で紀伊に渡って手薄な大坂を攻めるべき弱兵ばかりなのでこのまま籠城を続けるべき豊臣勢は武具も立派で精強なので降伏すべき元親だけでも徳川領へ逃げて庇護を請うべき【正解】豊臣勢は武具も立派で精強なので降伏すべき【解説】四国征伐で、谷忠澄は阿波一宮城を守っていたが開城、元親のもとへ戻って降伏を進言した。これに元親は当初激怒したが、後に考えを改めて全面降伏した。
今日は特に長いので(;^_^Aお暇な時やご興味あれば、お付き合いください(^▽^;)来週は50kmレース最近、寝込んだり、疲れたりと、不甲斐なかったので(怒)今日は朝から気合を入れるつもりで、二部練習午前中は28kmをレースペース走(1km=4分45秒設定)夕方から22kmをジョグ午前中の練習での余裕の無さにガッカリ(><;)(一応、1km=4分40秒で目標はクリア)一週間近く寝込んだロスは大きく、未だ本調子には戻らず…でも、距離への耐性がある
さて、スタートした阿南市の史跡巡り。。。まずは、彼女の折り畳み式自転車を積んで、いつも通りに出勤(笑)会社の目の前が、城跡なので、車は停め放題(^▽^;)無断駐車はダメですきちんと決められたエリアに過去の西方山城跡記事。西方山城跡①西方山城跡②西方山城跡の前から、いざ25km先の椿泊集落を目指しますでも、その前に…途中にある桑野城跡をコンプリートしようと走ること約35分くらい…西方山城跡から、7kmほど南下すると、桑野城跡に至ります。まずは全体図から。築城年:天文年間