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お知らせ「教科書の研究」シリーズは、電子書籍になりました。どうかこちらをご覧ください。よろしくお願い申し上げます。http://ebooks.shueisha.co.jp/detail.php?book=sg948459
日本史の基本歴史の問い7(鎌倉文化+室町時代)(リンクは「問い」に対する答え、もしくは解説がある記事を示す)➊多様な鎌倉新仏教に共通してみられる、教義上の特徴を説明せよ。→日本史の基本84(19-1鎌倉文化新仏教)➋悪人正機説とは何かを説明せよ。→日本史の基本84(19-1鎌倉文化新仏教)→参考:早慶大受験・正誤判定新研究4(問3・4)→参考:早慶大受験・正誤判定新研究5(問3・4を考える)➌建武の新政が短期間のうちに失敗した理由を説明せよ。
*問題は、「早慶大受験・正誤判定新研究108(問57)」で確認してください。問57正解は➍。➍「抽分銭徴収方式」の部分が誤り。選択肢の文章➊・➋にも記されているが、室町時代、各地に散在する御料所(将軍の直轄領)の規模が小さかったため、幕府は、年貢収入などだけで政権を運営することはできなかった。このため、段銭・棟別銭、土倉役・酒屋役、関銭・津料、日明貿易の利益など、貨幣収入に対する依存度を高めていった。1441年の嘉吉の徳政一揆にともなう徳政令の発布は、土倉・酒屋に壊
21-4惣村の形成と土一揆中世は、社会の様々な階層に位置した人々が急速に力をつけていった時代だといってよい。その際しばしば、日常では達成できないような目的に到達するために、人々は、同じ気持ちを共有して一体化(一味同心(いちみどうしん))した集団を結成した。これを一揆(いっき)と呼んでいる。農民たちも、鎌倉時代後期以降の農業生産力の向上を背景に、みずからの手で、地縁(ちえん)にもとづく自治的な結合をつくりだしていった。これを惣(そう)(惣村(そうそん))といい、中世後半、畿内と
21-2嘉吉の変6代将軍足利義教(よしのり)の守護抑圧策が強化されるなかで、不安感を強めた有力守護赤松満祐(あかまつみつすけ)は、1441年、京都の赤松邸での祝宴(しゅくえん)に義教を招いて暗殺した。将軍の死は当時、「自業自得(じごうじとく)」「此(かく)の如(ごと)き犬死(いぬじに)、古来(こらい)例(れい)を聞かざる事なり」と評され、また、この嘉吉の変(かきつのへん)(嘉吉の乱)直後に、「代始(だいはじ)めの徳政」を要求する嘉吉の徳政一揆(とくせいいっき)が発生した。こう
2-8下剋上の世へ(SNG上p.99~p.103)➊嘉吉の乱と嘉吉の徳政一揆との関係について説明せよ。→参考:日本史の基本94(21-2・3嘉吉の変・応仁の乱)→参考:日本史の基本95(21-4惣村の形成と土一揆)➋応仁の乱がもたらした結果について説明せよ。→参考:日本史の基本94(21-2・3嘉吉の変・応仁の乱)➌惣(惣村)のもつ特徴と、その行動について説明せよ。→参考:一橋大論述新研究27(09-Ⅰ問題)→参考:一橋大論述新研究28(0