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およそ例という文字をば、尚後は時という文字にかへて御心あるべし山名宗全(1404年-1473年)山名宗全/山名持豊(やまなそうぜん/やまなもちとよ、応永11年5月29日〈1404年7月6日〉-文明5年3月18日〈1473年4月15日〉)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として
ブログばかり書いている場合ではないのですが…17年聖なる書籍を書いてきて、その多くで出会うのは人間界のウスギタナイ姿がほとんどな現実にさすがに疲れる…(このブログ会社だってそう。ウスッペラな正義感で犯罪補助をし、私のブログに制限までかけた。読者さんなら解るでしょう…ネット社会において、ウスッペラなコンプライアンスとAIの判断で良い人間界が来る訳が絶対にない!これは断言。モ、疲れた…)小さな、こなしていかなきゃいけない仕事もあるが、「チリも積もれば山となる」で、ちょっと山というより岡ぎみに…
嘉吉の乱――室町幕府を変えた将軍暗殺(ちくま新書1683)Amazon(アマゾン)242〜3,010円嘉吉の乱、というよりは室町時代の播磨の豪族・赤松氏の盛衰がまとめられています。足利義満は強大な権力を背景に、複数の国の守護を占めていた山名氏や大内氏など有力大名家の内紛を焚きつけて介入し、その勢力を削ぎ落とします。その子、義持も同じことを企み、目を付けられたのが赤松氏でした。父の跡を継いだ赤松満祐は備前・美作守護の継承は認められましたが播磨守護は没収され、又従兄弟で将
冬場は山城攻めに最適、と知りながら、毎年寒さに負けて出掛けられず、3月になってようやく動き始める。こないだの平井山攻めで味をしめた。自宅が伊丹空港まで自転車圏内ゆえの、リムジンバス利用という選択肢。。↓小谷城_遠望高速上のバス停・北条で降り、高速下をくぐって北へ出たらひたすら西へ。北方向に見えた山、あれがそうか。↓小谷城_ズームアップよーく目を凝らすと、本丸にあるあずまやが小さく見えているではないかテンションあがってきたww↓小谷城ルートマップ標高218mか。手頃な高さやね。
秋原監督「火面〜嘉吉の箭弓一揆」先月ばってん😅おそうなりましたばってん😅10月23日池袋ヒューマックスシネマズで上映後舞台挨拶したばい🎤中村玉緒さん、泉ピン子さん、小池百合子さんのモノマネもしたばい。訪問着、辻ヶ花を着てますばい。小池百合子氏のものまねに丁寧にお辞儀をする和泉元彌さん😊よか人ばい〜😄秋原北胤監督、主演の和泉元彌さん。美人女優の芦川よしみさん、よしりん💕が見に来てくれたばい。ベテラン女優さんだから、私の演技を見てダメ出しもらうかと思ったら、「ああいう
和坂構居(明石市和坂)別名:和坂構・和坂城・蟹ヶ坂構嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に、赤松満祐方の本陣として、須磨・明石方面を守る要害となった。和坂構居跡(坂上寺)明石市の城
おはようございます。今日も全国的に暑い1日になりそうです。熱中症にはお気をつけてくださいね。今日はUFO記念日、空飛ぶ円盤記念日です。1947年のこの日、アメリカで初めてUFOが目撃されました。アメリカの実業家ケネス・アーノルドが飛行機で移動中に、時速2700kmもの速度で急降下や急上昇を行っている9機の見慣れない飛行物体を発見しました。アーノルド氏はこの物体を「空飛ぶ円盤(flyingsaucer)」と呼び、全米で報道されると、同様の目撃証言が相次きました。事態を重視したアメリカ空軍が
このお寺さんは、スンゲ〜よ!数々の歴史絵巻の登場人物のお墓などがあるのね。その中で、1つだけ取り上げやす。やっぱり、ザックリと99.99㌫の省略です。【崇禅寺、本堂】〜・〜・〜・〜・〜・〜室町幕府;第6代将軍、足利義教(よしのり)の首塚。※墓、ではなく首塚です。多分?やけど・・・世界中ドコにも、こんなデタラメな話はないと思う。【足利義教の首塚、その他。】①室町、第5代将軍(義量・よしかず)は、あやつり人形で実
22.04/09sat.10:30-15:15JR播磨新宮駅から北口西側は「塩っぺ」「アラ!」の「ブンセン」東側は、揖保乃糸で「はりま製麺」の工場工場に突き当たり、左折右折して北西に新宮宮内遺跡弥生時代の集落跡生活の跡は縄文時代から平安時代まで及ぶ新宮こども園、新宮小学校を過ぎて北西にたつの市立埋蔵文化財センター遺跡、古墳からの出土品の展示その出土地のパネル展示嘉吉の乱、赤松満祐の終演の地城山城(きのやまじょう)は龍野城との中程の山…また次回の楽しみに、北西の山裾
山下城から中道子山城を目指す道の途中で、「大手門登山口」と記した看板が目に入りました。そういえばお城めぐりアプリでもこのあたりにお城が登録されていたような気がするぞと思って調べてみたら、ここは善坊山城という山城への登城口でした。しばしそこで車を停め、寄り道していこうかどうかを真剣に考えたのですが、ここを登ってしまうと中道子山城にはどう頑張っても登れそうな気がしなかったので、ここはぐっとこらえることに。後で考えれば中道子山城も明るいうちに下山できましたので、急げばこちらにも登れたのではないか
小谷城というとまず近江の浅井氏が拠った小谷城(おだにじょう)が頭に浮かぶ方の方が圧倒的に多いと思います(筆者もですが)。同じ「小谷」でもこちらは「こだに」。播磨国にあった小谷城は赤松氏が拠ったお城です。赤松氏は南北朝の動乱期に台頭し、室町幕府において重きをなす家柄ですが、足利六代将軍義教を暗殺するという豪快なクーデターに失敗し、一時は播磨を追われます。一般に嘉吉の乱または嘉吉の政変(嘉吉元(1441)年)として知られる事件で、その背景には赤松満祐と足利義教との確執があって、赤松氏を含め
【3月2日(水)】古代山城(神籠石)と中世山城(嘉吉の乱で赤松満祐が滅んだ城&尼子晴久が播磨侵攻で拠点とした城)が同居する城です。城域が広大で、比高差も400m以上あり、馬立の大手登山道から登り、兵糧道を下野田へ下山する行程で5時間50分を要しました💦所在兵庫県たつの市新宮町登城令和4年2月26日①馬立登山道(大手道)馬立古墳群の中を登っていきます。②山中にある亀の池(きのいけ)広大です。③亀岩ほかに蛙岩なんかもあります💦④北端の堀切と土塁。⑤石塁3⑥
前回は六角で横道に逸れてしまったけど、姫路市Webマップによると『この碑は、明治33年、六角公の450回忌を記念して子孫の本城氏が建立した。碑には、始祖は赤松氏で、山名氏との戦いに破れ書写山に遁れていたが、やがて山を下り、荒地を拓いたとある。』ここにも嘉吉の乱の足跡が…ここから六角村の名前が付いたんやろうな。花山法皇か性空上人を訪ねて来られた頃はまだ香山と言われていたのでしよう。昨日の記事にした地蔵尊は、この辺りに在ったのでしょう。六角氏の子孫の本城氏は今も名士のようです。こちらの
小谷区に来ました。公民館嘉吉の乱で有名な赤松氏の居城跡地があるようです。また覗いてみますか。
「紫雲山定願寺跡」は見つからなかったけど、移築した教信寺はすぐに解りました。勝手に官兵衛紀行では来ないままやったな。野口城跡でもあるんやな。司馬遼太郎の「播磨灘物語」では織田信忠に攻められたんやったかな?本堂はリニューアルしたとはいえ600年も前の建造物とは思えんな。御所と称してたのに山名氏に焼き討ちにあわなかったんかな?圓教寺の威光が効いてた?この説明文やと、廃れてしまった定願寺は「如意輪寺」が管理してたんかな?飾り瓦が珍しい。総門には牡丹の花?教信上人のエピソードが凄いな
今年の正月は初詣を自粛しましたが、来年は近場の書写山圓教寺と開山性空上人の隠居寺弥勒寺に行こうかと考えてます。そこで、書写山圓教寺のおさらい(というほど知ってる訳では無いけど。実はほとんど知らない。)で、書写山の周辺を彷徨いてみようと思います。播磨はなんと言っても赤松氏を抜きに語れません。説明書を読むと小さな城のようです。行政機関のための城というから、今で言えば市役所の出張所のような物?或いは圓教寺との連絡施設?なんと言っても西の叡山と言われ、3人もの天皇▪法皇が参拝に来てるんやから
【Q17443】極端に背が低く「三尺入道」と呼ばれ冷やかされていたのも事件の一因といわれる、室町時代の1441年、権力を振るった6代将軍・足利義教を自邸の宴に招き暗殺した「嘉吉の乱」の首謀者は誰?【赤松満祐】【Q17444】1963年に当時14歳のアメリカの学生マーク・ファインバーグが命名した、直前の二項の和を並べたフィボナッチ数列に対し、「1,1,2,4,7,13,24,44,81,149…」と直前の三項の和を並べた数列を何という?【トリボナッチ数列】【Q17445】昭和30年頃、飯田
まさき:武川佑先生の3月に出た本なんですけど、室町幕府6代将軍足利義教の時代を片腕の少女小鼓(こつづみ)が駆け抜けていく様を描いた時代青春小説です。恥休:なるほど、義教が征夷大将軍になり最後は嘉吉の乱で赤松満祐に殺されるまでの話ですか。まさき:この小鼓の父親が南朝再興に加担して義教(将軍になる前は義園)に追われ、その時に小鼓は左腕を斬られてしまう。小さい頃から父親に兵法を教
<2>修正部、百島移住の赤松一族7名瀬戸内海に浮かぶ尾道市の百島(ももしま)を訪れました。対岸の福山市常石港からフェリー(12分)、高速船(9分)で渡れます。写真①、常石港を出発したフェリーから百島の全景を東側から見たところで左のピークが島の最高峰の十文字山184mです。写真②、フェリーが百島の福田港に到着する処です。写真③、乗ってきたフェリーが尾道港に向けて出港します。総重量174トン、最速12ノット、150名乗り「百風」写真
・足利義政と銀閣と銀閣がある時代~日野富子と結婚するまで~1436年1月2日足利義政生(~1490年)室町幕府6代将軍足利義(よし)教(のり)の次男1439年足利義(よし)視(み)生(~1491年)足利義教の10男・足利義政の弟1440年日野富子生(~1496年)1441年嘉吉の乱赤松満(みつ)祐(すけ),自邸にて,室町幕府6代将軍(位1429年~1441年)足利義教(1394年~1441年)暗殺1441年9月山名持豊が赤松満祐を攻め,播磨木山城で満祐自殺(137
*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。前回「二著物語・足利義教(その1)」で紹介した森茂暁『室町幕府崩壊・将軍義教の野望と挫折』が記した義教の生涯・治世を伝記小説として活劇風にしたものとしては、岡田秀文『魔将軍:くじ引き将軍・足利義教の生涯』、双葉社、2009年が挙げられる。<以下、若干のネタばれがあるので、読んでみたい方は要注意>確かに表題通り義教の生涯を描いたものではあるが、義教の影が薄いという印象を読者は受けるであろう。と言うのは、
日本史に残る真の「天才」、足利義教の容赦なき戦いhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62937?utm_source=gunosy&utm_medium=feed&utm_campaign=link&utm_content=title日本史に残る真の「天才」、足利義教の容赦なき戦い日本の未来を見据えていた12人(第11回)「足利義教」|JBpress(JapanBusinessPress)しばしば、信長は「天才」「超人」とされる。信長は義教に
*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。室町幕府十五代の歴代将軍の中で二人が暗殺されている。その内の一人、第六代将軍足利義教は、籤引きで選ばれたことでも知られている(*暗殺されたもう一人は第十三代の義輝)。義教(この名前は将軍職に就いてからのものだが、煩雑を避けるために一貫してこの名前を使用する)は第三代の足利義満の跡を継いだ義持の同腹の弟として生まれ、相続争いを避けんがために幼少時に僧籍に入らされて青蓮院門跡となり、義円という法名で天台座主にまで上り詰める。そ
おはようございます。昨日は全国的に雨のところが多かったようですが、西日本ではまだ梅雨入りにはならないようですね。今週中には梅雨入りになるのでしょうか。今日は1441年嘉吉の乱。播磨守護・赤松満祐が室町幕府六代将軍・足利義教を自邸に招き謀殺しました。足利義教出典Wikipedia【嘉吉の乱とは】嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。
昨日は、英雄達の選択嘉吉の変をジョージと見たんですが、今の令和の時代とこの室町時代が非常によく似た状態。歴史を振り返ってみると答えが出ることもある。歴史は繰り返すんですよ。みたいな感じのことを話されていたんです。内容的には格差が非常に開いてきてそれを肌で感じれる馬借達から一揆が広がって応仁の乱へとつながっていく。そして当時異常気象。気温が低いのに雨が多く米がとれないとか。足利義教が暗殺されるんですが、他の家臣たちもみんな逃げたのに、No.2だった細川持之だけは信頼が失墜?その後なに
<第102代後花園天皇>(将軍)足利義教〔くじ引き将軍〕。1429年尚巴志・琉球統一。勘合貿易・復活。1439年足利学校。永享の乱〔足利持氏〕。1441年嘉吉の乱〔将軍義教VS赤松満祐〕。1457年コシャマインの乱〔アイヌ〕。
えーろうです。今回、嘉吉の乱が勃発した二条西洞院の旧赤松満祐邸を散策して来ました。ここは源氏物語でも出てくる平安時代には荒れ果てた二条院候補地で、その後荒地に室町時代赤松邸を造築したと考えられます。嘉吉の乱についてはこちら。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/嘉吉の乱最近は歴史マガジンにも〝劇画調で〟取り上げられ益々関心が高まっているのかもしれません。正式には赤松兵部少輔左京大夫満祐という官職で幕府の要職を担っていたそうです。しかし二条西洞院にはその痕跡