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昨年福井県を旅した際に、幕末の志士橋本左内先生の功績にふれることが出来ました。将来を嘱望されながらも、安政の大獄にて、僅か26歳で天に旅立った先生。明治維新後もご存命であれば、日本のためにご活躍なさったことでありましょう。15歳の時に遺した『啓発録』は、57歳の私が今、読んでも背筋を正される想いです。
最近の新社会人例えば会社で個人の書類を書いてというとお父さんに聞きながら書いてきますと答えるとかいやいやそこを言うなら父がとか母がでしょうまぁ個人差あるけれどそちらの傾向が顕著になってる中学3年の時、学校で立志式福井出身の橋本左内が15歳の時に書いた啓発録を読み上げさせられた稚心を去れ志をたてよ他3つあったけれど忘れた15歳でこんなこと思う?昔の人は凄いなぁと感じたのは覚えているそれをそらと話していた時言葉が出てこない昔の人ってあの〜え〜とえーなんだっ
おはようございます(‐^▽^‐)ほうしゅんどうの西山です(。-人-。)イツモカンシャ青空と厚い雲の混在した朝でありますそして本日も検温チェックOKでありますほうしゅんどうイメージキャラクター「どうさん」早朝は雨雲のようなものも浮かんでおり、雨予報も出ておりましたが、どうやら肩透かしとなったようで、現在は一面青空となっております気づけば最高気温も20度越えるようになってきましたので、流石にそろそろ冬仕様のものは
2年前本屋で手に取った『14歳からの啓発禄』は、幕末の志士が14歳の時に書いたものを、現在の14歳向けにわかりやすくまとめたもの。幕末の志士とは橋本左内。左内が14歳の時に書いたものを、死の一年前に親友に序文を書いてもらって浄写して弟と愛弟子に贈ったものだといいます。時代が違うとはいえ、その文章はもちろん内容にいたるまで、あまりにも成熟しており素晴らしく驚愕してしまって即購入した本です。これを読んでふと思い出したのが、中学生の時に『アンネの日記』を読んで、自分の日記との違いに愕然
去年、本屋で目に飛び込んできたのが『14歳からの啓発禄』。また14歳からのシリ~ズ本か…と思ったのですが、帯の「14歳の時の5つの誓い」を二度見して、思わず手に取って、ペラペラめくってみてしまいました。これは橋本左内が14歳の時に書いたものを、死の一年前に親友に序文を書いてもらって浄写して弟と愛弟子に贈ったものだといいます。時代が違うとはいえ、その文章はもちろん内容にいたるまで、あまりにも成熟しており素晴らしく驚愕してしまって即購入してきました。これを読んでふと思い出したのが、中
歴史を振り返ると、どうしてあの偉人が若くして亡くなったのかもっと、生きていて志を全うしたならその後の世の中はもっと素晴らしくなったと思えてならない偉人もしばしば織田信長、阿部正弘、吉田松陰など志半ばで倒れた偉人も多いその中に、我が故郷の偉人橋本左内先生がおられます。今日、10月7日は橋本左内先生の命日です。あの日、1859年(安政6年)安政の大獄が無かったらと悔やみきれません。時の大老井伊直弼を悪く言うつもりはないですが、「橋本左内先生を斬首にした」と現在の我々も怒りを
こんにちは林カオリです今日は、橋本佐内の言葉をご紹介したいと思います。橋本佐内は、幕末の志士で、。25歳の時に、安政の大獄で死罪となりました。なんともイケメン、今の時代にもいそうな感じですね。そんな下世話なことは置いといて。。。橋本佐内は、幕末の天才とも言われ、吉田松陰や西郷隆盛など、幕末の志士にも多大な影響を与えたとされる人物。彼が、15歳の時に書いた『啓発録』に書かれている5つの大切な事。稚
橋本左内は、僅か15歳の時にこれを書いたのですね。今の時代であれば、これから時間をかけて人生を知っていくであろうはずの若者から発せられる、強烈な言葉の数々。しかもただの理想論ではない。きっと、彼は実践しているのだ。ずっと、していたのだ。周囲がどんなにサボろうとも、「自分だけは」と。ちょっと怖い。あ。そうなのです。お気づきですか?僕は、安心したいのです。同じこと思ってる人がいるよ。なんなら、もっと厳しい考え方を持っている人
半月ほど前、本屋で目に飛び込んできたのが『14歳からの啓発禄』。また14歳からのシリ~ズ本か…と思ったのですが、帯の「14歳の時の5つの誓い」を二度見して、思わず手に取って、ペラペラめくってみてしまいました。これは橋本左内が14歳の時に書いたものを、死の一年前に親友に序文を書いていもらって浄写して弟と愛弟子に贈ったものだといいます。時代が違うとはいえ、その文章はもちろん内容にいたるまで、あまりにも成熟しており素晴らしく驚愕してしまって即購入してきました。これを読んでふと思い出した
今日のブログ、めちゃくちゃ感動した✨✨✨(*T^T)うーん、なんかうまく言葉にできないけど…こんな書き出しのLINEをいただきました。ありがとうございます。こうやって、読んでくださって反応を頂けるから毎日書き続けられているんだと思います。そして・・・もし僕のブログで勇気を持てているのならこれ以上に嬉しいことはありません。さて、僕は、現在大型出張中です。木曜日、金曜日は、福井で仕事をしていました。福井と言えば、大藩、福井藩。越
福井県では、中学2年生の時に、立志の集いで、橋本左内(1834~1859)の「啓発録」を勉強します。「啓発録」は、福井県が生んだ偉人、橋本左内が15歳の時に、自らの今後の生きる指針として書いたものです。橋本左内は、その年、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事しました。19歳(1852)の春に父が病気のため大阪での勉強を打ち切って、福井へ戻り、父の代わりに医者として患者の治療に励み、11月に父が病死すると藩医(表医師外科)の列に加えられました。この時を同じくして、1
橋本左内とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】|歴史上の人物.comcolorfl.net福井藩士だった橋本左内はしもとさないは、国を思って奔走した幕末の若き聡明な志士でした。安政の大獄によって26歳という若さで命を散らすことになった左内とはどんな人物だったのでしょうか。安政の大獄って何?安政の大獄とは、1858年から翌年にかけて江戸幕府、主に大老・井伊直弼の専制に反対する尊皇攘夷派の親藩・外様・志士らを処断した過酷な政治弾圧のことです。今で言ったら、岸田
7月、FIRSTSUNDAY-の夕方なんですが、ホンマ、1日中バタバタなんすね。早朝に起きてー、うーん、身体怠いー、でもね、頑張ってRUNへGO-なんすね。ほんでもって、いつもの公園でペース走GRに紛れ込んでこの時期では久々の4分45ペースで5㎞RUNなんすね。で、お家に帰って、Uチュウーブ見て、タバタやら、20分の筋トレーなんすね。ほんでもって、散髪ー、その後はそや、ウチッパへGOなんすね。ようやく落ち着いた所で、のど渇いたーって事でビール飲みながら、ブログUPやら、読んだ本(啓発録)の見直
子供読書の日の啓発ポスター(出所:文部科学省)「日々勉強!結果に責任!」「国づくり、地域づくりは、人づくりから」を信条とする参議院議員赤池まさあき(自民党・比例代表全国区)です。我が国を繋ぎ、護り、発展させるために、人づくりは最重要課題要だと思います。人づくりの中で、読書活動は「言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないもの」(子供の読書活動推進法)です。昨今の社会的経済的格差(SES)を乗
本日は神力コーチングありがとうございました❗️今日は橋本左内さんのお言葉が気になり、恥ずかしながらどんな方か存じ上げなかったので調べました💦吉田松陰にも勝るとも劣らない素晴らしい方で15歳の時に書いた『啓発録』が大絶賛されていました‼️私も是非読んでみたいと思います!ありがとうございました‼️また来月もよろしくお願いいたします😊恋愛・結婚・人間関係などあらゆる悩みを解決❗️《✨開運鑑定✨》ご予約・お申し込み受付中☺️▶︎ビリーブパワースクールhttps://info65264
明治天皇御製より日本の心を学ぶ~その41~祝皇紀2680年「日本賛歌祖国の命」心ある方々、是非とも御覧ください。宜しくお願いします↓よき友にYokiTomoniまじはりてこそMajiharitekosoおのづからOnodukara人の心もHitonoKokoromoたかくなりけれTakakunarikere<歌意>良い友人と交際してこそ、自分を高めることが可能である。◯交友は吾が連(つれ)・朋友の事にて、択ぶとはすぐり出す意な
もしこの人がもう少し生きていたら、歴史は大きく変わっていたはず。我が国にもそう思える逸材が何人も現れてきましたが、確実にその中の1人だと私が思っているのが橋本佐内今日は、6歳年上だった西郷隆盛をして「その才学器識は、到底自分が及ぶものではない」と絶賛したこの福井藩士・思想家の命日・没後160周年にあたります。佐内は1834(天保5)年に、福井藩藩医・橋本長綱の長男として福井城下に生まれました。幼少の頃からその才気は抜群、10歳にして『三国志』全65巻を読破・
昔の男性は12歳~16歳になると“元服”‥と言って、大人の仲間入りをしたものであるが、それは今より遥かに寿命が短かった‥という背景があった‥からであろう?若くして大人の仲間入り‥するという事は、それだけ今よりギュっと詰まった人生だったから‥とも考えられるし、大人になる事に覚悟がいっただろう‥とも考えられる。だから、その頃のそんな年頃の男性は今のその年齢の男の子よりずっと肝が据わっていた様に思う。例えば、“徳川家康”‥の子供“頼宣(よりのぶ)”‥は、13歳の時があの“大坂の陣”‥だっ
魅力的ある人の条件その一。「稚心は去り、童心は忘れない」新倉流武士道でいうところでは稚心とは「甘え」のこと。童心とは「素直」のこと。甘えに対抗する心として「克己心」素直の実践として「即行動」これができるおとなは魅力がある。15歳にして稚心を去れと書いたのは橋本佐内。西郷隆盛が同世代で唯一尊敬に値すると言った人物。吉田松陰が一度は会いたかったと言った人物。橋本佐内が書いた「啓発録」の最初にでるのが・稚心を去るこれはいつも自分自身に言い聞
瑞祥紹介する企画展明和の斎宮歴史博物館中日新聞縁起の良いことを求めてきた人々の風習を紹介する企画展「めでたい!のいろいろ-瑞祥(ずいしょう)ときざし-」が、明和町の斎宮歴史博物館で開かれている。明治天皇の御製かるた長野で企画展産経ニュース天皇陛下のご即位を祝い、明治天皇が詠んだ和歌を紹介する企画展が長野県須坂市の田中本家博物館で開かれている。和歌は、かるたの読み札と絵札に書...日本洋画壇リード梅原龍三郎企画展ギャラリー「玄羅アート」中日新聞大正、昭和の日本の洋
稚心を去れ、氣を振るえ、志を立てよ、学を勉めよ、交友を択(えら)べ。幕末、越前福井藩の松平春嶽公の手足となって、維新への胎動を起こした橋本佐内が著した「啓発録」という訓示の、主題五項目を一語に表した言葉です。あの安政の大獄で大老井伊直弼に殺され、志半ばで斃れた人ですが、その人が、自分の門に入ってくる少年たちのために与えた訓示が「啓発録」です。あの時代、学問を志す子供たちというのは、十二、三歳くらいだったのでしょうが、その少年たちに与えた訓示ではあっても、私たちの人生に大いに活かせる
仙台在住なのですが、生まれが北海道函館市であります、ぐちおです。まあ、そんなことはどうでもいいということで、小学生の時から、野球が大好きで、気づいた時には北海道日本ハムファイターズの大ファンになっていましたそんな中でも、今監督を務めていらっしゃる、栗山英樹さんのことを、キャスター時代から非常に尊敬しているのです。野球の考え方、選手の育て方、そして何より人としての在り方。その全ては、何年後かには名将と言われ、語り継がれると思っています。今回は、そんな栗山監督の最新刊「稚心を去る」中
一、稚心を去れ(去稚心)こどもっぽい甘ったれた気持ちを去れ二、氣を振え(振氣)元氣を出せ三、志を立てよ(立志)四、學を勉めよ(勉學)五、交友を択ぶ(択交友)これを書いたのは橋本左内です。※江戸時代末期の志士、思想家、越前国福井藩藩士。橋本左内は自分の志を15歳の時に書き記しました。それが冒頭の啓発録です。論語にある有名な孔子の言葉「吾十有五にして学に志す」私は十代で学問(人間学)を修めることを目指そうと決めた。若くしてリーダーを目指すことは
福井県立歴史博物館で行われている特別展「幕末維新の激動と福井」を見てきました。幕末明治福井150年博の一環として開催されているこの特別展には、初公開の貴重な展示が2点あります。ひとつは、坂本龍馬の花押(署名)付書簡の原本。そしてもうひとつは、橋本左内の紋服です。坂本龍馬のその手紙では、薩摩藩士に同行して関東に行くことを福井藩士・村田氏寿に知らせており、花押付の原本は全国でも唯一という大変貴重なものです。また、橋本左内の紋服は、左内の母梅尾が遺品として大事に持っていたものです。表は黒い絹地
宇都宮市・鹿沼市・下野市・壬生町・上三川町で、小学生・中学生・高校生のお子様をお持ちの保護者様へ他の塾で成績が伸びなかったお子様に大評判!「勉強しなさい!」と言わない塾子どもが自然と勉強する子に育つ『嚶鳴式”子”別指導』こんにちは。いつもブログをお読み頂き、真に有難うございます。塾長の柴田です。「他の塾で成績が伸びなかった。」「どこにいっても成績があがらない。」「勉強しなさい」と言い続けることに子どもと自分も疲れてきた。お子さんの成績があがらないのは、勉強の”仕方”
第8回逆のものさし講宮崎は、9月9日(日)初めて都城で行いました。清水店長の話は、巷で流行っている元気の出る系のセミナーとかスピリチャル系のセミナーとか営業系のセミナーなどとは全く違って日本人として生まれてきた者の魂を震わせるような…う~ん…一言では表現できない、一風変わった講義です。うまく言えませんが、回を重ねるごとにこれだけは言えます。これは、参加しないのは人生にとって大きな損だということ。逆のものさし講に参加して、清水店長の勧める本を読み、自ら考えて行動するよ
山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。噫、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみかへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ。山のあなた/カアル・ブッセ/海潮音(かいちょうおん/日本の詩歌28/中央公論社)この詩は、子どもの頃から暗記するほど読んでいた詩ですが、今また更に、「大事なものは遠くにあるんじゃないんだよ」という声が聞こえてきたので、覚え書きとして書いておきます。それは、橋本佐内の啓発録を読んでいてのこと。雪の重みに押しつぶされて、一度曲がっても立ち
(前回の続き、前回はコチラ「伊能忠敬の成長哲学(その②)」)本格的に天文学を学ぶようになった忠敬の探究心は、次第に「緯度一度の正確な距離を測る」というところに辿り着きます。当時、海外からの情報で、日本国内でも地球は丸いということは知られていましたが、その大きさまでは知られていませんでした。忠敬は、地球の大きさを知りたかったのです。緯度一度の大きさを知るためにはどうすればいいのか、忠敬の出した答えは、蝦夷地のような広い土地で測量をすることでした。蝦夷とは、今でいう北
『啓発録』は橋本左内が書いた以下五か条からなる自分の生き方への指針。現代にも通じる教えとして今も人々に読み継がれています。一.稚心を去る(子どもじみた甘えを捨てる)一.気を振う(やる気を起こす)一.志を立てる(一度決心したらその決心を貫き通す)一.学に勉める(すぐれた人物の立派な行いを習い、自らも実行する)一.交友を択ぶ(益友と損友を見極めて選び、益友を何をおいても大切にする)ブログの参考にさせてもらった石川洋氏による著書福井生まれの橋本左内は、15歳で大阪に出て適塾