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みなさまこんにちは、こんばんは。山本算数教室の山本です。今回もこのブログをご覧くださり、ありがとうございます。火曜日の真面目記事です。山本算数教室の近くにツバメの巣があり、毎年ツバメがやってきます。教室への行き帰りの際、いつもそこを覗き…あまり近くに行ってしまうと無駄に怖がらせてしまうかなと思い、少し離れたところから、彼らが元気に過ごせているかを見ています。今年は、覗いても誰も巣にいないことも多く…この場所に
学という機(はたらき)に応じて教という機がある学の無いところに教は無く教の無いところに学は無い安岡正篤『東洋倫理概論』より鳥の卵が孵化するときは卵の中のヒナが内から殻を破ろうとしまた親鳥も外から殻を破ろうとするそのタイミングがピタッと一致するからこそヒナはこの世に生を受けて外の世界に出られる学ぶ者と教える者教える者と学ぶ者タイミングが一致しなければ出会うこともありません内から破ろうとするタイミング外から破ろうとするタイミング早すぎても遅すぎてもいけないこ
妊娠は、「タイミング」が大切です。自然妊娠であっても、体外受精であっても、タイミングを逃すと、採卵もできず、着床もしません。凍結胚移植も卵子提供もタイミングです。アシストハッチングもタイミングです。卵子と精子で受精卵をつくり、胚盤胞という状態まで受精卵が育ったら、受精卵は殻を覆っている透明帯を破って脱出し、子宮内膜に着床しなければなりません。中から頑張って透明帯を押し破ろうとしますが、透明帯が硬ければ、なかなか突き抜けられません。タイミングよく透明帯を脱出しなければ、着床の
「啐啄同機(そったくどうき)」という言葉があって、この意味は、卵が孵化するときには、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、また親鳥も外からその殻を破ろうとする、そのタイミングがピタッと一致するからこそ、ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることができるという、まあ「タイミングって大事だよね」ということをあらわしている言葉といっていいんでしょうが、ちょうどそんな意味合いにピッタリなシチュエーションが昨日今日とありました。統計学の勉強に関する話です。ぼくが昨日あたりに、ボスとの
啐啄(そったく)同機という言葉、お聞きになったことはありますか。私は、NHKで十数年前に放送されたドラマ「フルスイング」で、初めて知りました。萩原聖人が演じる青年教師が、居酒屋で熱く語っていたシーンは、今でも鮮明に覚えています。啐(そく)は、ひな鳥が、卵の内側から殻を突っつくことを言い、啄(たく)は、親鳥がそれに呼応して、外側から、殻を叩く行動を言います。ひなが卵から孵る時に、親鳥がその気配を感じ取って、外側から殻を、コツコツと叩いて、殻を割って生まれるのを助け
さいたくどうき、漢字で書くと、「啐啄同機」これは仏教用語なのだそうですが、どういう意味かと言いますと、「お互いの呼吸が絶妙に合うこと」。もう少し詳しく説明しますね。「啼」も「啄」も少し見慣れない漢字ですが、それぞれの意味は、「啼」はひよこが孵化するとき、卵の中で鳴くこと。「啄」は親鳥がくちばしで卵を割ること。この意味は、ひな鳥が誕生するとき、つまり卵が孵化するとき、ひな鳥は、卵の内側から、殻を破ろうと、くちばしで殻をつつきます。
私がツイートしたものを貼り付けます❗汪汪@yukiyukichonジュンのツイート訳。#swagage#叫ぶ朝鮮#UKISSジュン#イジュニョンhttps://t.co/UhkSZ7k1072019年06月21日01:58汪汪@yukiyukichonピルドクとジュンのツイート訳。ピルドク「早めに見に行くよ!ジュナ!喉が乾いたら、コンビニ行って、ぜひマウンテンデューを買って飲んで!わかってるよね?」ジュン「そだね!サッと散歩がてら見に来てね😀😀😀😀😀」#UKISSJUN#이
今日は、全日國際展の展覧会でした。私も作品を出していますので、行ってきました。会場は、北千住の丸井11階にあります。入り口。所狭しと並ぶ、先生方の作品。この中で30分くらい冥想してヴァイオリン弾いてみたい。良い音出せそう。右は、鶴九歩先生の作品左は龍源齋大峰先生の作品なんといいますか、もはや、、、アートですよね。。。優れた書を見ていると、こちらも身体に影響を受けます。これでヴァイオリンを弾いてみると、私にはもっと分かりやすく音の変化として現れるのですけれども。まさか、ここで
卵が孵化しようとするとき、卵の中のヒナが自力で殻を破って「出よう」とする準備ができると同時に、親鳥が外側からつついて「出てこい」と刺激を与えてあげる。親鳥のつつくタイミングが早すぎれば生まれ出る機が熟していなくて死んでしまうし、親鳥が気づかずに遅すぎれば、これまた中で死んでしまう。早すぎるでも遅すぎるでもなくピタと一致するからこそ、ヒナがこの世の中に生を受けることができるのだという禅の言葉であり、教える側の教訓として取り上げられることが多い。塾という予習を中心とした教育空間では
百歳の論語(52)孔子の道を後世に伝えた曾子⑰吾が道は一以てこれを貫くⅲ子曰わく、参や、吾が道は一以って之を貫く。曽子曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曽子曰わく、夫子の道は忠恕のみ。里仁第四仮名論語43頁2行目です。先師が言われた。「参よ私の道は一つの原理を貫いているよ」曽先生が「はい」と歯切れよく答えられた。先師は満足げに出て行かれた。他の門人が「どういう意味ですか」と問うた。曽先生が答えられた。「先生の道は、忠(まこと)と恕(おもいやり
学という機(はたらき)に応じて教という機がある。学の無いところに教は無く教の無いところに学は無い。『東洋倫理概論』より学ぶ者と教える者教える者と学ぶ者タイミングが一致しなければ出会うこともありません。鳥の卵が孵化するときは卵の中のヒナが内から殻を破ろうとしまた親鳥も外から殻を破ろうとする。そのタイミングがピタッと一致するからこそヒナはこの世に生を受けて外の世界に出られるのです。内から破ろうとするタイミング外から破ろうとするタイミング早すぎても遅すぎてもいけ
こういった類いのロゴの依頼はちょくちょくある。何ら難しいことではない。心を込めて書いただとか、一筆入魂で気合を入れて書いただとか、くだらない付加価値を付ける方も見受けられるが、そんな大層なことではない。むしろ書をやってる人間であれば書けて当然。何が難しいか。それは客のニーズ(雰囲気・可読性等)に最大限応えられたか。完全お任せであれば個人の書制作同様にドカーンッと自己満を発揮すればいいだけの話しだが全ての依頼がそうとは限らない。それに応えるだけの表現力を持ち合わせているかが重要。という