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大僧正天海(254)「十五以上の者は召し連れ候へ、十四以下の子供は男女とも召し連れ候こと無用の由、山野に捨ておく事もならず、十四以下は淵これある所に夜々連れ行き、刺し殺し、水底に沈めたる由なり。」(「細川家記」)その頃、天草一揆勢は上津浦城跡に6500名が集結していた。一揆勢は村々に基督教改宗を迫り、改宗せぬものは皆殺しにした。天草の一揆は宗教一揆であり、異教徒に対しては実に残虐であった。このため、殺されたくなくて上辺だけ改宗したものも多数存在したのであ
ん武雄温泉♨️楼門東京駅や日銀本店を設計した辰野金吾の設計に依る宮原忠直は温泉♨️を湯治場から観光に変えた壮大なリゾート計画のようだ辰野金吾(1854~1919)の年譜1871高橋是清(1854~1936)が唐津藩の英語教師になったとき入門する1896日銀本店1912唐津銀行本店1914東京駅、武雄温泉道路側より左は元湯でしょうか?年譜にあるように東京駅と同時期に設計されたようです東京駅のホールと浴室を置き換えて全面に出すと東京駅のプラ
南光坊天海㉓天海が東塔南光坊に住むようになると、若い学僧たちが集まるようになり、荒れ果てた坊舎も次第に整備されていった。天海が比叡山に入ってからつくづく無念に思うことは、比叡山焼討により多くの経典・文書が失われたという事実である。「建築物は建て直せば済むが、焼失した経文は戻ることがない。これについてはオレにも責任がある。」と自省するのである。「どこまでできるかは分からないが、一つ一つ、探し出してみよう。」と決意したのであった。南光坊に倫子の使いがやって来
南光坊天海⑲「子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵衛へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に。」(「綿考輯禄」)慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの前哨戦で、人質になることを拒絶して死んだ細川ガラシャの遺言に「三宅藤兵衛」の名があることから、重利がこの時まで細川家に仕えていたことは間違いない。しかし翌年には唐津藩・寺沢家に仕えたというのだ。時期から考えて、ガラシャの死去と関係があるのだろう。キリシ
佐賀県は唐津市でリゾート気分唐津シーサイドホテルにて朝起きて、朝食の前にスパと温泉に入りましたまたまた誰も人がおらずすごく快適に過ごせました朝食もホテルのレストラン「月波楼」でバイキング形式でした。海鮮茶漬けの「朝からつ茶漬け」が唐津の名物のようで…。おいしかったのでおかわりしました(笑)デザートも右上の生姜湯がなかなかおいしかったホテルをチェックアウトした後は、唐津観光↑唐津駅にあったジオラマ特に動くわけではありません。唐津駅からバスに乗って唐津城へ当日、初めて知
唐津藩財政、借用書から読み解く4月15日にからつ塾松浦史談会会長が講演-佐賀新聞佐賀新聞今回は幕末唐津藩の財政に焦点を当て、財政難克服の立役者となった唐津藩主小笠原長昌の弟・長光の功績を「綿屋小嶋家文書」に残る借用証書などから読み解く。「桜の花」をモチーフにした金工作品展八代市|NHK熊本県のニュースNHKニュース【NHK】熊本藩細川家の家紋に使われていた「桜の花」をモチーフにした作品を集めた展示会が八代市で開かれています。会場には、江戸時代から明治にかけ…福井
田原家が眼病治療を学んだ高場順世は天草出身?「田原眼科医院①360年の歴史」の続きです。前回のブログで、香椎●の田原眼科医院は「家祖の田原貞俊(1671没)が粕屋町内橋●で眼病治療を学び、二代目の田原順貞が須恵町上須恵●で眼科診療所を開いた」と書きました。田原家が移り住んで来た地が須恵町なので、上須恵●で診療所を開いたことは解る。ただ、家祖の田原貞俊が眼病治療を学んだ地が、何故、粕屋町内橋●なのか?粕屋町内橋●は東区土井駅から約1.5kmの辺りで、青洲会病院が近く
建築家、辰野金吾博士を知ったのは、大学に入学直後、博士が建てた旧明治専門学校本館(当時、九州工業大学事務棟)の正面玄関の前で記念撮影したことだった。残念なことに、直後に取り壊された。旧明治専門学校本館の正面玄関、昭和46年、著者は最後列右から4人目九州工業大学(昭和46年頃)ただし、近くの西日本工業倶楽部の建物が現存し、保存されている。参考①別称に「辰野金吾記念館」旧唐津銀、没後100年で佐賀新聞(20193.21、参考)東京駅や大阪市中央公会堂など全国各地にシンボル的な建築を
旧唐津藩御用窯・中里太郎衛門窯(御茶盌窯)を訪ねる!「唐津焼学びの旅①唐津焼の歴史と窯巡り」の続きです。「唐津焼学びの旅」の二日目。名宿・水野旅館(下の地図●印)で朝を迎えた。今日は「まち歩き」の日だ。曇りの予報だが朝日も顔を出している。気持ち良い朝だったので、出発の時間まで、奥さんと二人で浜辺からお城近くまでを散歩することにした。↓水野旅館前の浜辺。唐津湾に浮かぶ鳥島(左)。右が高島で、宝くじ当選祈願で知られる宝当神社が鎮座している。波も無い静かな海。誰もい
一昨日の記事の続きですでは、刀じたいをみていきましょう。この刀は「葵美術」という日本刀販売のお店でネットオークションにかけられていたものです。※HP画像よりそしてオークション終了前日に、この情報を下さいました権先生と共に見に行って参りました。慶應〇八月是一鍛先日ご紹介のように、幕末に活躍した刀工・是一の作。通常であれば「慶應二年八月日」のように年紀を切るのですが目釘穴によって一字が見えなくなっています。ただ、穴の横にわずかに「-」が刻んであること
先日のよみカル公開講座の「おまけ」でご紹介した刀の事実はこの刀、在籍わずか約ひと月ながら新選組隊士であった子が、焼き入れした刀なのです。刀は「石堂雲寿是一」作。新新刀では著名で名工の誉高く、重要刀剣指定品が有ります。そして焼きを入れたのは、三好胖こと小笠原胖之助。先ほど、新選組隊士であった「子」という表現をいたしましたが、仙台で入隊後に蝦夷上陸して間もなく数え17歳で戦死しています。仙台で入隊の時の記事『桑名藩士他、新選組入隊』幕末、続きます150年前
本日はよみうりカルチャー横浜の講座です。先日行ってきた、顕彰碑除幕式の時のことも少しお話できたらと思います。さて、日にちが空いてしまいましたが、島田魁が所持していた「箱館新選組和歌集」の続き七首目はこちら。佐久間政範山里は淋しきものをけさの秋このはの末の風のさわだつこの方にも解説は書かれていないのですが、弁天台場で降伏した新選組隊士で「佐久間」姓はふたり。佐久間顕助さんと佐久間銀次郎(銀太郎とも)さん。ただ十九首目に、「佐久間知成」の和歌
幕末、薩摩や肥前佐賀などで蒸気の軍艦が作られ、運行されたのはよく知られているが、その燃料についてまで思いが至らなかった。薩摩藩であった鹿児島県に石炭が採れたなんて聞いたことが無い!ちなみに、長州藩であった山口県には有名所では宇部に炭田があって、製鉄のための良質な無煙炭もあったくらいで心配いらないが!著者の住む下関市の北浦海岸にも海底に石炭があることは、50年前発行の中学校地図には記載されていた。そう言われるまで、長崎の端島(軍艦島)、福岡の三池、飯塚など、明治になってからの石炭生産では有名で
先生は唐津で有名人最近では海外にいることが多いので一緒に歩いているとみんながびっくりしますwww私が古唐津が見たいと言ったら新しい記念館へ案内してくれました先生も太亀さんもまだ行ったことがないとwww記念館のスタッフも先生がいきなり来て慌てていましたwww御茶盌窯記念館3月10日(火)に中里太郎右衛門陶房の敷地内に御茶盌窯記念館を開館しましたがコロナ禍でだいぶお休みしていたようです12代が隆先生のお父さん!住まいだった
唐津城は、現在の佐賀県唐津市の北部にある満島山にある平山城。1608年、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が築城し、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を活用して建てられた。二の丸に藩庁御殿、三の丸は侍屋敷があり、本丸には天守台が築かれたが天守が存在したという記録は無い。1966年(昭和41年)に観光施設として模擬天守を建てた。寺沢氏が改易となった後は、一時天領となったが、その後、城主が大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と代わり明治維新を迎えた
ご訪問いただき、ありがとうございます。次の目的地に向かう途中で、旧高島邸がありました。入館料が必要みたいなので、大変失礼ではありますが外からの撮影で済ませてしまいました。目的地に向かい進んで信号待ちしていると。。「ご自由にお立ち寄りください」の文字が目に留まり、入ってみることにします。無料なら。。。という大阪のおばちゃん丸出しですが、旅も日常生活もメリハリをつけるこが大切かと思います。埋門ノ館は、旧唐津藩時代の名称を使用したもので、この館は茶道、華
ご訪問いただき、ありがとうございます。唐津に着いたのが12時ごろ。宿泊予定のビジネスホテルにカバンを預け、鍵をいただきました。フロントに置いてある唐津周辺地図をいただき、散策開始です。まず、その前に腹ごしらえ。初日のランチ候補が2店あったのですが、いずれも当日どんなハプニングが待っているか分からないし、自分のお腹の好き具合とも相談したいため、人気店ですが予約なしで臨みます。唐津藩に豆腐を献上していた歴史を持つ、江戸時代創業の豆腐専門店。豆腐料理かわしま
昨日の続きです。今回は天守内部の紹介です。1966年に5層5階の鉄筋コンクリート製模擬天守が築かれ、門や櫓も再建されました。唐津湾に面しています。入口です。ここから入るとゆるキャラ「唐ワン君」がいます。1Fが唐津観光・体験フロア2Fが唐津の歴史3Fが唐津焼4Fが休憩所5Fが展望所です。古文書や武具など撮影禁止もあり、一部だけ紹介します。大老の松です。1階入った所にあります。虹の松原で最も古かった松です。寺沢家初代のものとすれば、松の樹齢は
夜道とはいえ、久しぶりに散歩すると新しい発見があるようですね。例えば、唐津城内。この天守閣は二の丸にて撮影したものですが・・・・・・、その二の丸に歌碑があったんですね~。まぁ、私が気づかなかっただけだったかもしれませんが・・・・・・。それから、この塀の屋根瓦。よく見てみると、幕末時の旧唐津藩を統治していた小笠原家の家紋が刻印されていました。あとそれから、旧唐津銀行。こちらには、つい最近完成し、設置されたばかりの明治・大正期の建築家である辰野金吾と曾禰達蔵の銅像がありました。
天草地方を統治する拠点だった富岡城下島の北西端、細~い砂州でつながった半島の山上にありました。周囲は、350°くらいまでが海で、白兵戦を戦うとすると、これ以上堅固な立地は無いかと。築城主は寺沢志摩、そぅそぅ昨年行った佐賀・唐津藩の飛び地だったのです。しかし、天草・島原の一揆(島原の乱)が起こり、少数劣勢の城方は苦戦。城代の討ち死にも乗り越え、落城は免れる。寺沢氏は一揆発生の責めにより、“関ケ原”の恩賞だった天草を没収。その後、天草に入り富岡城を整備したのは山崎家治で、ここ
日本史の授業で『天保の改革』を主導したとして、皆さんもこの人物の名前には聞き覚えがあることでしょう。水野忠邦今日は、江戸時代後期に権力をふるったこの老中の命日にあたります。忠邦は1794(寛政6)年に唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれました。長男の芳丸が夭折したため、11歳の時に唐津藩の世子となり、その2年後には後に自らを引き立ててくれた徳川家慶(当時は第11代将軍・家斉の世子)に謁見しています。1812年に父・忠光が隠居したことで弱冠18歳で家
横浜にもかつて御用邸明治天皇の休憩所港見渡す伊勢山の地に産経ニュース現在、広く行われている神前結婚式は、明治33年に当時、皇太子だった大正天皇の「結婚の儀」が、初めて皇居内の賢所(かしこどころ)で行われたことを記念し..しだれ梅と落ち椿の麗しい美の共演「城南宮」eoあまり知られていない関西の絶景スポットを詳しくご紹介しています。今回は、京都市伏見区にある「城南宮」で2月下旬頃から見られる、しだれ梅と苔の上に落ちた...復元南門まずは絵で見て読売新聞奈良市の平城宮
唐津藩は徳川幕府を支える譜代大名が代々統治してきた。唐津・小笠原初代藩主の長子でありながら藩主になれず、老中として幕閣で支えた小笠原長行は、北海道まで旧幕府軍と行動を共にした。随行した唐津藩士24人は土方歳三率いる箱館新撰組に入隊している。幕府側の唐津藩の藩士達は明治になって武士身分を失って、この明治新政府に対し恨みを持ったまま苦労していたと考えられ、中には佐賀の乱や西南戦争にも反明治新政府側として参加していたとしてもおかしくない。明治新政府に批判的な人々が西南戦争のリーダーの西郷隆盛を神様
今月は、演舞場、浅草に行き、これから、歌舞伎座、国立劇場、国立劇場は、初春歌舞伎公演のほか、19日いちにち限りで、伝統芸能発表会もあり、宝生のお能習い始めた友人に付き合い初めて宝生能楽堂にも行くし、演舞場だけはもう一度づつ行く。いつもにも増してハードな観劇スケジュールになるなと、なるたけ昼夜一日通しにしたからか、思ったほどでなく、主人に今月はいるねぇと言われてる、いや、まだ今月終わってませんよ^_^。浅草はみて楽しかったと私の中では完結。演舞場は俊寛や春興鏡獅子、幡随院長兵衛は、観たあとすぐ
幕末続きますが、やはりボリュームが多いので本道軍と間道軍との動きに分けますね。宜しくお願い致しますm(__)m150年前の本日は、明治元年10月24日。この日、本道軍の大鳥隊は大野方面と七重方面とに軍を分けて戦いに備えました。まずはそのうちの「大野方面隊」二十四日早暁昨日議定せるが如く、軍を両道に分ち予は兵隊と共に大野に向う。(南柯紀行)この他、様々な史料にも書かれますが、煩雑になってしまうので、ここは大鳥さんの記述を基本として書きますね。こちら
唐津市東城内にあった城で別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
2018年11月5日月曜日高橋是清本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・【近代日本150年明治の群像】高橋是清講談師神田蘭1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれ、1936年2月26日81歳没。幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれ、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。神田蘭さん講談による高橋是清の紹介。1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれる
幕末、続きます150年前の本日は、明治元年9月17日。この日桑名藩士17名が、歳様の助言に従って新選組に入隊しました。同十七日、君公一統に拝謁を命せられ、御意に曰、我今度愈榎本と同艦し、何国迄も徳川氏を恢覆せんと欲す。(中略)我輩も何国迄も随従せんと同志を集して、忽に十七士と成る。森氏、新選組隊長土方敏三の営の赴き我輩十七人の志を述へ、且榎本公の詞云々の由を語りけるに我輩の意を察し、必す尽力すべし、心を安せよ、速に我隊に来れと言。一統心を案す。(戊辰戦争見聞略記)