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大分県日田市で、進撃の巨人のスペシャルイベント進撃の日田フェスタ開催!2025年12月6日(土)~2026年3月1日(日)※年末年始、休業日を除く◎謎解きイベントリヴァイ班の一員としてマメダマチ区の調査に参加せよ!(参加費、日本語3,000円(税込)、代言語3850円(税込))◎ミュージアム特別展示開催場所:進撃の巨人inHITAミュージアム(〒877-0201大分県日田市大山町西大山4106/道の駅水辺の郷おおやま内)進撃の巨人inHITAミュージアムANNE
こんにちはまたまた古新聞です杖立温泉に行って、シャクナゲ園に行った後は帰り道だからと日田市街に入って咸宜園跡を観てきました咸宜園とは江戸時代から日田にあった学校で、残っている建物や当時のことを解説する展示館がありました。展示館には、そもそも日田にそのような立派な施設がなぜあったかも含めて、たくさんの展示がされていました。日田には豆田町という古い街並みが残っています残念ながら、駐車場が少なすぎて立ち寄ることができませんが、天領となっていた江戸時代から日田の街は栄えていた
今回、日田市まではるばるやってきたもう一つの目的は、咸宜園跡を訪れることでした。咸宜園(かんぎえん)は、江戸後期、豆田町有数の豪商の家に生まれた広瀬淡窓(1782〜1856)が開いた私塾です。近世日本最大規模の私塾として知られており、多い時には5000人を超える入門者を全国から集めたとされています。広瀬淡窓は詩人としても多くの漢詩を残していますが、その中で最も有名な漢詩はこれかも知れません。休道他郷多苦辛同袍有友自相親柴扉暁出霜如雪君汲川流我拾薪道(い)ふをやめよ他郷苦辛多しと
作家司馬遼太郎は「街道をゆく~豊後・日田海道」で日田について語っている。曰く、日田は江戸期において三万二千石の天領地であった。天領地は江戸期を通じて凡そ四公六民の税負担率が守られたので、大名や旗本の領地と比較して、天領地の農民の生活には余裕があった。また日田は江戸時代後期に全国から書生が集まる有名な私塾、咸宜園があった場所でもある。漢学書生が街を闊歩していたために、土地で使われる言葉にも漢音の影響があったのではないかと推測した。例えば「日田は水郷です」という場合の水郷はひたではスイキョウと発音す
咸宜園の日(2月23日記念日)大分県日田市が制定。江戸時代後期、豊後国日田郡(現:大分県日田市)に生まれた儒学者の廣瀬淡窓(ひろせたんそう)が開いた日本最大規模の私塾「咸宜園」(かんぎえん)を多くの人に知ってもらうことが目的。日付は「咸宜園」が開かれたのが旧暦の1817年(文化14年)2月23日であったことから。記念日は2018年(平成30年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。「咸宜園」は年齢・学歴・身分を問わず、すべての門下生を平等に教育することを理念とした塾で、
令和7年・2025年の咸宜園のイベントのご案内です。大分県の日田市では廣瀬淡窓先生が現在の地に咸宜園を開いた2月23日を「咸宜園の日」と定めています。令和6年度「咸宜園の日」記念講演会・研究奨励事業報告会日時:令和7年2月23日(日・祝)午後1月30日~3時40日(開場:午後1時)会場:日田市民文化会館パトリア日田小ホール記念講演会演題:「明治維新史のなかの北里柴三郎」講師:今村直樹氏(熊本大学永青文庫研究センター准教授)研究奨励事業報告会テーマ:「近世後期の大坂に
9月19日、日田市の咸宜園を初めて訪れて分かったこと。写真では分かりにくいが、「釋」がつく塾生がいた。写真の一番下に二名あり。教育研究センターの学芸員の方に聞いたら、これらの塾生は浄土真宗の僧侶であって、塾生の多くを占ていたとのこと。帰宅して調べてみたらこんな記事があった。https://www.city.hita.oita.jp/soshiki/kyoikucho/bunkazaihogoka/kangienkyoiku/kennkyuushourei_1/koukai
広瀬淡窓が開いた大分県日田市(江戸時代は天領)の「咸宜園(かんぎえん)」を訪れた。その建物の部屋に上がった時、この説明が目についた。この「職任制」の下から2段目右から2行目にある「洒掃監」は何と読む、意味は「はて?」「しゅそうかん」?「酒飲みすぎて二日酔いじゃないかをチェックする係かな?」教育資料館で聞いたところ、「よくご覧ください。旁には横棒がありませんよね。ですから酒ではありません。「さいそうかん」と読み、掃除係のことです。」「た、たしかに、横傍線があり
恩を施すものは、内に己を見ず、外に人を見ずば、即ち斗粟も万鍾の恵みに当たるべし。物を利する者は、己の施しを計り、人の報いを責むれば、百鎰と雖も一文の功を成し難し。咸宜園。
日本最大規模の私塾大分県日田市国史跡咸宜園日田市では廣瀬淡窓先生が現在の地に咸宜園を開いた2月23日を「咸宜園の日」と定めており、2月23日に開催される令和5年度「咸宜園の日」記念講演会・研究奨励事業報告会のご案内です。日時:令和6年2月23日(金・祝)午後1時~午後4時(開場:午後0時30分)会場:日田市民文化会館パトリア日田小ホール記念講演会演題:「明治の事業家と漢学」講師:町泉寿郎(まちせんじゅろう)氏(二松學舍大学文学部教授)研究奨励事業報告会「咸宜園出身
肥後人吉城からブーンと九州を北上縦断、豊後・大分県日田へ。江戸時代の私塾、広瀬淡窓が主宰した咸宜園へ。文化14年(1817)開塾から明治30(1897)年まで続き、その間、門弟5000人を数えたという。広く塾跡地が保存されていた。建物は、右手の淡窓ら歴代塾主が利用した居宅・秋風庵、左手の淡窓の書斎・遠思楼が残る。咸宜とは、「みなことごとく」という意味で、学歴・年齢・身分に関係なく誰もが塾生になれ、みな平等に学問を受けたという。しかし毎月!の試験はきびしかったらしい、ムムム。
『きょうの、この24時間』ー草柳大蔵・扇谷正造✪吉田松陰の教育法(扇谷)人間そのものは、何千年もの昔からちっとも変わっていない。そして、その基本は「色・食・闘」だという。古来、宗教家も哲学者もみんなこの3つをどうイナそうかとやってきた。人間は基本的には変わらないけれども、服装と食事や車は変わって行く。だから人間の心理や感情の動きは、自分を見つめればすむ。しかし、外界の条件は変わってきている。その辺を現代的にアレンジするということだったんでしょうね。(草柳)何にありますか。(扇谷)手塚さん
こんばんは、mmm(まーママ)です。11月12日(日)大分県日田市で、「日田天領まつり」の見学。夜の、千年あかり。17時を過ぎて、あかりに灯がともされ始めました。まだ外が明るいから、うまく写真撮れないね。薫長酒造のあかり。こちらも。長福寺夜のかぐや姫。中城川沿い。長蛇の列が出来ていた、こちらのお店でおやつ買います。鳥市本店
自分のご先祖様のことを学ぶために。また、自分の学びのためにも。日田に行きたかった。日田には、何度も出かける。別に観光旅行ではない。行くところは同じところだ。咸宜園。長福寺・・長生園に。そして広瀬淡窓生家へ行く。特に広瀬淡窓の生家は、絶対に行きたいと思っていた。改装中の看板を見て営業再開を心待ちしてた。そして、今年の春に営業再開したことを知り。ちょうど連休だったので・・ホテルを予約した。観覧料を払い、自分は広瀬家の家族の絆とそして、広瀬淡窓が育んだ
(誤字脱字乱文乱筆をご容赦)豊後・日田街道(司馬遼太郎「街道をゆく」)道はすべて山中である。途中、ほとんどが杉山である。先生と植林された杉山の風景というのは、東山魁夷が好む画題だが、日本特有の景色でもあるであろう。山が激しく傾斜して道路へ落ち込んでいる。その斜面はすべて杉であり、道路からさらに谷へ落ち込んでいる斜面も過ぎである。その谷向も杉がぎっしり取れつして黒緑の壮大な面を作っている。これほど日本中に杉の需要があるのかと心配になるほど、杉で埋められた山谷が続いている。司馬遼太郎
日田市に来た目的は、廣瀬淡窓関連の場所を巡ることだ。それは、廣瀬淡窓資料館の再オープンの話を知り、楽しみにした旅行だ。前回では改装中だった資料館と閉館間際に駆け込んだ咸宜園の失敗から、私は自宅を早朝に出て、博多駅で高速バスに乗り込む。ちょっと遅れたが無事に午前中に日田に着いた。咸宜園では、門下生の子孫と知り、親切丁寧な咸宜園の説明を受けた。話を聴きながら涙が流れる。幼い頃から咸宜園の古都、廣瀬淡窓のことを実母はずっと語ってきた。その思いを知ってるからこそ、咸宜園の話はとても感動的だった。
日田市の豆田町に入り口近くにある長生園は、廣瀬淡窓を始め咸宜園を支えた廣瀬一族の眠るお墓がある。ここに行って手を合わせる。ここは、誰も行かないところで目立つ場所ではない。住宅地の一角なので知らない人が多いと思う。自分の先祖との関わりがあるので、ぜひとも行きたい場所の一つとなった。Chosei-en,locatedneartheentranceinMameda-cho,HitaCity,hasthegravesofHiroseTansoandothermem
今回の旅の目的は、数年間の改装中で見れなかった廣瀬淡窓資料館がリニューアルオープンした。それを知り即座に行くことを決めた。展示物の他には、新しく動画などを説明するところもできたようだ。廣瀬淡窓の実家であり、また咸宜園を経済的に支えた広瀬久兵衛の家業についても学べる場所だ。咸宜園は、廣瀬淡窓だけではない。資金の援助は家業の両替商を引き継いだ広瀬久兵衛と、精神的にサポートした姉秋子(ときこ)の存在が大きい。そして、咸宜園を守った賢人の存在が大きい。それを感じたのがここだった。展示してる時
日田市に着いて最初の感想は、韓国、台湾、中国からの観光客が目立ってると言う印象だった。駅に到着してコインロッカーを探し荷物を預けるときに、聞こえてるのが韓国語が多いと感じた。そして豆田町も思ったよりも観光客が賑わっていた。もちろん、集団、家族でペアなどが多く見られた。そして、言葉ももろに外国語が多かった。そんなことを感じながら豆田町へ向かう。目的地は咸宜園だった。咸宜園は、二年前に訪れたときと同じように来る人が少ない。なんか地元の人が数人いたぐらいだ。あの時は、閉館間近だったの
大鳥村中村を通り柚ノ木村へ向かいます。旧町道は、村間の里道をベースに拡げられていたのですが現在は別に農道が新設されています大鳥からの路は、ここへ出てきて一里半の道のり、ようやく小関亨宅へ到着しました。未の刻斗にや柚の木につきぬ午後二時ごろ柚ノ木に着いた。待儲けたる一家の奔走おふかたならず主人ハ小関を氏とし名ハ玄珪風流には逸峰と呼ふとか仁術の業をせらるれハ即時長生をせよと菊花のやとり哉一行を待ち受ける一家は準備でバタバタし
大分県日田市をのんびりサイクリング!!👆おひなまつり期間中ということで日田市をサイクリング!!👆適当に車を乗り捨てて折りたたみ自転車でスタート!!写真をたくさん撮りましたがまだ整理できてません。👆有名な咸宜園跡地。やっぱり個人的には咸宜園といえば大村益次郎ですね!!広瀬淡窓先生の墓所をご紹介します。いくつになっても勉強勉強勉強ですね!!死ぬまで向上心をもって生き抜きたいですね!!そこまで自分に厳しくはで
○英彦山参道の最も上、奉幣殿のすぐ下に、広瀬淡窓の詩碑と杉田久女の句碑とが存在する。杉田久女の句碑については、すでに、次のブログで、案内済みである。・テーマ「豊国」」:ブログ『谺して山ほととぎすほしいまゝ』谺して山ほととぎすほしいまゝ|古代文化研究所:第2室(ameblo.jp)○英彦山には、豊前坊高住神社前にも、杉田久女の句碑が存在する。・テーマ「豊国」」:ブログ『橡の実のつぶて颪や豊前坊』橡の実のつぶて颪や豊前坊|古代文化研究所:第2室(ameblo.j
戊辰戦争で敗れた長岡藩は、74,000石から、24000石に減知された。この窮状を救おうと、支藩の三根山藩から届いた届いた、米百俵。これを、大惨事の小林虎三郎は藩士に分け与えず、国漢学校の設立資金に。「百俵のコメも、食えばたちまちなくなるが、教育に充てれば、明日の1万、百万俵となる。」こういって藩士を諭したという。辛抱ですね。これは咸宜園の写真。
二十一日となりけりこたみ伴ひし亨の郷ハ柚乃木と呼て是より一里に半ハほともあらなむしかも北にあたりて歸路の序よけれハ立寄て一夜やとり給へとしきりに乞ふてやます廉卿も黙止しかたくて需めに應す應すやいなや亨は寺を辞してひとりわが家へと駈る二十一日になった。この度伴っている小関亨の郷は「柚ノ木」という所で専称寺から一里半程はあるだろう。しかも北(日田方面)にあたり帰路の方面なので是非立ち寄って一晩泊まってください…と懇願してやまない。廉卿(淡窓)も黙止してられず応じた。応ずるや否や亨は寺を
到專穪寺蘭秀路從寒岸上樹老出霜根雨急行人絶霧深初月昏聞鐘知有寺問客苦無村今夕何邊宿孤燈竹裡園道に従い寒い河岸の坂を登る老樹の傍に霜柱が出ている雨が急がしく行く人も絶えた霧が深く初月も見えない鐘の音が聞こえ寺があることを知る村には尋ねる人もいない今夕の宿はどの辺りか孤燈が竹林の向こう側に見えた宿專穪寺二首廉卿簷際風鈴歇復鳴佛前燈火滅還明四更酒醒眠難著坐待木魚呼粥聲簷ぎわの風鈴が繰り返し鳴っている仏前の燈火の明るさが増減する四更(午前二時頃)に
朝方、秋風庵を出発して夕どきに専称寺に着いた一行は、ひとまず振舞われた温かいお茶をすすりながらひと息つきます。この五馬行きの中にも師・淡窓の詩作教育が見て取れ、実体験で見て感じたことを塾生それぞれに表現させました。伯父の月化は五馬紀行を起こすと、紀行文の間あいだに塾生の詩をそれぞれ本人に書かせ載せています。遊專稱寺亨遠上襌宮竹逕賖芭蕉低綠映窓紗山僧引我斜陽外更向東村賣酒家遠く山上の寺は竹道で遥か芭蕉の緑が窓紗の下の方に映る山僧が斜陽の戸外に私を連れ出し更に東の村へ酒を買
いよいよ専称寺まであと少し。江戸後期・五馬市村耕地巨細図の一部(別府大学アーカイブスセンター所蔵)赤色が路。上から二本目を辿っています。「大坪」からの里道は藪で分からなくなっていますが、天ヶ瀬への市道福島線沿いに東側の出口が残っています。市道を横切り直進すぐに左へ入る様に路は通っていました。数百メートル進むと「宇土」という集落に出ます。坂道を登り終えると専称寺が見えてきました。この十字路より寺に入ったと思われます。江戸後期・五馬市村耕地巨細図の一部(別府大学アーカイブス
右寄女子畑横手の宿なんと道すからの秋景~牧原にて一息ついた一行は、いよいよ五馬に向かって山道を踏み始めます。牧原付近では唯一、県道脇に20m程残っている往還道跡。肥後方面への往還道を見寄、女子畑、横手など経由し五馬へ向かいました。見寄の往還道跡昭和期の女子畑・熊野神社前の往還道石畳跡(岡城路・大分県教育委員会)女子畑・追分左側の塀の家は宿だったようです。伝切の旅籠跡(岡城路・大分県教育委員会)大山町続木の石畳跡
上堰亨老柳疎〃野水頭二三閑客喚行舟我來欲極長洲色微雨寒煙鎖暮秋森家絵図(文政年間)複製咸宜園教育研究センター上井手の渡しは昭和前期まであったようです。平成に入り、農道の新設と共にちょうど渡しの真上に「天領大橋」が架けられました。月花は、大井手から200mほど上流の船場から引き船で対岸に渡りました。対岸のこの辺りに着きます。大井手を飛び石して渡った若者たちは既に船着場で待っていた事でしょう。此あたりより雨そぼちぬ一坂登りて牧原に
秋風庵横の路を東に200m程進むと豆田上町からの道に合流します。そこを右折、南に向かいます。ここを直進するルートもありますが、本文の流れから幹道でもあるこの道を歩いたと思われます。〜ゆく事わつか斗龍馬の森のこなたにして田嶋蘭秀十九歳の塾へとかよふに相逢ふ。二三子聲をかけてしかじかの事にまかる也。足下にもと促寸。こは興ある催しにこそ所作ありそれはたしてやかて後へより追付なんと約して別る。〜出発してまもなく、龍馬の森の手前(日田駅北側・現田島本町付