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岡山県和気町の和気神社です。鳥居前には高さ4.63m青銅製の清麻呂公の像が立ちます。最初拝見した時、とても厳しいお顔をされているなと思いました巨大絵馬狛猪が護られています!明治28年に造営された随神門です。拝殿に参拝した時にお宮参りのご祈祷が有りご祈祷後は皆さんで「こうやってくぐるのかしら〜」と茅の輪をワイワイとくぐっておられました♪おせっかいおばちゃん始動をぐっとこらえる駆け寄って「こぅやって、こぅやってくぐるんやで〜」と言いたい(笑)私は本殿の方もぐる〜っと参拝させて頂き
和気清麻呂は、奈良時代末期の733年備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)に生まれました。3歳上には姉の広虫姫がいます。和気清麻呂公を祀る岡山県和気町和気神社です。狛イノシシが出迎えてくれますよ和気氏は、第十一代垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬでしわけのみこと)の子孫とされ、代々郡司の役についており、この地を中心に備前・美作に栄えたそうです※郡司とは、飛鳥時代以降の律令制のもとで「地方」に置かれた役人です。行政・徴税・懲罰等により、地方を治めていました。広虫・清麻呂は成人すると上京して、
■和気公墓道碑■鐘楼1623年(元和9年)再建。■鐘楼扁額鐘楼南西側。鐘楼西側。西側への道は金堂、多宝塔へと繋がります。鐘楼北西側。■梵鐘国宝。三絶の鐘。銅製。875年(貞観17年)鋳造。高さ1.47m、口径80.3cm、重量900kg。北側楼上中央に見える撞木。下の戸口から上がれます。鐘楼北東側。鐘楼東側。824年(天長元年)神願寺、高
本当に2020年はコロナで五輪も中止・・・そして2021年早々・・・非常事態宣言で‥今も・・・コロナ対策はもちろん。五輪の問題がどうなるかこれから始まるワクチン接種やら本当にお役所のかたが忙しい時代です。。。そんな時代だからこそ再度見直したいのが役人の方で今もなお・・神社で神様としてまつられて尊敬を集めている御二人・・・一人目は和気清麻呂様「歴史上、数多(あまた)の英雄豪傑偉人がいる中で、皇居周辺に銅像が建っているのは二人だけです。(↑この銅像は岡山の和気にある
おはようございます。今日は、寒さが緩む予報が出ています。寒さで縮こまった身体を伸ばしてあげてください。さて、今日は初弘法。25日が初天神。今年に入っての「初」が巡り、1ヶ月が過ぎていきます。やっと、2021年令和3年に慣れてきたところでしょうか?今年は残念ですが、初弘法はコロナウイルスのために中止となってしまいました。その初弘法の東寺ですが、その正式名称をご存知でしょうか?「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とお答えになられた方は、京都通、歴史通の方かと。しかし、正式には、
「やばい!なっちゃんラスイチ!」どうも、散歩です。そう言っていた学生時代。人生の半分以上を夏目漱石(通称なっちゃん)とにらめっこしてきました。野口英世の髪型には今だに違和感を感じます。あ、千円札の話ね。さて、以降は中国地方の記事が続きます~ここは岡山県和気郡和気町にある和気神社。散歩「おぉ!ウィキとおんなじや~」道鏡による神託事件(ざっくり概要:坊さんが天皇になろうとして失敗)で活躍した忠臣、和気清麻呂公を祭る神社だ。伝説では猪が道中の清麻呂公を護ったとされる
おはようございます。今日が初弘法。25日が初天神。今年に入っての「初」が巡り、1ヶ月が過ぎていきます。やっと、2020年令和2年に慣れてきたところでしょうか?その初弘法の東寺ですが、その正式名称をご存知でしょうか?「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とお答えになられた方は、京都通、歴史通の方かと。しかし、正式には、違う名称なのです。「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称が正式名称です。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」です。「教王」と
夫との関西の旅続きます。2日目の宿は、さんざん迷ったあげく、奈良市内とし、直前に、またまた空いていたお値段手頃な新しいシティホテルをとりました。JTBさんのツアーは、1泊○日というかたちで14日まで、自分で2日目以降は泊まるところを用意して滞在することができます。わたしは、大神神社がある三輪駅からJR桜井線に乗って移動するので、JR奈良駅付近のホテルをとることが多いです。今回は東口のセンチュリオンホテルクラシック奈良というホテルでした。壁紙や内装が、海外からこられた方に喜
時代祭の続きで、藤原時代です。時代祭の時代の定義はよくわかりませんが、仏の平安時代は藤原時代と延暦時代に分かれるようです。藤原時代の列は、藤原公卿参朝列と平安時代婦人列です。藤原公卿参朝列平安時代の中期以降藤原氏が最も栄えた頃の様子です。夏服での参朝の様子を模したものだそうです。平安時代婦人列先斗町歌舞會の担当です。巴御前木曽義仲の愛妾です。建礼門院の女官横笛滝口入道と横笛の悲恋ここでは出家した宅口入道を嵯峨野に訪ねる時の姿を模し
時代祭ハイライト令和元年の時代祭は、即位礼正殿の儀が22日に行われたため、平安遷都の日ではなく4日遅れて26日に行われました。総勢2500人ほどの行列ですが、ハイライトをアップいたします。今年は御池通りにて撮影しました。オープニング江戸時代婦人列皇女和宮中世婦人列大原女平安時代婦人列巴御前平安時代婦人列清少納言と紫式部平安時代婦人列和気広虫白川女献花列撮影2019-10-26@御池通りご訪問ありがとうございました。
6月以降なかなか出張のタイミングができずうずうずしていたが、久しぶりに広島方面に行く用事ができた。今回は比較的楽な工程なので、前入りして土曜日に戻る感じにした。このところの雨が少々心配だったが、3日ともに降っても小雨程度だったので本当に助かった。私が広島界隈に行くようになったのはまだまだ新しく、ここ数年だ。当初は一宮を目指し、厳島や防府そして岡山、出雲まで足を運んだが、一通り巡ってしまうと次の目標がなくなってしまい地図を見ては、神社を中心に巡る感じだった。しかし今回、最近の御首題
前回の美生(みのう)の集落から山陽古道を約1500m西進し山陽自動車道の架橋の下から600m南に行くと御調八幡宮に至る。初めの写真①は境内の入り口に当たる八幡川に架かる神宮橋、次の写真は神宮橋から100mのところの新緑に囲まれた支流に架かる陽明橋です次の写真③は鳥居の所を流れる八幡川の清流、この川は御調川に合流し更に芦田川となって瀬戸内海に灌ぐ。次の写真④は、鳥居を正面から見る、木製の鳥居で趣きがある。鳥居の左に社務所がある。下図は、御調八幡宮の境内の配置と撮影場所鳥居
山陽古道は、御調郡の駅家の者度駅(いっとえき)と推定されている、現在の尾道市市(いち)付近で御調川を渡河して川の右岸(南側)の現在の国道486号付近を西行していたか?!御調川は現在・尾道市と三原市に属しているが、両市街地に並行して北約12kmの山間部を流れている。市から約1km西進すると南側の山の中腹に高御調八幡神社がある。鳥居から拝殿に向かう石段が直線て急勾配になっている。現在の社殿は天明3年(1783)の再建だが、戦国時代は前回ご紹介した雲雀城主の池上因幡守と次に紹介する丸
少し今を遡って6月半ばに護王神社に参拝したときのこと丸太町駅から北上聖アグネス堂と紫陽花どんより曇った空イノシシっぽい雲を発見!護王神社は足腰の守護神イノシシの神社この赤絨毯はもしかして??と思い少し境内をぶらぶらして過ごすおや、こんなところにイノシシさんおーこっちにも!神職さんがせわしなく動かれている人力車に乗車できる結婚式人のいない間に参拝を済ませるあーやっぱり結婚式!!巫女さんの髪飾りも鈴が付いていて爽やかな音を奏でている鈴や鐘などの音が鳴るものは
昨日は京都にある晴明神社について触れましたので、京都の神社つながりで、あまりメジャーではない護王神社をご紹介したいと思います。護王神社は、京都御所(京都御苑)から烏丸通りを隔てた西隣にあります。下の写真向かって左側が京都御所で、右側が護王神社になります。幕末の禁門の変で、長州藩が会津藩や薩摩藩と戦い、今でも当時の弾痕が残る蛤御門(はまぐりごもん)のすぐ南に位置しています。この護王神社は、奈良時代から平安時代にかけての貴族である和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉
4月の京都旅行で初訪問となった神社がもう一か所。京都御所の西側烏丸通沿いに位置する、護王神社です。今までに何度となく前を通っているのに、全く気がついておりませんでした。。。ならびには、菅原院天満宮もあります(こちらも訪問したことはありませんが。。。)上皇上皇后両陛下が、3月末の京都ご訪問の際に訪れている神社だそうで、なかなかに賑わっておりました。なぜ、両陛下が訪問されたのかというと、「江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大
奈良時代のお話。藤原仲麻呂(恵美押勝)、道鏡などが出てきます。宇佐八幡宮神託事件で、道教が皇位につくべきとのご神託を確認に九州へ行った和気清麻呂の姉、和気広虫が主人公です。称徳(孝謙)天皇が崩御され、広虫が都へ復帰する所からお話が始まります。女帝が毒殺された?という謎を、広虫が吉備真備の娘と共に解き明かすというフィクションですが、とても真面目な小説だと感じました。文章も最初の方は教科書みたいだと思いました。ただ、時々陶酔したみたいになるのがちょっと嫌でしたが。笑主人公や女帝の観点から男性を
昨日、御調八幡宮に行きました。今度、手話サークルで「尾道を知ろう!」と題して、地元尾道の観光地を巡るバスツアーを企画していて、第1弾は御調に決めました。御調の農園でいちご狩りをした後、御調八幡宮に行って、圓鍔勝三彫刻美術館に行って帰るというツアー。御調八幡宮で宮司さんにお宮の紹介をしていただけないか、打診したところ、訪問する日が他の行事があって難しいとのことで、事前にお時間をいただいて訪問してお話を伺うことが出来ました。初めてお詣りした御調八幡宮。この奥の階段を上がったところに本堂があ
おはようございます。今日が初弘法。25日が初天神。今年に入っての「初」が巡り、1ヶ月が過ぎていきます。やっと、2019年平成31年に慣れてきたというところでしょうか?その初弘法の東寺ですが、その正式名称をご存知でしょうか?「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とお答えになられた方は、京都通、歴史通の方かと。しかし、正式には、違う名称なのです。「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称が正式名称です。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」です。
生前お世話になった藤林徳扇先生が工房の近くにあって日頃参拝されていた護王神社に参拝イノシシをシンボルにしているため5時という遅い時間にもかかわらず参拝者に溢れていました帰路晴明神社にここも奥さんが若い頃から参拝し宮司さんにいろいろ占っていただいていた神社です
小さな神社なので続くこたぁないけど、アメブロで一番詳しいに違いない。護王神社①の続きです。巨大絵馬の掲げてある拝殿(舞台?)には四神が祀られています。こんな感じ。本殿横の新しめ手水は可愛い。れいちょ、って響きが可愛い。本殿(撮った瞬間に神主さん出てきてビビったw)和気清麻呂さまとお姉さんの和気広虫さまが主祭神。主に足と腰の痛みにご利益があるそうです。たまたま足が痛いので鍋を落とした足と義母の足が良くなるように祈りました。公式サイトと門の左横に詳しい説明がありますが、ざっくり話
護王神社の御朱印は、書き置き300円、直書き500円でした。書いてもらいましたが、書き置きで良かったかも、と、ちょっと微妙。清麻呂さまの為になるからいいよ。観光地だし、巫女バイトもいるし。でも並んでるわけじゃなかったから、さ。一人でも番号札持たされた。そしておみくじは引くつもり無かったけど、猪だけにやっぱり居る。可愛いな、こいつめ。一個一個社名をスタンプしたんだろう。来年の干支だし。中身は元旦に見ることにしてまだ見てない。元旦初詣行かないから←行けよ。500円。(
女帝が立てられたのは33代推古天皇が初めてだそうですが、実際に政務を執った女性皇族は飯豊青皇女が初めてだそうですね〜。この皇女が政務を執った期間は一説では10ヶ月と短いので、天皇としてはカウントしていないらしいです。ここら辺はイギリスのマティルダ皇后と似てますが、マティルダ皇后は女王として戴冠するチャンスを自ら逃してしまっています。チャンスの神様は髪の毛が前頭部にしかないと言いますしね。皆様もお気をつけて。ともあれ、女帝は古代から奈良時代にかけてツナギの役割でやっていた部分
TVのローカル放送で、和気神社の椿が見ごろだというニュースをやっていたので、昨日、見に行ってきました。和気神社はどこにあるのかというと↓にあります。梅が咲き誇るのどかな道を歩いて和気神社に向かいます。途中、こいのぼりが泳いでいます。季節はずれというわけではなく、ここが天下の徳永こいのぼりだからです。青空に梅の花が映えますね。和気神社にやってきました。これが天下の英雄、和気清麻呂像です。和気清麻呂をご存知ない方はこちら↓をごらんください。鳥居の両脇にお
昨日の15時から記者会見がありましたね。お相手については色々な意見がありますが。(;^_^Aみんないろいろ言ってますねー内親王のご成婚は叔母の清子内親王以来です。皇族女性としては典子女王以来ですね。目出度い話ですが、ここで思い出したのは(孝謙・)称徳天皇のことです。↑称徳天皇は女性として初の皇太子になったために生涯独身で通すことになったとのこと。里中満智子の漫画「女帝の手記」では主人公の阿倍内親王が道鏡に「伯父上たちは藤原氏以外の出身を持つ天皇を避けるために私を
和気清麻呂公が生きた時代(733~799年)ですが、昨年10月、奈良の平城宮跡で出土された木簡が解読されました。(※木簡そのものは1966年に出土しています)765年に役人を養成する大学寮で宿直についたのがペルシャ人だということです。四国でも古墳から中東付近の産物であるという宝石が出土されたし、沖縄ではローマ時代のコインがありましたね。このペルシャ人ですが、「破斯清通」という名前だそうです。「破斯」は中国語で「ペルシャ」を表すそうです。ペルシャ人も苗字を持たないのでしょう
かつての庶民は苗字を持たないことが多かったとか。正確には豪族が治める土地の民であることを示す「〇〇部」が苗字だったとか。△△さんが大伴氏の治める領地の民なら「大伴部△△」というふうに。我が家の苗字は「和氣(和気)」なのですが、色々な文献によると、苗字を持たない庶民は「土地」から取ることもあるとか。私は岡山県生まれの岡山県育ちで、岡山県には和気町があるのですが、そこから取った・・・というのもありますね。ただ、ちょっと気になるのですが、「和気」というのは当時の称徳天皇か
「恵美押勝の乱」は藤原仲麻呂が自分の名前を「恵美押勝」と改名したものなので、「藤原仲麻呂の乱」とも言えるようですね。里中満智子の「長屋王残照記」と「女帝の手記」を読みましたが、称徳天皇と藤原仲麻呂に男女の関係があったとか・・・。まあ、漫画なので話を運ぶためにそういうふうにしたのでしょうね。σ(^^;)無かったらどうするんだろう?とりあえず、この乱は称徳天皇が道鏡を重用したために起きた乱・・・ということです。はい。乱は上皇サイドの勝利で終息を迎えます。(藤原仲麻呂の娘・
道鏡事件についてはあまりにも昔過ぎて、しかも資料が少ない(というか藤原氏にとって都合の悪い部分だけが消されている?)ので当時の状況は大雑把にしか分かりません。私が習った歴史でも次のようなシンプルな物しか出てきませんでした。・称徳天皇は出家し、その縁で道鏡と知り合った・道鏡を取り立てるようになった・九州の宇佐八幡宮から「道鏡に皇位を譲る」というお告げが来た・確認のために侍女の広虫女を派遣することにしたが、長旅は無理なので弟の清麻呂に行かせることにした。・持ち帰った