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『静嘉堂の重文・国宝・未来の国宝』展の続きです。第3章「未来の国宝!謝時臣『四傑四景図』と菊池容斎の巨幅」。No.27が、謝時臣の『四傑四景図』。『未来の国宝』?です。No.29が、菊池容斎の『憑昭儀当逸熊図』(1841)。No.30、菊池容斎の『呂后斬戚夫人図』(1843)。その一部を拡大しました。呂后の『ヒトブタ』は、よく知られていて、以前見た中国映画に、この場面が。『未来の国宝』という企画が、最近、目立ちます。
【卑弥呼の国の名前】卑弥呼の国は、現存する『三国志』には「邪馬壹国」、『後漢書』には「邪馬臺国」となっているという。卑弥呼は少帝の正始元年(240)に上表文を送っている。倭人伝に「倭王因使上表答謝詔恩」と記されている。そこには、「○○国王△△」と記されていただろう。ここに記されていた「○○国」が、中国側で「邪馬壹国」か「邪馬臺国」と書き直されているといういきさつとなろう。我々が見ることができる『三国志』も『後漢書』も、宋代(12世紀)以降にできた版本である。卑弥呼の上表文
【「邪馬壹国」と「邪馬臺国」】「邪馬台国」、中国の文献にこのように記された国は存在しない。『三国志』には「邪馬壹国」と記され、その他の文献ではことごとく「邪馬臺国」となっている。文脈から解釈すると、三国志の「邪馬壹国」とその他の文献の「邪馬臺国」が倭国女王卑弥呼の国のことを指していることは間違いない。【「邪馬臺国」と記す文献】『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、『隋書』では俀国について「魏志所謂邪馬臺者也」、『北史』四夷伝では「魏志所謂邪
前回からの続きです。第5段階門閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁時々、名君が登場して、つかの間の平安を得ることがあります。最長は、清朝の康煕・雍正・乾隆帝の100年です。日本だと100年の安定など短い方に分類されますが、中国では『安定期ゼロ』という王朝の方が多いくらいなので、日本人の感覚を持ち込んではいけません。中国は、強力なコネ社会です。能力よりも情実が優先します。知り合いの『質と量』こそが、その人の能力なのです。どこの国でも多かれ少なかれそういう面はありますが、中国の人脈競
『長城のかげ』宮城谷昌光文春文庫2022年新装版第1刷漢王朝を建てた劉邦は田舎の小役人から皇帝にまで上りました。劉邦が関中に入った紀元前206年を元年とし、王莽(おうもう)が建国した新に代わるまでの210年あまりが(前)漢の時代です。この短編集は劉邦を主人公とせず、彼の周囲に登場した人物を主人公とした連作5編から成ります。目次「逃げる」「四面楚歌」の語源となった垓下(がいか)の戦で、漢の劉邦に追いつめられた楚の項羽を描きます。京劇のあまりにも有名な演しもの「覇王別
しかし、劉太公の度重なる、口添えにより、劉邦は、劉伯の遺児の劉信に爵位を与えたが、その称号は「羹頡侯」であった。羹頡は、羹(あつもの)の入った、鍋を擦るとの意味で、過去に劉伯の妻が、劉邦に対して、行ったことを露骨に当てこすっていた。劉邦は、嫂から、受けた、仕打ちを終生、忘れることはなかったのである。挙兵以前の劉邦は、親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ、生活をしていた。幼い頃の劉邦は、魏の公子である信陵君を慕い、彼の食客だった、外黄県令の張耳を訪ねて、親交を深めた。
辛苦十數年晝夜形神疲xīnkǔshíshùnián,zhòuyèxíngshénpí辛苦すること十數年、晝夜(ちゅうや、昼夜)形神(けいしん、身も心も)は疲れ果て、竟雜霸者道,徒稱帝者師jìngzábàzhědào,túchēngdìzhěshī竟(つい)に覇者の道を雜(まじ)えて、徒(いたづら)に帝者の師と稱しました。子房爾則能此非吾所宜Zǐfángěrzénéng,cǐfēiwúsuǒyí子房よ爾(なんじ)は則ち能(よ)しとしますが
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日は前回、虞美人の話でも登場した劉邦(漢の高祖)の正妻、呂雉(りょち)について語りたいと思います。沛県の有力者だった呂公は、偶然、当時貧しく、下級役人の一人にしかすぎなかった劉邦の器の大きさと度胸の良さに将来性を感じる出来事に遭遇し、娘の呂雉(りょち)を劉邦に嫁がせることを決めます。しかし呂公の妻は猛反対します。なにせ、劉邦にはすでに妻子がおり、また名うての女好きで、いいかげんな男だったからです。それでも呂公は妻の反対を押し
「中国4千年の歴史」というフレーズはよく知られているが、実際に中国史の始まりを定める時は、紀元前1600年頃に成立した殷(いん)王朝からすることが多い。ここでは春秋、戦国、楚漢戦争(そかんせんそう)、三国と、各時代を代表する英雄を時代ことに英雄たちの勇ましいくロマンティックな生き様をご紹介していきます。時代秦~三国時代生没年前241~前180年国漢地位皇太后別名玄徳、呂雉、呂太后、呂妃など※漢王朝隆盛の基礎を築いた“悪女”楚国に生まれた呂雉(り
こんばんわん。今日は、NHKのBSPで中国の歴史の中で悪女と呼ばれた女性たちの特集番組をやってたので、そちらを見ました。取り上げられたのは、漢の皇帝劉邦の皇后呂后と、中国最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の皇后婉容と、側室の文繡。呂后は、唐代の武則天や清代の西太后と並んで「中国三大悪女」の1人として有名ですね。中でも「人豚」のエピソードはかなり有名かと思います。かなり残虐な内容なので、気になる方は調べてみてください…。かなり嫉妬深い性格だったのだろうか、と思ったりした。数々のショッキング
今までご紹介してきました、斉藤国治氏は「古天文学」(現代では「考古天文学」と言った方が通りがいいでしょう。)の我が国での先駆け的な人物です。それも、1974年に現役引退(東京天文台を退官)された後に研究に入ったといいます。しかも、氏はタイミングよく、今では絶版となっている「ノイゲバウエルの数表」や「ショッホの数表」など、貴重な古典的資料を手に入れて古代の天体位置推算法を習得されました。氏によれば、太陽・月・5大惑星・周期彗星の位置推算はある種の数式を用いれば、古代に遡るだ
何か金正恩死亡説が報道レベルでも流れたけど、この度元気に視察をする姿の画像を以って否定されました(´・ω・`)しかし5ちゃんねるの画像分析班が拡大したところ、切り取り線とコラージュした際の滲みが見つかり証拠とされた画像はコラだと判明しました。て事は次の独裁者は妹のヨジョン氏かぁ…彼女が必ずしもそうとは限らないけど歴史上絶対的な権力を握った女性は暴君になっちゃうからねぇσ(^_^;)例えば武則天、呂后、西太后、江青、バートリ・エルジェーベト(処女の血で湯船を満たした風呂に入り美貌を磨き維持
呂雉出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動呂皇后前漢の皇后在位紀元前202年-紀元前195年全名呂雉呂娥姁(字)別称高后出生紀元前241年死去紀元前180年8月18日(旧暦7月1日(辛巳))配偶者高祖子女魯元公主恵帝父親呂公甥呂産、呂禄テンプレートを表示呂雉(りょち、紀元前241年[1]-紀元前180年8月18
中国三大悪女出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ナビゲーションに移動検索に移動この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2010年7月)中国三大悪女(ちゅうごくさんだいあくじょ)とは中国の歴史上において特に国を陥れたとされる3人の女性のこと。概要以下の4人のうちの3人を指す場合が多い。呂雉(呂后)武則天(則天武后)西太后妲己これに毛沢東夫人の江青を加えて
https://nyabecch.blogspot.com/2019/06/4_21.htmlhttp://nyabecch.blog47.fc2.com/blog-entry-4136.html
ただいま無料キャンペーン中の『劉氏冠』。その冒頭の執筆にはかなりの葛藤があったし自分なりに読者に問いかけたいこともありました。3.劉氏冠項羽と劉邦Amazon劉邦の元に嫁ぐことになった呂雉(りょちのちの呂后)の設定に困りました。いろいろ調べると、彼女と劉邦って結構な歳の差があるんですよね。下手すると親子くらいの差があります。Wikipediaで調べると、紀元前241年に呂后は生まれたことになっています。出典は一応あるみたいですがWikipe
今月も無事「項羽と劉邦シリーズ」をkindleストアにて販売開始にできました。3巻目は『劉氏冠』。劉邦に関するお話です。3.劉氏冠項羽と劉邦Amazon傲慢で飲んだくれの劉邦を、妻の呂雉(後の呂后)目線で描きました。……ちょっと笑える話に仕上げました。笑いながらも納得してしまうようなお話。17日夕方から5日間、無料キャンペーンも実施します。その際作品についてもう少し詳しくお話しできたらと思います。こちらもシリーズものではありますが1話完結しています。1、
※写真撮影は内覧会で許可頂いております。トークショー及びブロガー内覧会に参加してきました。明治150年記念として、静嘉堂文庫の設立者の岩崎家がコレクションした明治時代の絵画の名品が公開されてます。岩崎家高輪本邸を飾った明治の美術として、洋室には「裸体婦人図」黒田清輝からスタートこの作品、今となれば裸体画か、位ですが、白馬会の展示の際、この右側の写真のように下半身を隠して展示され騒ぎになっていたと。いわゆる腰巻事件、ん、何で下半身のみ隠すの、との声も出て、疑問は残りますけれどね。なんと
【闇思想諸々】★歴史学No.157✳️中国と日本34前漢3呂氏の専横紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は少帝恭、少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏では
劉邦の宦官Amazon前漢初期・高祖~恵帝の治世を舞台にした長編小説。作者は黒澤はゆま。胡族出身の宦官・小青児の半生と共に、宮中の激動を描く。ジャンルとしては後宮ものに近い感じ。主人公を取り巻くドロドロした人間模様が非常に面白い作品。それと濡れ場のシーンも相当な分量。時に暴力的でもあり、時に耽美でもある情交の場面は、作者の豊かな描写力もあって印象に残る。小胡児が宦官手術を受けるシーンをはじめ、グロテスクな部分をリアリティたっぷりに書くあたりは、莫言あたりの中国人作家に通じるもの
辛抱する3―――季布―――辛抱する3―――季布2―――季布編は今日で完結です。前回、季布(きふ)が劉邦(りゅうほう)に赦されたところまで書きました。さて・・・・・皆様もお気付きかもしれませんが・・・・・実のところ、季布の人物像については「若い頃より任侠を持って知られ・・・」とか「楚の一方の大将として劉邦をしばしば苦しめた・・・」等、今までは彼を外側から視た言葉しかなく、彼がどのような人物だったのか?イマイチ把握できないという印象もあると思います。
今回は、タファンが病み上がりの体でスンニャンを助け、ヨム・ビョンスとチョチャムの処刑(実際には死んではいないが)、ヨンチョルに対するクーデターの準備が進められ、スンニャンはタファンと結ばれて懐妊、タナシルリが呪術に走る、等。病み上がりの体を押してスンニャンを助けにきたタファン、カッコ良かったですこれは、惚れるよなぁ。タナシルリ、気の毒は気の毒だけど、マハはタファンの子じゃないし、親兄弟まで騙してるからね~タファンはもしかすると、ヨンチョルの孫だからというだけじゃなく、マハは本当はスンニャ