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※2020年7月5日訪問※小館地区南西政庁跡の踏切を渡ると右手に整地されたような平場が見えてきますこの辺りが【小館南東地区政庁跡】とされています現在では一面の田んぼや畑になってしまっている名生館官衙遺跡ですが、発掘調査によって貴重な遺構が見つかり、国指定史跡にも指定されていますかつての官衙遺跡の跡、そして、奥州探題としても名を馳せた大崎氏の本拠地として、歴史に名を刻む名生館跡を是非散策してみては如何でしょうか?
※2020年7月5日訪問※城内地区政庁跡の南東に向かって細い道路を歩いて行くと、陸羽東線にぶつかる踏切が見えて来ますこの踏切の台地上には【名生館官衙遺跡】と書かれた標柱が建てられていますこの標柱の建つ台地や踏切の有る一帯は、名生館官衙遺跡の【小館地区南西政庁跡】とされています▲陸奥国・名生館官衙遺跡小館南東地区政庁跡/国指定史跡▲に続く
※2020年7月5日訪問※細い道を抜けた先には、一面の畑が広がっており、その中にポツンと案内板が建てられていました【国指定史跡名生館官衙遺跡城内地区】と書かれています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名生館官衙遺跡は、7世紀末から9世紀代に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査では、多数の掘立柱建物跡や堅穴住居跡などが発見されています。城内地区では、周囲に板塀を巡らせた東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設が置かれ
※2020年7月5日訪問※宮城県大崎市の【名生館官衙遺跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名生館官衙遺跡(みょうだてかんがいせき)は、宮城県大崎市名生館・名小館・名生北館に所在し、多賀城創建以前に築かれた官衙遺跡である。本遺跡は、中世の奥州探題大崎氏の城として名高かった遺跡である。ところが、1980年代に、この辺一帯が田・畑として開墾された際に、多数の瓦が採集されて、古代の遺跡でもあることが分かったが、さほど古い遺跡であることは認識されなかった。その後、種々検討
※2020年7月5日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城の北側に位置し、現在は浄泉院が建っている。東西110~138m、南北70~90mの不整方形の平場である。東や西、北側斜面には幅7~14mの大規模な堀跡や高さ2~3mの土塁跡か明瞭に認められる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2020年7月5日訪問※名生城跡の案内板から北側にへ向かいます右手の林が大館の西側部分で、案内板の縄張り図によると、土塁が残されているとの事振り返って撮影してみましたが、何となく土塁のような物が見えますねご近所のワンちゃんに吠えられながら、道路を北に進んで行くと、右手に視界が開け平場が見えてきますこちらも大館跡の一部のようです道路を進んで行くと、道路の真ん中に鉄塔が建っていますが、この鉄塔の右側の林部分が【内館】の跡だと思われます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名生北
※2020年7月5日訪問※軍議評定所丸の土塁のすぐ側には、空き地のようなスペースが設けられており、この場所には名生城跡の【案内板】が建てられています案内板には、名生城の縄張図が描かれており、名生城散策の際にはこの絵図を参考にされると便利かもしれません▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城跡の範囲の中央よりやや北東側、陸羽東線に面した地区が城の中心と考えられる。推定される規模は東西約150m・南北約200mであり、西側の想定される曲輪跡(ニノ構か)とは堀跡によって区画されると考えられ
※2020年7月5日訪問※名生城跡の中心部には、現在集落となっていて、数件のお宅が建ち並んでいますそんな、集落の真ん中に巨大な土の塊を発見案内板の絵図から推測するに、こちらは【軍議評定所丸の土塁】と推測されます城跡のほとんどが田畑に変貌した名生城では、はっきりと確認出来る遺構として、とても貴重な物ですね◆陸奥国・名生城大館跡/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※JR陸羽東線の無人駅《東大崎駅》で下車踏切を渡って駅から北東に歩いて行きます一面の田んぼが広がっており、《米どころ大崎》を実感することが出来ます田んぼの中の畦道を進んで行きますこの辺りが名生城の【小舘】と呼ばれる曲輪の跡だと思われます下の写真は土塁と空堀の跡のようにも見えますが、詳細ははっきりせず集落が見えて来ましたが、この集落に向かう道路部分は、かつての【堀跡】だと推測されます◆陸奥国・名生城軍議評定所丸跡土塁/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※宮城県大崎市の【名生城跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼宮城県大崎市(旧古川市)にあった南北朝時代から戦国時代の城。江合川西岸の段丘の上に築かれていた。大崎5郡を領地とした、戦国大名大崎氏の城で、南北朝時代の1351年(観応2/正平6)に、大崎家兼が築城したともいわれるが、はっきりしたことはわからない。1590年(天正18)、豊臣秀吉による奥州仕置で、秀吉家臣の木村吉清の属城となり、翌年の葛西大崎一揆で一揆側に奪われたが、蒲生氏郷によっ
にほんブログ村永禄2年12月、北出羽国の本城・山形城では、人口が2万人を超えてきていた。当主・最上義守は蝦夷地制圧に長らく出征していることもあり、城代の氏家定直は、ひとりしみじみと思うのだった。氏家定直:殿、見てくだされ。城下に活気が出てきましたぞ。氏家定直:もののたとえではなく、町には民が溢れております。:この民が我らの力となるのです。:次は、我らの住む場所を作りましょう。「戦国伝人は石垣達成」氏家定直:城下に民が集まってきております。
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