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高知1日目の昨日はとても最高でした!お客様と一緒に同行訪問しながら、道中で立ち止まり歴史探索もしました。山内一豊です!自由民権運動の板垣退助です!高知城をバックにしてるところが凄い!山内一豊の妻・千代です。山内一豊を内助の功で支え続けました。高知城の追手門です。当時のまま現存しており重要文化財に指定されてます。高知城の石垣です。野面積みで高さは約10メートルです。野面積みは、色々な大きさの石をそのまま使って積み上げていくのでやはり迫力があります。高知城天守閣です!武市
参政吉田東洋により開設された教育施設。現高知県立武道館。
①岡田以蔵の逮捕「人斬り以蔵」と畏れられた以蔵は、文久3年(1863)2月、突然土佐藩を脱藩し、京都長州藩邸の寄寓して、高杉晋作の庇護を受ける。(江戸の長州藩邸の説もあり)文久3年2月頃より再び坂本龍馬と交流を持ち、以蔵の将来を心配した龍馬の依頼で3月に伏見で勝海舟の護衛を任せているそのとき以蔵は、勝海舟を襲撃した3人の刺客から勝を守り、さらに、勝の命令で、ジョン万次郎を護衛し、6人の襲撃者を撃退したという。勝海舟や龍馬の思いに応えた以蔵は、天誅という名目の暗殺を禁じた。しか
昨日の告知で界隈はざわめいていた刀剣乱舞-ONLINE-【運営】@TOUKEN_STAFF【お知らせ】「次期特命調査」の新情報を明日4月2日(火)、高知新聞朝刊の全面広告にて掲載予定です。正午頃に、こちらの刀剣乱舞-ONLINE-【運営】Twitterでも同内容をお知らせいたします。明日の新情報をお待ち下さい!…https://t.co/rAIMxvLVAg2019年04月01日19:00高知新聞(公式)Kochinews@Kochi_news@TOUKEN_S
高知城下で毎週日曜に開催される日曜市。屋台がスラーリ1㌔ほど。新鮮な野菜や果物、生花、干物。食べ歩きも♪芋の天ぷらが有名。アツアツホクホク朝ごはんはまた「ひろめ市場」に。珍しい惣菜がいっぱい。高知城に近くなるにつれ、骨董品や刃物屋が軒を連ねます。山内家が土佐を牛耳ていた頃、武士たちは城下で物を質に入れたり、刀を調達してたのかしら。野菜をたっぷり買いました♪吉田東洋暗殺の碑発見!土佐勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵3人によって暗殺。そこからどんどんと武市半平
今、ゲーム中、西国にいる坂本龍馬。現実の坂本龍馬はこの時期、何をしていたのだろうか?調べてみた。1859年(安政6年)の坂本龍馬は地元、土佐にいた。江戸での剣術修行を終え、『北辰一刀流長刀(なぎなた)免許皆伝』(剣術ではない…)を授けらていた。まだ、23才の若者であった。普通なら故郷で剣術道場でも開いて、平穏無事な生涯を考えてもおかしくない。だが、世の中は風雲急を告げている。徳川幕府は、諸外国と不平等な通商条約を結び、それに反対する者は、バンバン処罰(安政の大獄)されてい
琵琶湖⬅️京都➡️大坂➡️白糸の滝という感じで精神力を回復させつつ、要人説得を続ける。宿敵(?)、清河八郎も、公議思想に転換させた。体力が無くなって来たのでメシ屋に入ると、いきなり…、『大政奉還』を否定してくる奴がいた。誰?嫌っす。この後もガンガンと大政奉還を広めるぜよ。さらに、下京に中岡慎太郎がいた!龍馬と共に大政奉還の為に働く✋💦同志になる人物なのだが、今は何故か尊王派。そうか、慎太郎はまだ半平太の土佐勤王党にいるんだな。慎太、顎(武市半平太)の勤王党はワシが潰し
幼なじみ、武市半平太の説得に挑む。武市半平太は龍馬の親類で、龍馬も『顎(あぎ)』と仇名で呼ぶ仲。最初に龍馬に指南してくれたのは、この"顎"(武市半平太)だ。カードバトル開始。板垣退助や吉田東洋に比べたら、楽な感じがある。連続説得、成功。半平太が遂に公議派に!…だが、これで終わりではない。『信頼』カードバトルで武市半平太からの信頼感を高めるのだ。顎、話を聞いてくれんかや?…良し、良し。武市半平太からの信頼感42。顎、おんしも海援隊に入るぜよ。藩などに拘る事はないがぜよ。一
故郷、土佐での日々に、また"人斬り"家老、辻将曹が来襲。家老のくせに、やたらと斬りかかってくる。しつこいなぁ。誰なんだよ、コイツ。で、振り切ったと思ったら、また来た!しつこい!コイツをどうかしないと、体力を削られて、また"非業の死"を迎えてしまう。なんとか、しないと。ここは逆に辻将曹に『説得』を挑む。辻将曹の先進性、学力は龍馬以下。龍馬優勢でカードバトルは進む。余裕だな。説得成功。一度説得すると、付きまとわなくなる。…もう来るなや。その後も、藩校での学問を続けるが
故郷、土佐に帰ろうと決めたら、土佐藩の後藤象二郎が重臣に昇格。確か、吉田東洋の甥で土佐藩上士。維新後は東京政府で働いたはず…。まさか…。吉田東洋の身に何かあったか?と思ったら、土佐藩の方針が『大政奉還』に!期待通りだが、何故、急に?土佐藩で何が起こっている?…早く帰ろう。徒歩で。🚶まずは歩きで大坂へ。そこからさらに明石へ。後は船で今治。そこからまた徒歩で高知に入る。…遠いな、土佐。途中、大坂で薩摩の中村半次郎から『説得』されたりしながら、大坂で特産品を売って、路銀
西か、東か。江戸での説得行脚(?)に区切りを付け、今後の行き先を悩んでいる。京都(西)か、東北(東)か?だが、よく考えてみたら…、京都でも、東北でも、龍馬の今の身分(土佐藩重臣)では面会出来る要人に限界がある。家老クラスに昇格しなければ、藩主、将軍、天皇には面会が叶わない。藩内で出世するしかないのだ。(少しおかしな気分だが…)それもこれも、土佐藩の方針が『雄藩連合』(公議)であるからだ。ここでポイントになるのは、先に会った吉田東洋だ。吉田東洋は龍馬と同じ公議派で、しかも家老。
江戸にて説得、そして所持金確保の"行商"を続けていると、坂本龍馬の身分が土佐藩重臣に昇進。(まだ土佐藩所属なの?)しかも、長岡藩の思想が、なんと『大政奉還』になった!『雄藩連合』ではなく『大政奉還』を目的とする藩?それは藩の概念から外れていない?幕府が政権を持っているから、藩があるのでは?何なんだ、それは?これは長岡藩に行ってみないと…。(長岡藩って河井継之助が家老だよな?)長岡(新潟)へ行こう。大阪近辺にいた。一先ず江戸(東)に向かう。その途中、土佐藩家老、吉田東洋と
学生の頃にやってた大河ドラマ…高校生の息子が「龍馬伝」を借りてきて毎週観ています私も一緒に観ています。岩崎弥太郎役の香川照之さんの演技に見入ってしまい、いちいちぐっと熱くなったり、様々な思いに共感して目が離せません素敵です一方で、福山雅治さんの真っ直ぐな龍馬の演技にも惹かれています土佐勤王党と上士…龍馬どうする!?だから脱藩しちゃうの??…弥太郎の思いも…吉田東洋役の田中泯さんの眼力が…ヒェ〜っ…自分の上司だったら確実に終わってるな(笑)龍馬伝のお供にマドレーヌを焼きました頭の中は弥太
容堂こと山内豊信(1827~72)は、13代豊熙、14代豊惇が相次いで急死したことから48年土佐藩15代藩主に就任しました。豊信は松平春嶽(福井)、島津斉彬(薩摩)、伊達宗城(宇和島)とともに「幕末の四賢侯」と謳われました。59年大老井伊直弼が将軍徳川家茂を擁立し「安政の大獄」が猛威を振るうようになると、開明派に属した豊信も謹慎を余儀なくされます豊信は、山内家4分家の一つ南邸山内家の当主豊著の子として出生しました。南邸山内家は最も遅く創設された分家で序列も最下位でした。通常藩主になることは
新装版竜馬がゆく(1)(文春文庫)702円Amazon新装版竜馬がゆく(2)(文春文庫)702円AmazonいつものようにYouTubeを見ていたら不意に武田鉄矢のこの動画に出くわして彼の話しぶりに引き込まれて、司馬遼太郎先生の小説の中でも一番のヒット作であるこの作品を読む気になれました。全8巻なので全部をいっぺんに書評を書くと大変なので2巻ずつ簡潔に書くことに努めることとします。今回は、1&2巻です。まずは、竜馬が江戸に剣術修行に出発するとこ
坂本龍馬の陰に隠れてしまう土佐藩の後藤象二郎にも器の大きさを感じます。土佐は、戦国時代から安土桃山時代まで長曾我部氏が治めていましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易させられます。そして江戸時代は山内氏が土佐藩を治めました。山内氏は、長曾我部氏の旧家臣団を重用することはなく、山内氏の元々の家臣を重用します。そして山内氏の家臣は上士と言われる高い身分になり、長曾我部氏の家臣は郷士と言われる下級武士にされます。身分の差というよりも敵視していたのだと思います。郷士は雨の日も傘を差すこ
昨日スマホニュース見てびっくり。育児休暇がほしいから申し込み殺到の保育園を保育所を選ぶかあ。正直、ずるいと思いましたしいいなあと思ったのもあります。ただ自分等世代というか保育園預けられたとき子供にとっていい保育士さんと親にとっていい保育士さんで差がありすぎて保育園がイヤになりかけたことあることとヒロテンの側にいられないこと子供同士の病気の伝染でヒロテンにツラい思いさせてること仕事通勤だけでなくて子供の保育園の送り迎えが車の免許持ってない自分にしては明らかにし
今日は、武市半平太。岡田以蔵の、命日。武市は、切腹。以蔵は、斬首。武市は、前日、富さんに、何の罪になるのか、わからないと、手紙に。まさか、翌日、容堂に、逆らったって……理由付け。吉田東洋暗殺の黒幕だった武市。大政奉還で、動いた、後藤象二郎からの、判決文言い渡し。叔父の、吉田東洋暗殺されて、武市を、憎んでいた。11日の、午後4時頃、富さんに、切腹と伝わるもしかしてと、武市は、富さんに、死装束を、作らせていて、6時。三文字の切腹。誰一人やれなかった、三文字切腹←龍馬伝は~6回?ありえ
お芝居は、ダイヤ色土佐快男児岡田以蔵。以蔵は、ダイヤ座長。武智半平太の黒潮さんと江戸に向かった。帰ってきた二人を待っていたのは、土佐藩の仕置家老になった吉田東洋、たつみ座長。なにかと郷士を虐めていた。以蔵を慕っている道場にいるとら、のわかこちゃん。父を東洋の下の山田(愛さん)に殺され、抜いた剣で山田を刺してしまった。東洋の手下が、とらを出せと言ってきたが、以蔵は頑として出さなかった。道場の三人が東洋を斬りに向かった。そして、武智も以蔵に斬れ!と。そして、見事仇を討った以蔵
今日の主役のダイヤ座長。岡田以蔵、最後に上半身裸で敵討ちにいくところ、めちゃかっこよかった(≧∇≦)みーちゃん(^^)ラストの楽しそうな顔こちらまで楽しかった❗️小龍さんわかこちゃんが自害する場面、観ていて辛かった(;;)龍之介くん。重要な役所を任されている。頑張って👍花ちゃん。和むわたつみ座長。嫌な役の吉田東洋。本当に憎らしかった(・・;)と思わせるところがすごいラストはダンスダンスダンス♪で、タンス登場!で、主役より目立ちたいたつみ座長。おとこ花魁で(^∇^
津久井城銃や甲冑、戦国再現3月4日祭で郷土をPRタウンニュース戦国時代には、後北条氏の有力な支城として、家臣の内藤一族が守り、常に最前線でその役目を果たしてきた。また、「城山」全体が城郭(山城)となっており、歴史的価値の高い曲輪(くるわ)や堀などの遺構が良好に残される。現在は、県立の公園として整備が進み、パークセンター、花・水の苑地などに多くの観光客が訪れる。山吹小城武蔵の五遁-FC2山吹小城(2)~曖昧な遺構たち.山吹小城の第2話です。IMG_7468_2017
薩摩でイチバン行きたかった「薩摩藩英国留学生記念館」五代友厚率いる薩摩スチューデントの一行がイギリスへと旅立ちました。世界各国に寄港し、異国の文化や技術に触れ、瞬く間のうちに吸収していきました。↓この磯から出港。今回この記念館に訪れてビックリしたこと!ずっと行方を気にしてた大石団蔵が高見与一と名を変え、薩摩スチューデントとしてイギリスに渡英してたこと。大石団蔵は土佐出身で、武知半平太率いる土佐勤王党。那須信吾、安岡嘉助と共に吉田東洋を暗殺しました。那須さんと
お芝居は「岡田以蔵」吉田東洋たつみさんの悪役は本当に憎らしくなる悪役顔のままで愛さんに突っ込むのも面白い刀を2本使っての立ち回りとダイヤくんとの迫力ある立ち回り今回も見所満載でしたダイヤくん一番綺麗な私を「綺麗だ」芸人さんのレインボー風に「綺麗だ」愛さんライトくんたつみさん色っぽい黒潮幸次郎座長武市半平太前日に覚えたという完璧な長台詞にもびっくりしたし目立ちはしないけど存在感のある役素敵でした小龍さん✴︎
‥‥な‥‥ななっ‥‥何をさらすんじゃい撮影は夫(撮ってないで助けてよ〜)‥‥ゼェゼェ‥コホンっ改めまして、おはようございます今日はダイヤdayですよお芝居は「土佐快男児、岡田以蔵」土佐勤皇党による土佐藩仕置家老、吉田東洋暗殺事件を笑いあり、涙あり、立廻りありで胸の透くストーリーに仕上げましたドロドロ血まみれ泥まみれ‥みたいな、暗い芝居じゃありませんまた、勤皇佐幕ちんぷんかんぷん‥ってな難しい芝居でもありません岡田以蔵のイメージを打ち破るダイヤならでは「IZ
「舟遊び事件」で鉄石や清河八郎、本間精一郎らが薩摩藩邸を追い出されたのは文久二年四月十三日に事でしたが、それより少し前の文久二年四月八日、南国土佐である事件が起きていました。藩参政吉田東洋の暗殺です。土佐勤王党の首領・武市半平太は、同藩の吉村寅太郎や、吉村に変わって土佐入りした本間精一郎らの「脱藩して伏見義挙に加わるべし」との説得に応じず、「一藩勤王」つまり土佐藩を尊皇攘夷論で統一し、藩をあげて上京させてみせる、として土佐勤王党脱藩の勧めを拒否していました。しかし、この武市の論
四万十川の源流点まで登ってきました。滔々と流れる196キロもの大河・四万十川。梼原町からの帰り道、「源流点」という看板に引き寄せられ、もう次のチャンスはないと思って、ナビから外れて山道を走り上がりました。雄大な川も、ここが原点、スタートの場所なんだ。素晴らしい経験となりました。その前に、高知佛立寺さまから「維新の門」のある梼原町まで走り切り、梼原町立歴史民俗資料館まで行き、ご挨拶しながら展示を拝見いたしました。「志国(しこく)」の気概を感じる、美しく、工夫の凝らされた展示でした。ま
国を変えるには、若い力が奔流となって旧体制を破壊しなければ駄目だ。幕末明治維新の過程を見るたびにそう思う。混沌とした変化の過程で命を落とした者も多い。残念ながら優秀な人材が生き残るとはかぎらない。土佐藩という南国の小藩ひとつをとってもそれは明らかだ。土佐藩の英傑・武市瑞山(半平太)とその一派の土佐勤王党は、吉田東洋を暗殺した。囚われた武市瑞山を拷問し切腹させたのは、吉田東洋の門弟だった後藤象二郎だ。その後、後藤象二郎は権謀術数のかぎりを尽くして、明治維新を達成する。大政奉還実
目下、武市半平太にとってじゃまっけだったのは土佐藩家老?、吉田東洋だった。この文久二年、土佐の中心人物、山内容堂は江戸、鮫洲藩邸で日がな一日酒を飲んだくれていた。「わしらは土佐藩を牛耳るがぜ」これが土佐勤皇党の首魁、武市半平太のもくろみだった。つまり、「じゃまっけ」…吉田東洋様だ。おかげさまで、俺様は土佐藩を牛耳れないぜ。ゆえに、やつを斬る。というむちゃくちゃな論法で、東洋暗殺計画をねっていた。武市が選んだ剣劇の達人は
吉田東洋は土佐藩15代藩主の山内容堂に参政として登用されるが、暴行事件を起こして謹慎処分を受け高知市長浜に蟄居した。鶴田塾はその時に彼が開いたもので、後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎など多くの人材を育てた。高知市長浜の住宅地の中に石垣が残り石碑が建てられている。