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鳥取城跡=久松山は、戦国時代の山城を起源にした城跡です。防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評され、織田信長は「堅固な名城」と讃えました。また、人呼んで「城郭の博物館」とも称され、戦国時代から江戸時代にかけて様々な時期の遺構が残る鳥取城。圧倒的な石垣の量だけでなく、球型に積み上げられた巻石垣など鳥取城でしか見られない石積みも魅力的です。その中でも特に目を見張るのが、天球丸跡の「巻石垣」です。亀の甲羅のような形状に積み上げられ、鳥取城でしか
撮影日:2025年10月3日石段の上がり下りは疲れましたが「鳥取城跡」も楽しんだ事だし次の目的地を目指すといたしましょう!あぁ〜楽しかった!今年3月に復元されたばかりの「中ノ御門」から出てきました。さらっぴんやな!中ノ御門内堀に架けられたは「擬宝珠橋」も2018年(平成30年)に復元され約120年ぶりに蘇ったそうです。擬宝珠橋「鳥取駅」まで向かうバス停近くに城主の「吉川経家像」がありま
鳥取の天文台発見の小惑星戦国武将・吉川経家の名前を命名2025年10月13日午後0時10分鳥取の天文台発見の小惑星戦国武将・吉川経家の名前を命名|NHKニュース配信より姉妹都市となっている鳥取市と山口県岩国市にゆかりのある戦国武将、吉川経家の名前を小惑星に名付けたことを記念する式典が鳥取市で開かれました。名付けられた小惑星の名前は、「Kikkawatsuneie」です。この名前の由来となる吉川経家は、戦国時代、豊臣秀吉の兵糧攻めを受けた鳥取城の城主です。
秀吉の兵糧攻めに抵抗やめ切腹、城将・吉川経家を縁に姉妹提携結び30年…銅像設置に子孫の有名落語家が協力2025/10/1005:00読売新聞配信より秀吉の兵糧攻めに抵抗やめ切腹、城将・吉川経家を縁に姉妹提携結び30年…銅像設置に子孫の有名落語家が協力:地域ニュース:読売新聞配信より鳥取城の最後の城主・吉川経家(1547~81年)が縁となって結ばれた鳥取市と山口県岩国市の姉妹都市提携が今月で30年を迎える。11月2日には鳥取市内で記念イベントを開催。提携に尽力した鳥取吉
鳥取城(鳥取市東町2丁目)戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、次第に力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡
福光城は2022年11月11日に途中まで筆を進めながら何らかの事情で筆が止まり、やがて更新することすら忘れ去って2年以上が経過していたもののようです。何で筆が止まったのか、今となっては我ながらその事情が全くわかりませんが、ともかくも文章を完成させたいと思います。福光(ふくみつ)城は物不言(ものいわず)城、不言(ふげん)城とも言われます。ものを言わないお城、とはなんとも意味ありげな名前ですよね。「多くを語らず」的な意味だったとして、何を多く語ろうとしなかったのか、その逸話が福光城そのものに由来す
鳥取城(別称:久松城)(Ⅰ)鳥取県鳥取市創設年代・・・・天文十四年(1545)創設者・・・・・山名誠通形態・・・・・・山城遺構・・・・・・山上ノ丸・二の丸・三の丸・天球丸・門・石垣・堀ほか秀吉の兵糧攻めで有名な戦国山城と石垣で固めた近世城郭を堪能!ポイント鳥取城は久松山に築かれた戦国時代の山城(山上の丸を中心とした土の城)と、その後に山麓を中心に築かれた近世の石垣の城(山下の丸)の二つの城郭で構成される。山上の丸は本丸・二の丸・三の丸からなり、宮部氏入城後
~鳥取城年表~16世紀中頃、但馬山名氏により砦が築かれた説1562年(永禄5)武田高信が久松山を拠点として、因幡山名氏に反旗を翻す1573年(天正元)武田高信を退けた山名豊国が、本拠地を鳥取城に遷す~翌年、山中幸盛🦌ら尼子氏残党、毛利氏の介入で争奪を繰り返す。結果、毛利方の山名豊国城主で落ち着く1580年(天正8)織田方の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻め。3ヶ月兵糧攻めに耐えたが豊国は降伏🙇♂️同年、再び毛利方に属し、豊国は重臣らに城を逐われる👋1581年(天正9)毛利氏の吉川経
【問題】毛利家から鳥取城の守将として派遣された吉川経家が入城の際に持参したものとは、次のうちどれか?【選択肢】キリスト像首桶五三桐紋旗妻の毛髪【正解】首桶【解説】吉川経家は鳥取入城に際して決死の覚悟をもって臨んでおり、自らの首桶を持参してきていたという。経家は約4ヶ月の籠城戦の末、城兵の助命を条件に切腹して開城した。
こんにちは。前回は、令和6年秋の鳥取&島根小旅行のダイジェスト版をやりましたが、今回は本編いってみたいと思います。本編の1回目なので改めて今回の小旅行の目的を並べておきます。・今年の目標である「中国地方訪問強化」の仕上げへ・現存12天守の御城印コンプを目指し松江城へ・このところ続いている超メジャー古寺古社詣りの締めのため出雲大社へ・ご当地パンイベントでよく買っていた「ばらパン」を本場ででは、よろしくお願いします。吉川経家(鳥取城跡・久松公園)鳥取城跡近くの高校の前にある
ども、水出しコーヒーにハマっている岡田達也です。今日これから読む日記について、‟既視感しかないな”‟これはデジャブか?”‟さてはネタ切れか??”などなどの感想をみなさんは抱かれるだろう。文句はいくらでも受け付ける。だけど、書く。*今週末の28、29日鳥取市では毎年恒例の『鳥取三十二万石お城まつり』が開催される。ここ3年ほど遊びに行っているが、なかなかに楽しい。何万人ものお客さんが集まるわけじゃないけど、鳥取という片田舎に合ったサイズ感のお祭り。できる
※こちらの記事は、令和2年10月31日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第33弾として、「鳥取(とっとり)城の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】・第5回長良川の合戦・第6回桶狭間の合戦・第12回三方ヶ原の合戦・第14回叡山焼き討ち・第18回長篠の合戦・第21回高遠城の合戦・第22回江古田原
本編のホームページに、鳥取城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html鳥取城は、鳥取市街地の東北部に聳える標高263mの久松山に築かれたお城です。いつに築城されたのかは良く判っていないようですが、一説では、16世紀前半の天文年間(1532-1555)に因幡守護の山名誠通が築城されたとされています。戦国時代はこの地を治めていた山名氏の攻防が続き、1580年(天正8年)になると羽柴秀
見て下さい。この眺め。お城と言えばやっぱり眺めですね。敵が来ているか分かるように分かる為。と言う意味もありますが、場所によっては城下町に城の威信を見せる。と言う意味もあったそうですね。この日は雨だったんですが、山頂に着いた時に少しの間、止んでくれました。そして次の目的地もあるので駆け足で降りてきました。こちら前述の八幡様ですね。こちら見事な階段ですが、右膳ノ丸から二の丸に行く為の階段です。ぐるりと回って1時間ほどで回れました。手前に見え
明智秀満㊶「信長公記」『因幡国鳥取城取り詰めの事六月廿五日、羽柴筑前守秀吉、中国へ出勢。打ち立つ人数二万余騎。備前・美作打ち越し、但馬口より因幡国中へ乱入、橘川式部少輔楯籠もるとつとりの城、四方離れて、嶮しき山城なり。因幡の国は、北より西は滄海漫々たり。とつとりと、西の方、海手との真中、廿五町程隔て、西より東南町際へ付きて流るる大河あり。此の川舟渡しなり。とつとりへ廿町程隔て、川際につなぎの出城あり。又、海の口にも取り継ぐ要害あり。芸州よりの味方引き入るべ
山頂の石垣の下に転がっていた懐かしいファンタの瓶昭和40年代、山頂には売店があったその頃に捨てられたものかもしれませんこの瓶を知っている方は50代以上でしょうか下山は東坂コース距離は長いが緩やか山頂から200メートルほど下ったところにある旧ロープウェイの山頂駅今もひっそりと山中に残ってますプラットホームの壁面に掲げられている銘板私が小1のときに営業を開始し確か中1か中2の時には営業を終えた上りと下りのホーム今では木や草が茂り侘しさを醸し出してますさ
『日本にかくれなき名山』と評され織田信長は『堅固な名城』と評されました。日本100名城鳥取城初めにお城の勉強をしましょう鳥取城は歴史的に著名な羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の兵糧攻めの舞台になり壮絶な籠城戦が繰り広げられた中国地方を制覇していた毛利方の最前線であった鳥取城2度目の城攻めの際籠城した吉川経家(きっかわつねいえ)に対し秀吉は織田信長の指示に従い圧倒的な兵力で包囲網を敷き一切の補給路を断つ『兵糧攻め』を行ったそれに耐えた鳥取城ですがやがて兵糧も尽き果て
皆さま、お早うございます。旅するコピーライターのふじやんです。2023年2月24日(金)〜26日(日)の2泊3日で、今回は、鳥取独り旅を満喫してきました。人生において鳥取県は2度目ですが、前回は、島根県メインで隣接する境港市の水木しげるロードを歩いただけ。鳥取市に宿泊するのは、初めてです。鳥取藩32万石の威容を伝える鳥取城跡を巡った前回は、こちら。『【鳥取編】秀吉による凄惨な兵糧攻めと不憫なかつ江さんを偲びつつ徳川準一門の池田家居城跡に感動する』皆さま、お早うございま
皆さま、お早うございます。旅するコピーライターのふじやんです。2023年2月24日(金)〜26日(日)の2泊3日で、今回は、鳥取独り旅を満喫してきました。人生において鳥取県は2度目ですが、前回は、島根県メインで隣接する境港市の水木しげるロードを歩いただけ。鳥取市に宿泊するのは、初めてです。鳥取県立博物館を満喫した前回は、こちら。『【鳥取編】さだまさしと島谷ひとみの「ふるさと」を聴き県立博物館で安岡信義の企画展と常設展を見学。』皆さま、お早うございます。旅するコピーライタ
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「ひっ…人を喰ってる…」食べるものが尽きた鳥取城(とっとりじょう)で、弥助(やすけ)が見たのは餓死した人を食べる人であった。城内には兵と逃げてきた周辺の民含めて4,000人近くおり、兵糧は既になく、家畜や草木まで食べ尽くしたんだ。弥助も食べ物を求めて、庭をふらふらしていたが、その様子を見て城の中に逃げるように入って行った。城の中では城主吉川経家(きっかわつねいえ)と重臣の森下道
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。鳥取城(とっとりじょう)は、羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍にすっかり包囲されてしまった。秀吉軍は20,000の軍勢なんだよ秀吉は城の周囲に深さ8メートルの空堀を全長12キロメートルに渡って築き、何重もの塀や柵を設けて櫓を建てた。秀吉は家臣となった黒田官兵衛(くろだかんべえ)と鳥取城の周囲に陣を置いていた。秀吉「これだけの包囲なら蟻の出る隙間もあるまい。」官兵衛「はい、夜も念入
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正9年(1581年)2月、元春の命により吉川経家(きっかわつねいえ)が因幡国の鳥取城(とっとりじょう)に入城した。元の鳥取城の城主、山名豊国(やまなとよくに)さんは単独で秀吉(ひでよし)さんに投降して、家臣たちが元春さんに新たな城主を依頼したんだよね鳥取城の森下道誉(もりしたどうよ)、中村春続(なかむらはるつぐ)らが経家を迎えた。道誉「経家殿、ようこそお越しくださいました。」
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正9年(1581年)3月、京は清水寺(きよみずでら)…羽柴秀吉(はしばひでよし)は能楽を楽しむ酒宴を催していた。酒宴には京都所司代の村井貞勝(むらいさだかつ)さんや堺奉行の松井友閑(まついゆうかん)さんらが来ていたんだ。秀吉「美しゅうございますなぁ〜」貞勝「秀吉、中国攻めはどうなのだ?のんびりしてると上様(信長のこと)に怒られるぞ。」秀吉「心配御無用にございます。この酒宴は
【韓半島平和ウォッチ】核と同じくらい危険な北朝鮮化学兵器、韓国は対岸の火を見ているよう...中央日報北朝鮮の核兵器先制打撃法制化で彼らが保有している大量破壊兵器(WMD)がより現実的な脅威として近づいている。万一、7回目の核実験で戦術核兵器まで...「基盤的防衛力」に冷戦の影部隊・弾薬、北海道に偏り-日本経済新聞日本経済新聞政府は半世紀ほど前の1976年に初めて策定し、これまでに5回改定した。安全保障の環境に応じて修正してきたものの、冷戦時の名残ともいえる影響は色濃く残る
JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。前回のブログに引き続きまして「鳥取城」(鳥取県鳥取市)をお届けします。私は「山上の丸」跡を目指して山道を登りました。2016年8月に2度目の登城をしていますが、当時の記憶ではシンドイ!というイメージは全く無かったのですが、今回はかなりハードでキツイ登城でした。6年の加齢が体力の衰えを物語っているのでしょうか。ジグザグな登り山道1合目から
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●バスのテープガイド①岩手県の八幡平山頂(こういう名のバスターミナルがある)から秋田県の田沢湖まで、バスに乗った。一般のバスなのだが、所要時間2時間30分。長いバス旅である。バスはワンマンカー。ガイドさんはいない。バス停案内はテープ。女性の声が車内に流れる。八幡平を下り、玉川温泉をすぎると、あとは田沢湖近くまでバス停がない。山越えなのだ。バス停を告げるテープの声はしばしの休息をとるかに思えた。ところが、テープは名所、名所
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。永禄13年(1570年)2月15日、毛利(もうり)軍本隊は尼子(あまこ)再興軍を破り、包囲されていた月山富田城(がっさんとだじょう)を開放した。布部山の戦い(ふべやまのたたかい)で毛利軍が勝ったんだよね「早く運べ!!」小早川隆景(こばやかわたかかげ)らは城内に兵糧を運んだ。さらには城内の兵に粥を作って与えていた。粥を与えている武将の中に吉川経家(きっかわつねいえ)がいた。経
*6月12日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、継子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。本日は、高松の講和のおはなしです。🍟あんみつ「先生、織田信長が10年に渡って苦しめられた大坂本願寺との石山戦争が終結、羽柴秀吉が播磨三木城を干殺ししているさなか、援軍を出せない毛利輝元は備中・美作で宇喜多直家と抗争していました。天正七年(1579)十二月、輝元と吉川元春は国境の四畝城(真庭市)を奪取し優勢
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。毛利(もうり)方の棫木狼之介(たらぎおおかみのすけ)を討ち取った尼子(あまこ)方の山中鹿介(やまなかしかのすけ)は月山富田城(がっさんとだじょう)内に戻り、負傷の手当てをしていた。勝った鹿介さんも怪我をしていたんだね1人になった鹿介は、鹿介「……三郎、いるか?」そこへ三郎が現れた。三郎「はい…」鹿介「一騎討ちなのに、なぜ手を出した?この勝負、わしは勝ったとは思ってないぞ。」
鳥取・島根漫遊初日。一の宮、重伝建を巡り、再び鳥取駅に戻ります。<旅の行程>1日目:鳥取→若桜→鳥取2日目:鳥取→湯梨浜町→倉吉→三朝温泉3日目:三朝温泉→大山町→米子→美保関4日目:美保関→米子鳥取駅から2km程。久松山に築かれた山城があります。◆鳥取城◆(国指定史跡・日本100名城)別名、久松城。戦国時代、山名氏・毛利氏・尼子氏により争奪戦が繰り広げられた後、毛利氏の重臣である吉川経家が入城しますが、天正9年(1581)、豊臣秀吉による兵糧