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天海(158)「慶長五年七月一日美濃岐阜ノ織田信秀、東国ニ出陣セントス、尋デ、石田三成ノ勧ニ依リ、近江佐和山ニ至ル。」「七月五日、備前岡山ノ宇喜多秀家、山城豊国社ニ詣ヅ。」「七月十一日、近江佐和山ノ石田三成、家臣樫原彦左衛門ヲシテ、越前敦賀ノ大谷吉継ノ東下ヲ美濃垂井ニ要シテ、佐和山ニ迎ヘ、徳川家康ヲ討タンコトヲ議ル。」(「史料綜覧」)岐阜城主・織田信秀は7月1日に、会津に向けて出陣する手筈であった。ところが、出陣の準備に手間取っているうちに、三成の勧誘を受け
天海(157)「卿(毛利輝元)は去年閏三月に家康と兄弟の契約を結ばれて以来親交の間柄にあり、且つ景勝が五年寄の申合に背いて在国したまま、大坂城出仕を肯ぜざるは秀頼を疎略にするものなりとて家康援助に決せられた。そこで広家卿を主将、恵瓊を副将として毛利軍を会津征伐に参加せしめることとし、(一斎留書)。十四日に在坂中の恵瓊に、「今度の関東下向は大儀・辛労、なかなか言語に及ばざる所である。これも皆毛利家の為を思はれるが故で感じ入った次第である。めでたく帰陣せられを待つ」と申遺り、銀
錦帯橋を渡ったところは大きな公園になっていました。吉香(きっこう)公園岩国藩主の吉川(きっかわ)家の居館跡を公園に整備しました。この吉川家の居館と一般市民が暮らす城下町を結んだのが錦帯橋なんですね。しかし、広い公園でした。2月だったので、寒々しいですが、春には桜がとてもきれいだそうですまあ、人混みが大嫌いなので、桜を見に行くことはないんですけどね。。。おもむろに出てきました。こちらは実験橋というそうです。錦帯橋の架替工事のために実験をしています。暴露試験ですね。橋板の継ぎ目
さて。旅館から歩いてすぐに岩国が誇る名所、錦帯橋があります。錦帯橋と岩国城などがセットになったチケットが割安です。(錦帯橋は夕方遅くから夜中、朝早くまでは無料で渡ることができますが昼間は有料となっています)【錦帯橋】岩国市公式ホームページTOP世界遺産を目指す名橋、錦帯橋。その創建からの歴史や、世界的にも唯一といえる構造、美しい写真、現在の様子(ライブカメラ)、そしてこれからの取り組み…。kintaikyo.iwakuni-city.net錦帯橋は、錦川にかかる日本三名橋の5
関ヶ原が終わった後に戦後処理を家康は行った。その中で興味深かったのが、西軍での総大将であった毛利輝元だった。毛利輝元は関ヶ原前に毛利一門の吉川広家が「輝元は安国寺恵瓊に総大将に祭り上げられた。」と家康に訴える。家康は毛利軍が参戦しなければ所領は安堵を約束する。しかし、毛利輝元が大名らに西軍参加を呼び掛けていたことの証拠が出てくる。家康はそのことを知って、山陽、山陰の120万石を没収する。吉川広家は、自分の所領を輝元に譲ると家康に直談判する。その結果、毛利輝元は周防
天海(89)既に12月27日、毛利勝信(吉成)ら先行隊が太和江の南岸に現れていた。29日には毛利秀元、黒田長政の兵船が太和江の上流に向かって航行しているのを幸長が発見している。年が明けて1月1日、長政、秀元ら1万3千人が蔚山城近くに現れ、さらに長曾我部水軍が太和江北岸に上陸した。明軍はこれを妨害するため別動隊を派遣したが、上陸を阻止できなかったのである。「其夜天兵,且欲攻城,造大炬,四圍而進。始自子夜,天明乃罷,而賊丸如雨,死傷甚衆,無一人抵城者。」
●岩国藩●司馬遼太郎『十一番目の志士』下巻岩国藩は三百諸藩に類がない。成立は関ケ原に発する。毛利軍は家康の敵である西軍の旗がしら(ただし多分に名目上の)であり、当主輝元は大坂城にあって幼少の豊臣秀頼を護り、軍勢の一部を関ケ原に出していた。当時、毛利家の相談役は二人いた。僧侶で大名でもあった安国寺恵瓊(えけい)と、分家の吉川侍従広家である。この両人は仲が悪く、しかも日本の政情の見通しについて両人は白と黒ほどに違い、安国寺は豊臣擁立を念願とし、吉川広家は天下は徳川家康に移るものとみていた。この
天海(52)「天兵短劍、騎馬,無火器,路險泥深,不能馳騁,賊奮長刀,左右突鬪,鋒銳無敵。」(朝鮮王朝実録)査大受率いる明軍先鋒2千人は峠で少数の日本軍を発見すると攻撃を加えてきた。山中に誘い込むことに成功した十時惟道と内田統続は、明軍を激しく銃撃して撃退したのである。ところが、敗走する明軍を追撃していくと、新たに明軍7千人と遭遇したのであった。立花軍は包囲を受けて忽ち危機に陥ったのである。この状況を見て、宗茂本隊は2000人で明軍の側面に突撃した。予
2023.12.5.先日、お披露目された吉川広家の銅像を見に行ってきました当日は、因島~竹原~廿日市と走り、日没まで僅かに時間があったので岩国へ9月に岩国に訪れたばかりで、この時(前回、投稿した時点で岩国周辺の見たい所は見終わったと書きました。)で、暫く岩国へ来ることは無いと思っていたのに!早速、行っちゃいました(笑)岩国城の麓に登場した吉川広家なかなか勇ましい姿です武将の像は、やっぱり甲冑姿が良いですね日没ギリギリに間に合い(実際
今まで、新幹線や高速で通過していて,すごく気になる場所がありました。今回は,どうしてもここに来たくてついに,たどり着きました。広々して何もないから、ここが決戦の場に選ばれたのでしょう。ここが石田三成の重臣の島左近の陣地です。島左近の陣地の上(笹尾山)に石田三成の陣地があります。笹尾山頂上まで徒歩五分と書いてあったので、登りました。私は、ハアハア,夢目は楽々でした。さらに登ると、対岸の山々の各陣営がよく見えます。小早川秀秋の陣営もよくわかります。家康の後方には毛利,吉川がいて,彼
(関ケ原古戦場石田三成陣跡)大酒食らいの翌朝二日酔いですこぶる気分が悪い。こういう時は脂っこいものが食いたくなるのが人情というもの。幸いホテルの朝食バイキングにカレーがあったのでこれで糊口をしのいだ。諸物価高騰の余波はこんな所にも押し寄せていて、牛乳、卵料理は一切見当たらない。ところがさすが名古屋、味噌カツが大皿にどっさり並んでいるのにはオッたまげた。目を真っ赤にしてアルコール分の高い呼気をまき散らすAさんが「おお」と飛びついたが、結局喉を通らなかったのはあながち彼のせいと
12月7日出来事1800年(寛政12年10月21日)-伊能忠敬が日本地図の作成を開始。誕生日1561年(永禄4年11月1日)-吉川広家、周防国岩国領の初代領主1878年-与謝野晶子、作家、歌人、女性解放思想家、フェミニスト忌日1869年(明治2年11月5日)-大村益次郎。医師、西洋学者、兵学者。日本陸軍創設者2020年-チャック・イェーガー、アメリカ空軍軍人初めて音速を超えた人物記念日国際民間航空デー国際デーの1つ。1944年のこの日にICAOの設立を
セ、村上投手がMVP.新人王とダブルは、80年の木田(日ハム)、90年の野茂(近鉄)に続き、3人目。パ、山本投手(オリ)が3年連続MVP,76~78の山田(阪急)、94~96のイチロー(オリ)に続き、3人目。歌手の、きゃりーぱみゅぱみゅが28日、俳優・葉山奨之(しょうの、27)と結婚2ショット写真で報告、「お互いを支え合いながら」「WEDDINGPARTY2023.11.27」さて、今月、岩国市横山の吉香公園に、初代岩国領主・吉川広家公の銅像ができたというの
今日は暖かくてお散歩しやすかったです対岸へ渡って、大好きな徴古館を撮り、遠目に見えたきれいなイチョウを撮り、新しくできた銅像を撮り銅像は吉川広家公馬に乗り槍を持った姿がとても格好良いです紅葉谷にも寄ってみましたもう落葉が進んでいて、もう少し速く行くべきだったかなぁ錦雲閣ももちろん撮りました早足で頑張って歩いたら、帰りは暑かった
皆様、ご機嫌YOです!天下分け目の合戦・関が原。この戦いにおいて小早川秀秋と共に家康の勝利に大きな役割を果たしたのが、今回紹介する吉川広家です。それ故に関ケ原戦後の毛利家中は勿論、家康嫌いや薩長史観に染まった者達からは裏切者呼ばわりされた広家。しかし、その行動は単なる利己心ではなく彼なりに毛利家を思っての行動だったのです。今回はそんな広家の生き様、そして関が原から戦後に向けての行動を一緒に観ていきましょう。さて、いかがだったでしょうか。もし、広家が奸臣だったならば関ケ原の戦いの
11月12日の「どうする家康」では、関ケ原の戦いのシーンが描かれていましたが、徳川家康には勝利の確信があったとしか思えません。秀忠軍3万が遅延したため家康方東軍の戦力は6万人ほど。一方光成方西軍は毛利勢を含めると10万人を超える戦力となり、通常であれば東軍に勝ち目があるとは思えません。それにも関わらず家康が秀忠軍の到着を待つことなく開戦を決意しているのは、この戦力で勝てる確信があったからでしょう。この陣配置を見ると吉川・毛利軍に背後を取られていて、また側面に小早川軍が
錦帯橋をお城側に渡った先は吉香公園です。ここは岩国市民憩いの場で、何度も行っています。まずは、錦帯橋を作った3代目吉川広嘉公像。武家屋敷も残ってます。少し進むと広くて綺麗に整備された公園。いろんな樹木があるのも特徴で、既に紅葉が始まってました。ひと際鮮やかな朱色で目を引いた木へ。カイノキというウルシ目の木でした。その横では桜がと、ここでなにやらイベントをやっている声が・・・行ってみると、なんと吉川広家公像の除幕式でした!除幕直前の貴重な場面に立ち会え
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は28日の「ブラタモリ」は「美の極み・錦帯橋」お題は「錦帯橋にはなぜ世界唯一の美しさがある?」昨日は錦帯橋が架けられた理由を書いてきました。しかし、錦帯橋ができるまでには大変な苦労がありました。錦帯橋が完成したのは1673年。吉川広家が岩国城を建ててから65年間、何度橋を架けても流されてしまいました。吉川家は広家から孫の広嘉(ひろよし)まで三代に渡り橋づくりに取り組みました。困難をきわめた理由は下流
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は28日の「ブラタモリ」は「美の極み・錦帯橋」お題は「錦帯橋にはなぜ世界唯一の美しさがある?」今回は山口県岩国市の「錦帯橋」年間60万人が訪れる中国地方を代表する観光スポットです。タモリさんたちはまず渡ってみます。江戸時代、1673年に作られ今年で350年。3つのアーチの途中を支える柱がなく両端を水平に固定することにより、全ての重さを支える世界で一つの構造です。参勤交代の西国大名から徐々に知
おはようございます、海人三面相です。昨日は久々に「ブラタモリ」を見ることができました。昨日は「錦帯橋」「錦帯橋」は山口県岩国市、岩国藩吉川家の領地内にありました。「錦帯橋」は今年で創建350年とのことで、江戸時代の絵師にも描かれ、当時も有名な観光スポットだったようです。私も中学校の時、修学旅行で行ったことがありますが、山城である岩国城再建天守と錦帯橋を同時に見れるこの場所が一番のビュー・スポットです。元の岩国城はここに作られたわけではなく、もう少し奥に作られました。
9月27日、徳川家康は、大坂城に入城して、豊臣秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻すと、嫡子の徳川秀忠を二の丸に入れた。しかし、10月2日、徳川家康は、黒田長政を通じて、吉川広家に対し、実際には、毛利輝元が、積極的に西軍総大将として、活動していたとの証拠が、多数発覚したため、広家の説明は、事実ではなかったことが明らかになった。具体的な証拠としては、毛利輝元が、諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送が、発見された。更に、伊予において、河野通軌等の河野氏遺臣に毛利家臣の村上元吉を付け、東軍の
島津義弘は、撤退戦の際、捨て奸と言われる、数人の隊が、留まって、全滅するまで、敵の足止めをし、その部隊が、全滅すると、更に、新しい足止めの舞台隊を残すという、壮絶な戦法を用いた。その結果、島津義弘の甥の豊久及び、家老・長寿院盛淳等が、義弘の身代わりとなり、多くの将兵が、犠牲になった。しかし、後に「小返しの五本鑓」と称される者達の奮戦もあり、井伊直政、松平忠吉の負傷によって、東軍の追撃の速度が緩み、更に、徳川家康が、追撃中止の命を出したため、島津義弘は、敵中突破に成功した。島津義弘の
あなたを笑顔にするカードメッセンジャー・ホワイトローズ(華咲玖楽々)です観光レポ続きです①下関・唐戸市場へ②関門トンネル人道、関門③門司港レトロとトロッコ列車④長府毛利藩城下町と庭園山口県岩国市にある1608年に岩国藩主・吉川広家が築城した岩国城白壁の美しい3層4階の造りですロープウェイに約3分乗り、山頂駅から8分ほど歩くとお城がありました!61年前に復元されたお城の内部には刀や錦帯橋模型など展示されていました
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、途中中断もありましたが、本日は第53回目で、RC造り復興の「岩国城」(山口県岩国市横山)の「天守」をお届けします。初回は、「プロローグ」ということで「天守」についてのエピソード等をお話をし、2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)」を織り交ぜて掲載してきました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シ
関ヶ原の戦いで南宮山に布陣した、西軍が動いていたら…南宮山に布陣した西軍毛利秀元・吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らの軍勢は約3万。南宮山の北にある桃配山に布陣した東軍徳川家康の軍勢3万、家康本陣の後方を護衛する浅野幸長・池田輝政の軍勢1万1千は中山道に布陣。南宮山の北に布陣した吉川広家、徳川家康と密約して動かず。南宮山の山頂に布陣した毛利秀元、吉川に行路を遮られ進軍出来ない。南宮山の東に布陣した安国寺恵瓊、再三に渡り進軍を要請するも毛利本隊が動かず仕掛けられない。南
こんばんは。関ケ原組創設者関ケ原おもてなし武将小早川秀秋です。昨日の問題の答え合わせです。宰相殿の空弁当の【宰相】とは誰か。ですが、どう思っていたかTwitterで集計してみたのですが、このように毛利秀元殿か吉川広家殿かでほぼ半々に分かれました。関ケ原でお客さんの話を聞いていても勘違いされている方が結構多いんだ。そもそも宰相とは参議の唐名。つまり参議が誰か分かれば空弁当が誰のことなのか分かるんだ。秀元殿は文禄四年に参議、吉川殿は天正十六年に従五位下、侍従。同年従四位下だから参議(宰
268年。関ヶ原の戦いから明治維新までの歳月である。思えば関ヶ原は不思議な戦さだった。と、専門家でも思っている。維新後、陸軍の近代化を推し進めていた日本政府がドイツから教官の派遣を要請して、来日したのがメッケル少佐(1842〜1906)だ。メッケルは故国で参謀として戦略戦術を担う人物だ。彼の仕事は日本に参謀本部をつくり、参謀将校を育てることだった。そのメッケルが関ヶ原を訪れたとき、日本の陸軍参謀たちは関ヶ原の役の東西両軍の布陣地図を彼に見せた。メッケルはそれをじっと見ていたがやが
今回は『猛将親父』のこぼれ話です。その③です。『猛将親父』の目次はこちら⬇️目次吉川元春(きっかわもとはる)が天正10年(1582年)の備中高松城の戦いの後、嫡男の元長(もとなが)に家督を譲り、隠居した。備中高松城の戦い隠居した元春は日野山城(ひのやまじょう)の西南の山麓に隠居館を建築を天正11年(1583年)から開始した。この⬆️高さ3mの石垣が約80mに渡って続いているんだよ元春は建築途中の館に住み、隠居生活を始めたのだ。しかし、元春は館の完成を見る事なく、天正14年(15
今回は『猛将親父』のこぼれ話です。その②です。『猛将親父』の目次はこちら⬇️目次吉川元春(きっかわもとはる)には4人の息子がいました。元春の後を継いだのが長男の吉川元長(きっかわもとなが)でした。吉川元長元長は天正14年(1586年)11月15日に亡くなった元春の後を追うように翌年の6月に亡くなった。元長が吉川家の後継ぎを弟であり、元春の三男の広家(ひろいえ)に推薦し、毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)も同意した。吉川広家広家さんが吉川家の当主になっ
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。関ヶ原の戦いの後、毛利輝元(もうりてるもと)は領地没収の上、改易。毛利家の領地の内、周防、長門の2ヶ国をわし(広家のこと)に与えるとの沙汰が来たのだ。広家さんは毛利を守るために徳川に内密で通じたのは毛利家の領地安堵の約束を得ていたからなんだよ毛利輝元広家『これでは毛利が潰れてしまう!父、元春(もとはる)との約束が守れぬ…』わしは命をかけて豊臣秀吉(とよとみひでよし)公と立ち向かった父と同じように徳川家康(とく