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ひとゆかば倉富勇三郎(1853年-1948年)長く司法行政を渡ってのち枢密院議長に就く。政党政治に反感があり、やがてロンドン海軍軍縮条約を機に軍の意向に傾斜。平沼騏一郎と共に軍が政治に容喙する後ろ盾となるも、そのことを危ぶむ昭和天皇の信を失い西園寺公望らによって退けられる。ひとゆかば吉井友実(1828年-1891年)西郷隆盛、大久保利通とは竹馬の友。藩政を担って薩摩を尊皇攘夷に導く。明治六年の政変では大久保について下野せず。その後宮中改革に尽力するも元田永孚
まずは競馬の話題から。昨日終了時点の騎手リーディング順位です。1位ルメール169勝➡︎+6富士ステークス菊花賞2位M.デムーロ126勝➡︎+13位戸崎96勝➡︎+34位福永80勝➡︎+15位川田77勝➡︎オーストラリア遠征6位北村友76勝➡︎+47位田辺73勝➡︎+08位松山70勝➡︎+19位和田65勝➡︎+010位岩田65勝➡︎+323位モレイラ51勝➡︎+5先週はルメール騎手が土
問題は、斉彬に上洛の意思があったかどうかです。薩摩藩士の吉井友実が西郷から聞いた話として、斉彬が三〇〇〇の兵を率いて上洛するつもりだったという話が残っているのは事実です。しかし、確実に斉彬の上洛計画があったと実証する一級史料は、筆者が知る限りありません。計画は斉彬と西郷ら側近の間だけで極秘に進められていたからなのかもしれません。その噂は斉興の耳に入っていたかもしれません。だとしても、噂だけで斉興が毒を盛るでしょうか。斉彬の上洛計画が具体的なものでなか
岩倉具視襲撃事件の直後、西郷すら理解できない形で、佐賀城下の『小野組』を佐賀藩士たちが襲撃する。彼らは軍資金として、その金庫を抑えてしまうのだ。『小野組東京移籍事件』は仰天する展開をみせた。ハードボイルドな展開をちらつかせていた佐賀藩の江藤司法卿の追及は、ついに騒乱に発展した。これが『佐賀の乱』裁判が、佐賀で暴動に発展するのだ。この佐賀の乱の勃発当初大久保は三条実美、岩倉具視、木戸孝允に諮って一時的に『行政権』と『司法権
晴寒暖計81度【=摂氏27.2度】この日、・野崎広太氏から備中笠岡産の桃が届く。礼状のすみに、三千とせは願はされともたべてもしいきのひるならせめてももまで【注・三千年とまでは欲張らないが、食べてもしも生き延びることができるのなら、百歳(ももとせ)までと願いたい】・午後1時、御歌所の大口鯛二氏と岡山高蔭のふたりが来宅。そのなかで、大口氏による先帝の話。①明治10年ごろ、岩倉【具視】右大臣の発案で、先帝のご教導のための「夜話」という会があったこと【→ここで