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いよいよ、史記の范雎(はんしょ)のお話も、今度こそ本当に最終回です。蔡沢(さいたく)はさらに、次のように語ります。「昔、斉(せい)の桓公(かんこう)は、諸侯を集めて協力体制で天下を正そうとしましたが、葵丘の会盟(ききゅうのかいめい)の時には、驕慢な気持ちがあったので、たくさんの国が斉に背きました。また、呉(ご)王・夫差(ふさ)は、その兵力は天下に揺るがないほどでしたが、諸侯を軽んじて、斉や晋(しん)を敵に回したので、ついに自らの国を亡ぼしました。夏育(かいく)や太
○2023年9月6日から12日まで、「寧波・杭州・蘇州・台北旅」と題して、寧波・杭州・蘇州・台北を旅して来た。それぞれに思い入れがあって臨んだ旅だった。寧波萹、杭州萹に引き続き、今回は、「蘇州篇」と題したい。○前回の杭州萹で案内したように、中国には「上有天堂、下有苏杭。」のことわざがある。つまり、蘇州と杭州が地上の楽園だと言う認識である。それ程、蘇州や杭州は温暖で、豊かで、人が生活しやすいと言うことなのだろう。○また、寧波萹で述べたように、当古代文化研究所は、これまで、寧波に八回訪問している
今日から司馬遷(しばせん)が編纂した史記に記されている、范雎(はんしょ)という人物について、書きたいと思います。范雎のことを知っている人は、かなり東洋の歴史に造詣が深い方に違いありません。一般の人は多分、この人の名前の漢字さえ読めないと思います。范雎という人は、古代中国の秦(しん)の始皇帝の曾祖父に当たる昭襄王(しょうじょうおう)に仕え、秦の国の宰相まで上りつめた人です。「キングダム」の漫画やアニメをご覧になった方なら、呂氏四柱(りょししちゅう)の一人として登場
ここの所、毎日が睡眠不足で寝ているのか起きているのか、よくわからないような状態になっています。それでも講座の時間になると、どういう訳かシャキッとして元気いっぱいになります。本当に不思議なものです。講座をやっている最中は楽しくて楽しくて、幸せいっぱいに満たされています。こうして毎日忙しく過ごしながらも、ありがたいなあ……という感謝の気持ちがわいてきます。今、作っている六十干支講座のテキストなんですが、実はみんなから手伝ってもらっているんです。ゆるぴさんに
2024年3月8日(金)十人十色。人の数だけユニークさはある。仕事柄、いろんな人と会って話してきたが、驚くべきは人のユニークさが実に多様でしかもその人らしさはどこに行ってもいつまでたっても変わらないこと。その人らしさは失われることはない。そのユニークさが受け入れられるかどうかはわからない。そりが合わない、となってしまっては、せっかく持って生まれたユニークさが花を咲かせることはない。ユニークであればあるほど拒絶反応も小さくない。ユニークな人が望んでいることは、そのユニークさを理解し
○2023年9月11日に、蘇州を訪問した。これまで、ブログ『D3142次電車で杭州から蘇州へ』から、『蘇州博物館』まで、30個のブログを書いている。今回の蘇州訪問も、なかなか充実したものだった。○実は、当古代文化研究所では、2015年11月に、「富驿时尚酒店(苏州观前店)FXHotel(Suzhou)」に二泊して、蘇州を隈なく歩いた記憶がある。その時、64個ものブログをものしている。・テーマ「蘇州漫遊」:64個のブログ蘇州漫遊|古代文化研究所:第2室(ameblo.jp)
其六和雉媒詩qíliùhézhìméishī其の六雉媒(ちばい)に和する詩※雉媒。おとりの雉(キジ)。吟君雉媒什一哂複一歎yínjūnzhìméishí,yīshěnfùyītàn君の雉媒の詩篇を吟じて、ひとたび哂(わら)い、復(ま)た、ひとたび歎(なげ)きました。知之一何晚今日乃成篇zhīzhīyīhéwǎn,jīnrìnǎichéngpiānこれを知ったのがひとえになんと晩(おそ)かったことでしょうか、今日やっと詩篇(この和
項荘!剣舞誰、鴻門之会作者、性格、項伯張良、樊噲范増、項王も解説項荘は、鴻門之会で亜父范増に命じられ、剣...history-ancient.com
○2023年9月12日は、蘇州の町を歩いた。朝8時の留園を皮切りに、9時30分には、胥門路脇にある「伍子胥纪念园」へ着いていた。その後、再び、姑胥桥站まで行き、次の目的地である相門を目指すこととする。○姑胥桥站から相門までは、苏州公交40路东环线か、200路南线を利用すれば、7站で行くことができることを確認していた。ちょうど、公交40路东环线のバスが来たので、それに乗って、相門へ向かった。○ちなみに、中国の検索エンジン、百度百科が案内する『苏州公交40路东环线』は次の通り。苏州
○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。○その中で、ブログ『張詠:伍員廟』、『高啓:弔伍子胥(謁伍相祠)』と続けている。したがって、今回は『蕭繹:祀伍相廟』となる。【原文】祀伍相廟蕭繹石城寧足拒金陣詎能追楚關開六塞吳兵入九圍山水猶縈帶城池失是非
○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。○前回、その中の一つ、張詠の「伍員廟」詩を案内した。今回は、それに引き続き、高啓の「弔伍子胥(謁伍相祠)」を案内したい。【原文】弔伍子胥(謁伍相祠)高啓地老天荒伯業空曾於青史見遺功鞭屍楚墓生前孝抉目吳門死後忠魂壓怒
○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。その一つも案内しないわけにもいかない。○それで、其の中の一つ、張詠の「伍員廟」詩を案内したい。【原文】伍員廟張詠胥也応無憾至哉忠孝門生能酬楚怨死固報呉恩直気海涛在片心江月在悠々当日者千載泣
○すでに、胥門に関して、ブログ『伍子胥と蘇州』、『伍子胥と胥門』、『姑蘇萬年橋』、『相土嘗水象天法地』と書き続けているから、いまさら、ブログ『胥門』は必要無い気もする。しかし、今回の旅行の主目的の一つが『胥門』だったことを考えると、やはり述べる必要がある。○中国の検索エンジン、百度百科は、蘇州八門について、次のように案内する。苏州古城八门古城苏州城门建筑苏州古城八门是破楚门(阊门)、姑胥门、蟠门、蛇门、缪门、干将门、巫门、望齐门等八门合称,是古城苏州具有代表性的八
○2023年9月12日、留園見学後、苏州公交949路バスに乗って、金阊实验小学站から五つ目のバス停、姑胥桥站まで行った。今回、蘇州訪問の主目的である胥門を訪れるためである。姑胥桥站から学士街を右折して200mほど南下すると、胥門路にぶつかる。○その胥門路を100mも西へ行くと、西外城河で、立派な石橋が架かっていた。いわゆる太鼓橋で、歩行者専用の橋である。せっかくなら、普通に、道路を橋で繋いだ方が便利だと思う。○しかし、ここには、どうしても、太鼓橋を架ける必要性があった。それは、この橋が有名な
○蘇州に蘇州八門が存在する。中国の検索エンジン、百度百科には、次のように案内する。苏州古城八门古城苏州城门建筑苏州古城八门是破楚门(阊门)、姑胥门、蟠门、蛇门、缪门、干将门、巫门、望齐门等八门合称,是古城苏州具有代表性的八座古城门。苏州古城八门_百度百科(baidu.com)○その中の一つが、胥門になる。上記の「苏州古城八门」では、次のように案内する。姑胥门“姑胥门”即胥门。苏州的八座城门中,没有比胥门更富有传奇色彩的了,自然因为它与传奇
○今回、『寧波・杭州・蘇州・台北旅』の主目的の一つが蘇州訪問だった。その理由は司馬遷の「史記」にある。蘇州を作ったのは伍子胥だと言う話は、以前、何処かで聞いたあことがある。その伍子胥は、司馬遷の「史記」の列伝に記録されている。○そもそも、司馬遷の「史記」自体が、何とも、古い。何しろ、「史記」の成立は、紀元前一世紀ころとされるのだから。当古代文化研究所は、「史記」の愛読者である。特に、列伝を愛読している。○「史記」は名作である。機会を見付けては愛読している。中でも、最も名文なのは、誰が何と言お
『天道是か非か-伯夷・叔斉』ー史記より✪七十巻ある列伝の最初を飾るのが伯夷と叔斉の兄弟である。この二人には特に偉大な業績があるわけではない。司馬遷はあえて彼らを列伝の最初においた。これは司馬遷が『史記』に込めたメッセージである。彼らは司馬遷がもっとも大事だと思っていたものを持っていた。それは「信念」である。--伯夷と叔斉は殷の時代にあっては孤竹国の王子たちである。この国の君主は以前から末弟の叔斉を後継者にしたいと考えていた。君主の死後、大臣たちは遺言どうり叔斉を君主に立てようとした。
司馬遷により二千年以上前に書かれた中国の歴史書である「太史公書」通称「史記」前漢第七代皇帝武帝の時代を書いた北方謙三版の読みやすい歴史小説本は二千年前の中国とモンゴルに連れていってくれるのでよい本格派は筑摩書房の史記をオススメするハードボイルドな世界に浸りたいのならこちら(笑)史記は帝、家臣、軍人、商人、学者など色々な人間の考えがみえるから面白い
もっと読みたい本がありました読んでない本がたくさんあることをつくづく思い知らされた。斎藤孝先生の「高校生からの読書大全」この本を読んで、面白いと思った本をメモして次に読む本を決めたいです。「史記」司馬遷コレ、結構面白そうです。あと「紫の履歴書」美輪明宏さん。などなど。わたしは、人の生き方が好きです。で、解説を読んでいてすぐに読もうと思ったのが松下幸之助さんの「道をひらく」です。…素直さは人を強く正しくする聡明にする。…
「桃李もの言わざれど下おのずと蹊を成す」これは司馬遷から引用桃の花が咲けば見に行きたくなるが桃から見れば花見に来て欲しいから咲き誇るのではない。荘子曰く天池は大美あるも言わず四時は明法あるも議せず万物は成理あるも説かずと言われた。私もそういう生き方を志したい。これは有言実行ではなく不言実行を尊ぶ心構えだと思う。サポーターの人たちがみんなの家系を図式に書いて教えてくれるよ。さあ。未来の扉を開こうよ。サポーターが待っているよ。きっと新しい門出が開けるよ
顔回と原憲に見る財物感。孔子は、素寒貧の顔回を高く評価した一方、顔回-Wikipediaja.wikipedia.orgしばしば利殖に成功する子貢については、これを諌めた。(子貢は屈指の大富豪だった)子貢-Wikipediaja.wikipedia.orgしかし、単純に孔子が財物それ自体を悪者視していたわけではなさそうである。なぜなら、一見顔回と同じく、貧しい生活をしている原憲のことは、あいつはくだらない、と一蹴しているからである。(農
さてご先祖のラスボスについて情報を集めようと、ピンポイントの研究書がないかと思いましたが、どうやら無さそうなので、『史記』と『十八史略』を買って読む羽目になりました。天御中主神や伏羲、女媧、神農、炎帝神農、黄帝など徐市のご先祖たちが、史料から分かる私のご先祖として最後だと思います。日本に史料が残っていないとは思いませんでしたが、ご先祖達の辿った経緯を考えると、残っていただけマシだと思えます。今のイメージは、こんな感じ。実際には時代の経過により移ったのではなく、そこかしこに土
物理学者の寺田寅彦は随筆家としても名を残しました。ユニークな視点と思考から繰り出す文章には、思わず膝を打つことも多い。「物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり『腹』や『腰』も入用なのである」。これは筋肉痛になった寺田の実体験からの感想。だが、全身全霊で書くという“執筆の心構え”としての深意をも突いています。文字通り身も心も削って書いた歴史家として脳裏に浮かぶのは司馬遷です。『史記』全130巻は歴史
中国の歴史において優れた哲学者であり政治家であった。管仲戦国の七雄のひとりである斉の桓公覇者となった桓公を支えたのが管仲です。管仲は極めて優れた政治家でありもともと桓公は、政敵である兄弟の腹心であり桓公の暗殺を企てた憎っくきものしかし管仲の能力を認めた桓公は総理大臣に抜擢斉は強国となります。管子は管仲の考えを表した書物です。中国の思想(8)管子(改訂版)(徳間文庫)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}
伊万里と徐福伝説【徐福】司馬遷の史記に「徐福は始皇帝の命を受け、長生不老の霊薬を求めて、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したが、そこで土地を得て王となり秦には戻らなかった」とあります。東方への旅は第1回が紀元前219年、第2回が紀元前210年だとされます。この東方とは一般的には日本のことだとされ(ただし異説あり)、日本には広い範囲で(青森から鹿児島まで)多くの徐福伝説が残っています。しかし不思議なことに日
以前にSNSで投稿した読書録の転載。読了は令和4年12月。筑摩書房史記全8冊セット/司馬遷著筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。www.chikumashobo.co.jp漢の武帝の時代までについての中国歴史書の現代日本語訳。読書会で1年かけて読破した。質量ともに、想像以上に難儀を強いられるものであった。そもそも司馬遷が「一人でも多くの人に読んでもらうたためにはどんな風に書こうか?」と思っていたわけではない以上、現代
マンガは読みやすいですし、わかり易いです。史記、人の生き方や社会を考えるためには良い材料をたくさん提供してくれるように思います。写真の第5巻には、秦の始皇帝の「焚書坑儒」が出てきます。これ、読んでいて、昔話ではないなぁ、と。子ども達にも是非読んでほしいです。お子さんへのプレゼントもいいかもしれませんが、人を殺したりするシーンも出てくるので、そういうものが嫌な方はご注意ください。(もっとも、残酷なシーンのあるアニメに比べればひどくはありませんが)史記5/
今日から、かねてから何度もブログで口にしていた、易者・司馬季主(しばきしゅ)の記述を、連載しようと思います。おそらく、この人こそが、ちゃんとした記録が残っている世界最古の職業占い師です。司馬季主のことが書いてあるのは、司馬遷(しばせん)が編纂した史記の中の「日者列伝」というお話で、ここに宋忠(そうちゅう)と賈誼(かぎ)という人物とともに登場します。つまり、時代でいうと司馬季主が活躍していたのは、紀元前200年ぐらいという計算になります。そして、この人はいつも、長安の東の
老後の趣味にしたいことは?ってAmebaさんは訊ねます。ところで「老後」ってなに?あえて、答えれば「老人力」の発揮?「老後」が曖昧になってきているのが現代なのか?それもとも「老後」があるのが現代なのか?日本でも20年位前前までは年金生活の「老後」のイメージありました。でも終身雇用が崩れ、年金システムも崩壊し、国民年金すら十分には払っていない人が増えてくると(たとえ国民年金を満額払っていても)、かなりの人に「老後」の年金生活はありません。さて、どうしようか?今