ブログ記事10件
Sリハ病院からT病院に戻り、骨癒合を促すための手術を受けた夫。その後の通院リハビリは、実に10カ月間続けた。職場で許された休職期間を目いっぱい使い、リハビリに費やした。リハビリが進むにつれ、週4日からスタートしたリハビリも週2日へと変化していった。それでも変わらなかったのは、理学療法士のMさんの存在だった。毎日必ず7000~8000歩歩くという宿題が出され、通院の日もそうでない日も、晴れの日も雨の日も、夫は指示通りにこなした。リハビリ前には必ず、こんな会話が交わされて
Sリハ病院からの退院を間近に控えた頃、夫は、いくつもの不安を抱えていた。復職できるほどの回復が見込めるのか。会社に戻れたとして、いったいどんな仕事ができるのか。復職できない場合、この身体で再就職は叶うのか。子どもたちの将来が、この事故によって閉ざされてしまうことにはならないか。そんな考えが、常に頭の中を巡っていた。保険会社との交渉も、夫の症状が固定しなければ前に進まない。だからこの時は、賠償という段階にすら入れず、ただ時間だけが過ぎていく感覚があったという。——これ
夫が事故にあってから、私は職場にたくさんの迷惑をかけてきた。このまま働き続けたとしても、夫がすぐに立ち直れる保証はない。またいつ、長期の休みをいただくことになるかも分からない。そんな先の見えない状況で、当てにならない職員を雇い続けるより、もっと良い人材を迎えたほうが、職場のためなのではないか。当時の私は、そんなふうに考えていた。前回、私はようやく夫の心の傷と向き合い、話をした。そのとき返ってきたのは、「時間が欲しい」という言葉だった。あの頃の私は、夫を医療につなぐこ
Sリハ病院の退院を控えた頃から、ずっと見ないようにしていた夫のメンタルの不調。A医師や理学療法士Mさんの言葉もあり、私もようやく向き合う決心をした。オブラートに包んで話すのが苦手な私は、A医師の言葉をそのまま夫に伝えた。「元気なさそうだから、精神科を紹介するって言ってるよ」本当に、そんな感じだった。夫はしばらく黙ったあと、「病院にかかると病名がつくでしょ。それは嫌なんだよ」と言った。病名がつくだろうという自覚があるのだと感じた。さらに話を聞くと、今の職場に復職できない場
大腿骨の骨癒合を促すため、夫はT病院へ再入院し、癒合が進まない部分の骨を砕き新鮮化する手術を受けた。今回の入院中は、朝ベッド上で膝の曲げ伸ばしを含むストレッチを行い、その後超音波治療器。そして昼前と夕方の2回、リハビリ室へ向かってリハビリを行った。T病院は土日はリハビリがお休みになるので、土日はストレッチと自主練でひたすら病棟内の廊下を歩いた。手術からちょうど1週間が経った頃。A医師の回診で、「傷の方は順調に良くなっています。来週抜糸です。痛いのは必ず良くなり
大腿骨の骨癒合を促すため、夫はT病院へ再入院することになった。入院した翌日には、骨を砕いて新鮮化する手術が行われた。これで通算10回目の手術になる。骨を一度砕き、改めて癒合を待つ。長い道のりではあるけれど、前へ進むための大切な一歩だった。手術後1~2カ月は右足に体重をかけてはいけないと説明されていたため、入院前はそれが後戻りになるようで、不安でいっぱいだった。そのうえ、約半年ぶりの病棟は、看護師さんの入れ替わりがあったのか、見覚えのある顔がほとんどなかった
Sリハ病院からT病院への再入院までの2週間Sリハ病院を退院してから、T病院へ再入院するまでの2週間。夫は自宅で過ごした。日中、私は仕事へ、子ども達は学校へ。夫は家でひとりの時間、そのほとんどをベッドの上で過ごしていたという。あれほど心待ちにしていたはずの退院。けれど社会復帰にはまだ遠く、加害者との交渉も止まったまま。さらに、右大腿骨の骨癒合は進まず、近いうちにまた手術を控えていた。先が見えないその時期、夫は心を閉ざしていった。鬱のような状態だったのだと思う。
交通事故にあい救急搬送された夫は、T病院で110日間のつらい治療を乗り越え、その後Sリハ病院に転院して5カ月間リハビリに取り組みました。この5カ月の間に、夫は松葉杖での歩行から、義足を使ってT字杖で歩けるまでに回復していました。屋内であれば、杖を使わずに歩けるほどになっていました。■情報提供書に記されていた「転院当初の夫」理学療法士YさんがT病院宛に作成してくださった「リハビリ情報提供書」には、夫がSリハ病院に転院した当初、どれほど厳しい状態にあったかが淡々と書かれてい
Sリハ病院の退院は、前回T病院のときのような感傷はなく、事務的に進んだ。夫は私の介助なしで自分の足で歩き、病院を後にした。次のT病院への再入院までは約2週間。その間は、自宅で過ごすことになる。自宅で一番心配だったのは入浴だった。義足をつけたままでは入浴できないため、脱衣室からは片足での移動になる。このため浴室の出入口には、外側・内側の両方に手すりを設置した。また、入浴用の椅子と脱衣室用の椅子も準備した。(片足で立ったまま着替えられないため)浴室の段差は解消
T病院でA医師のコンサルを受けた私たち。その結果、夫はSリハ病院の退院後に、再度手術を受けることが決まった。再入院の日は、コンサルからちょうど1カ月後。そこからのSリハ病院でのリハビリは、自宅での生活や職場の環境を見据えた内容へと切り替わっていった。私たちの家は居室が2階にあるため、階段昇降の練習が必須だったし、夫の職場にはあちこちに配管が通っているため、「またぐ動作」も重要な練習項目として計画書に記されていた。しかし・・・T病院での110日間、Sリハ病院で
夫が事故にあってから8カ月が経とうとしているが、大腿骨の骨癒合はなかなか進まない。夫はSリハ病院の退院を待たず、T病院のA医師に判断を仰ぐことにした。4カ月ぶりに訪れたT病院では、まず駐車場係の女性が明るい笑顔で迎えてくれた。夫は会ったことがなかったが、私は付き添い期間中に毎日顔を合わせていた。彼女と子どもの話など、ささいな日常を交わす時間が、当時の私にとって何よりの息抜きだった。再会した瞬間、懐かしさでいっぱいになった。そして、A医師との久しぶりの対面。
今年もこの時期がやってきました。年末調整です。事務作業が苦手な夫は、結婚前から毎年私に丸投げです。今、職場から渡される書類には「障害者」の欄に、すでに印刷でチェックが入っています。でも、足を切断して初めて迎えた年末調整のあの年は違いました。障害者手帳の写しを添付して、私がその欄に自分の手でチェックをつけたのです。所得控除が27万円増える…制度としてはただそれだけの話。けれどその一つのチェックは、夫は障害者になったと公的な書面で改めて知らされる瞬間でも
転院して4ヵ月目、夫の行動範囲は少しずつ広がっていった。その頃はSリハ医院から歯医者へ行ったり、自宅への一時帰宅をしたりと、日常に戻るための一歩を踏み出していた。そんな夫の目標は、やはり車の運転だった。実は切断の少し前が運転免許の更新時期だったが、当時は感染症と闘っていた最中で、免許は失効してしまっていた。しかし調べてみると、失効から6カ月以内であれば、適性検査と講習を受けるだけで再交付できることがわかった。そこで、期限ぎりぎりに夫を運転免許センターへ連れて行った。夫は大型自動車
転院して3カ月。私の手元に届いた3度目のリハビリ実施計画書には、2カ月目とは違う揺らぎと前進の両方が、そのままの姿で刻まれていた。↓最初のリハビリ実施計画書はこちら『【第85話】転院1週間-夫のリハビリ実施計画書に書かれた「今」を公開』Sリハ病院へ転院してから、夫から聞く話といえば—理学療法士Y君のプライベート情報や、同室のおじさまの怪我の原因など、なぜか「周囲の個人情報」が多かった(笑)…ameblo.jp↓2度目のリハビリ実施計画書はこちら『【第90話】義足への道⑩転院2ヵ月の
夫がリハビリ延長を決めたとき、私ができたことは、帰る場所を整えることだけだった。事故当時、夫が大切に乗っていたミニバンは、半年近く動かさずにいたことでエンジンがかからなくなってしまっていた。「一度、運転してみたい」という夫の願いもあってメンテナンスに出したところ、結局バッテリー交換が必要だとわかった。もし時々エンジンをかけていれば防げたのかもしれない。でも車のことは夫に任せきりだったから、当時の私には気づく余裕がなかった。夫は車もバイクも本当に好きで、洗車もオイル
自宅での生活を見据えた、静かな決断の裏側でゴールデンウイーク、一時帰宅の日がやってきた。転院してすでに2カ月。本来であれば、あと1カ月で退院する予定になっていた。松葉杖からT字杖へと進み、リハビリ病院での生活にも慣れてきた夫が、久しぶりに自宅の床を踏む。普段は気づかない段差、手すりの位置、家具の配置。浴槽への移乗方法など、一歩一歩慎重に確認しながら、改修が必要なポイントを洗い出していく。ところが、思った以上に「生活のしづらさ」が見えた。病院ではできていたこと
「松葉杖からT字杖へ――歩みの裏にはちょっとした“食べ過ぎの記録”も」Sリハ病院へ転院して2カ月。私のもとに、2度目となるリハビリ実施計画書が届いた。この計画書には、退院予定はあと1カ月と記載されていた。ここまで頑張ってきた夫の歩みが、数字や所見にすべて現れていると思う。事故にあってから5カ月余り、ようやく退院して自宅へ…が現実味を帯びてきたと感じた。↓最初のリハビリ実施計画書はこちら『【第85話】転院1週間-夫のリハビリ実施計画書に書かれた「今」を公開』Sリハ病院へ転院してから、
Sリハ病院に転院してから8日目、夫は改めて採型を受けた。↓その時のお話はこちら『【第86話】義足への道⑧ー「まだ途中」でも前に進む夫の小さな工夫』T病院からSリハ病院へ転院した夫。この病院でも夫を支えてくれたのは、やはり理学療法士だった。■リハビリ計画書を受け取った翌日断端が2cm減少し、ソ…ameblo.jp新しいチェックソケット義足を受け取ったのは、それからさらに1週間後のことだった。当時の断端は、一日の中でも周径が大きく変化していた。
痛くなる前に対応できたら…側で見て感じる義足生活の今今日は今現在の夫の義足生活について、少しお付き合いください。交通事故で右足を膝下15センチ切断した夫は、現在ピンロック式骨格構造義足を使用しています。夫の義足は労災制度を利用しているため、修理や再製作には労働局の承認が必要です。このところずっと足が痛く、まず古くなったライナーが薄くなって痛みが出たため、新しいものを申請して手に入れました。しかしライナーを変えた直後は圧が強く、別の場所が痛み、さらにソケットのあた
T病院からSリハ病院へ転院した夫。この病院でも夫を支えてくれたのは、やはり理学療法士だった。■リハビリ計画書を受け取った翌日断端が2cm減少し、ソケットに「遊び」が出ていたため、理学療法士のYさん(今回から敬意と感謝をこめて「Yさん」と記載します)は、すぐに義肢装具士Tさんへ連絡をとり、訪問を依頼してくれた。転院後は、YさんとTさんが連携しながら、夫の義足を丁寧に調整してくれていた。■夫のメモに残っていた「たった一言」Tさんの訪問より少し前、夫のメモ帳
Sリハ病院へ転院してから、夫から聞く話といえば—理学療法士Y君のプライベート情報や、同室のおじさまの怪我の原因など、なぜか「周囲の個人情報」が多かった(笑)夫自身のことは、大きな変化があったとき以外、あまり語らなかった。だから、夫のリハビリの進捗を知る手がかりは、病院が発行してくれるリハビリ実施計画書だけだった。Sリハ病院では、管理栄養士・理学療法士・看護師・作業療法士・介護福祉士など、複数の専門職の視点から夫の『今』が細かく記載されていて、これは本当にありがたかった。
転院したその日から、夫の新しい生活が始まった。付き添いをやめた私は、これまでつけていた入院メモ帳を、転院のその日に夫へ託した。体温や痛みの程度、点滴の内容――T病院での110日間、私なりに「見守りの記録」として書き続けてきたものだ。これからは夫自身に記録してもらうことになる。夫がつけ始めたノートは、内容がとてもシンプルだった。お見舞いに来てくれた人の名前、午前と午後のリハビリの担当者、超音波治療器「アクセラス」を使った時間。義肢装具士と会った日は、その旨が一行だ
T病院を後にし、Sリハ病院へ向かった夫。到着するとすぐに、新しい主治医のR先生と対面した。T病院からの紹介状や検査データを一式持参していたが、パンフレットに記された先生の専門は「リウマチ」とある。――え?リウマチ?ここはリハビリ専門の病院のはず。義足でのリハビリを受けるのに、これでいいのだろうか……。いずれT病院に戻ることになるとはいえ、義足のリハビリを受けるには、専門の先生がいるのかどうか。不安が広がった。それでもR先生からは、「大腿骨の骨折の治癒と、義足での歩行を目指しま
いつも読んでいただき、ありがとうございます。今日は、夫が事故にあった日です。この日が近くなると、どうしてもあの日のことばかり考えてしまいます。立ち直れているように見えても、ふとした瞬間に、あの日の記憶や思いにすぐ引き戻されてしまうのです。事故日が近かったせいか、ここのところ思うことが多く、番外編が続いてしまっています。毎年この日の前後は、思いを巡らせる時間がどうしても増えます。事故から年月が経った今も、あの日のこと、失ったもの、そしてこれからのこと――静かに考え込む時間が
転院の日この日は朝一番から、長く暮らした病室の荷物をまとめ、次のSリハ病院へ移る準備をした。転院前に、義肢装具士さんが病室まで新しくできたベルト式の義足を届けてくれることになっている。長くお世話になった看護師さんたちとの別れは、思いのほかつらかった。結婚式のあと、花嫁姿の写真を夫に見せに来てくれた子。実家に帰る前に、わざわざ顔を出してくれた子。手術の前後に、いつも笑顔で励ましてくれた子。まるで親戚の娘のように感じていた。義肢装具士さんが病室にやってきて、新しい義足を手渡してく
いつも読んでいただきありがとうございます。T病院での110日間。思い返すと、あの頃の私たちは、生きることそのものに必死でした。夫は身体の痛みと恐怖に耐え、私はその苦しみに寄り添いながら、何とか支え続けようとしていました。感染との闘い、切断の決断、義足づくりの準備――そのすべてが、私たちの人生を大きく変えていく時間だったのだと思います。それでも、医療者の方々に支えられながら、少しずつ前へ進んできました。夫が再び歩くための一歩を踏み出す準備ができたのも、この11
T病院での110日間、私たちは夫の職場でいただいていた有給休暇分のお給料と、私の少額のパート代、そしてわずかな貯金を切り崩して生活していた。3ヵ月に1度、相手方保険会社に休業損害証明書を提出しなければならなかった関係で、夫の職場を訪れたときのこと。総務部の担当者が言った。「そろそろ有給も終わりますし、労災を使われたらいかがですか?お子さん達もいらっしゃるし、治療も長引くでしょう?」「ご面倒じゃないですか?」と私が聞くと、担当者は笑って言った。「こちらは仕
いよいよ明日、Sリハ病院へと転院する。振り返ってみても、この110日間の入院は長かった。まるで1年もT病院にいたかのように感じる。突然の事故で救急搬送され、その後、2回の手術を経てICUから病棟へ。切断に至るまでに行われた手術は、先ほどの2回を含めて全部で9回に及んだ。この110日のあいだ、どれだけの痛みや不安があったことか。それでも少しずつ、「生きるための治療」から「生きていくための準備」へと、夫の気持ちも変わっていったように思う。そう感じられるまでに、本当に長い時間が必要だっ
チェックソケット義足――いわゆる「仮の仮義足」と呼ばれる義足で数日間頑張ったものの、なかなかしっくりこなかった夫。義肢装具士のTさんは、プラスチック製のソケットに熱を加えて広げたり、当たる箇所に薄いスポンジのようなクッション材を貼ったりして、何度も調整を繰り返してくれた。それでも、これでよしという状態にはならなかった。そこで、義足をピンロック式からベルト式に変更することになり、ライナーも新しいタイプに変えることになった。新しいライナーが届き次第、再び採型を行い、転院当日に出来上が
昨日から太ももが筋肉痛なんですよ。何をするのにも「痛い痛い」と大騒ぎの私。私、何かしたっけ?と思ったら――「一昨日、落ち葉拾ったからでしょ」今朝、夫が笑いながら言う。「立ったり座ったりしてたもんね、そりゃ筋肉痛にもなるよ」…確かに。年齢を感じる今日この頃です(笑)さてここからは夫の話です。義足での最初の一歩から数日。夫は毎日、松葉杖を使い、義足をつけて病棟の廊下を歩いていた。一歩一歩、確かめるように足を運びながら、少しずつ歩行の感覚を取り戻していった。