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○今日、2021年2月2日に、MicrosoftBrngで、白尾國柱を検索したところ、「白尾國柱とは‐コトバンク」の次に、『白尾國柱:麑藩名勝考|古代文化研究所』、『白尾國柱墓碑銘:原文|古代文化研究所』、『白尾國柱のお墓|古代文化研究所』、『白尾國柱墓碑銘を読んで|古代文化研究所』と続けて出て来て、驚いた。インターネットで検索しても、なかなか白尾國柱に関して、詳しいものは出て来ない。○自画自賛したところで、仕方が無いが、出て来たものを案内すると、次のようになる。・テー
○天孫降臨なさった彦火瓊々杵尊が、地上で最初に発した詔は、次の言葉であった。此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。○誰もこの言葉に関心を示さない。と言うのも、この言葉を理解することは、本当に難しい。したがって、関心を示さないと言うよりも、この言葉を理解することができないのである。結果、日本人最初の、大事な言葉であるにも拘わらず、等閑にされたままになっている。○日向国、霧島山高千穂峰山頂に立つと、二十一世紀の現在でも、彦火
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。本当は、新田神社の後ろにある可愛山陵にお参りするのが目的である。つまり、新田神社へお参りすることは、そのまま、可愛山陵へお参りするのと同じことになる。○帰り道、霧島市溝辺町麓の高屋山陵にもお参りして来た。新田神社と溝辺町麓の高屋山陵とは、随分離れている。それはそうだろう。昔なら、国が違うのだから。新田神社の鎮座まします薩摩川内市は薩摩国国府があったところであり、霧島市国分は大隅国国府が存在したところである。○旧日向国
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。そのことについては、正月19日に、次のブログに書いている。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『神代三山陵:可愛山陵』神代三山陵:可愛山陵|古代文化研究所(ameblo.jp)○その一週間後の正月16日に、今年の初登山として、肝属山地最高峰の甫与志岳(967m)に登って来た。それは当古代文化研究所が甫与志岳を可愛山陵だと判断するからである。その時の様子については、次のブログに詳しく書いている。・
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。新田神社のすぐ裏側に可愛山陵が存在する。それで、可愛山陵について、あれこれ、考えている。○現在、此処は宮内庁に拠って、可愛山陵として管理管轄されている。ウイキペディアフリー百科事典の可愛山陵項目を見ると、それがよく判る。可愛山陵可愛山陵(えのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内
○2021年正月8日、所用で鹿児島県祁答院町へ行くことになった。それで少し足を延ばして薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。ある意味、これが今年の初詣となった。○ウイキペディアフリー百科事典が案内する新田神社は、次の通り。新田神社(薩摩川内市)新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内
peachhappy✨こんばんは薩摩川内市の新田神社⛩へ行きました300段を超える石段をフーフー言いながら登りました!車で本殿近くまで行くことができるのはあとで知りました😅神亀山の山頂にありニニギノミコトを祭る神社ですかつて薩摩一ノ宮と呼ばれた風格ある神社でした隣接している可愛山陵〜エノミササギに行きたかったのもありました50メートル下に降りて行きます神代三山陵の一つニニギノミコトの墳墓として宮内庁直轄だそうです神聖な空気に包まれている気がしました立派な神社
○前々回、ブログ『邪馬台国サミット2021:天皇家の故郷』で、真実の神代三山陵が次のようになることを案内した。これは当古代文化研究所が発見したものである。初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵○しかし、現在、宮内庁が神代三山陵として管轄しているのは、次のものである。初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山
おはようございます。公伯です。以前、お水入りの話をしたと思います。(吉方位お水入りで美容効果)その時、度忘れしていた鹿児島県薩摩川内市の源泉かけ流しの旅館を思い出しました。あの時は度忘れしていて、名前も場所も思い出せなかったのですが、そこには友人を連れて行ったこともあるので、その友人に連絡して名前を思い出してもらいました。そこは、「ホテルマル善」というところです。川内高城温泉というところです。川内駅から30分くらいは車で行
息子とドライブ!今日は!薩摩川内!新田神社へ!近くの!可愛山陵は!天孫降臨神話の!主人公!ニニギノミコトの陵墓です!鹿児島県内には!宮内庁が指定する!神代三山陵!(かみよさんさんりょう)が在り!その一つです!~からの!伊集院へ!島津義弘公を祀る!徳重神社へ!御朱印は16時なのに!閉ってた(笑)!もちろん!伊集院まんじゅう!買っちゃいました!島津藩の!丸に十字の家紋!懐かしい(笑)!
道の駅日向を6:30に出発耳川を挟んで反対側にある美々津集落を早朝から歩く日本海軍発祥之地碑10号線を登りながら門川町の五十鈴川で写真を撮る五十鈴とつく物は何でも写真を撮るようにしてる延岡市土々呂町に入り土々呂のバス停でも写真を1枚延岡市街に入りいむら酒店や直ちゃんを見に行きましたが、まだ8:00前で開いていませんでした持ち帰りのみの対応となったました11:00〜なんか良い雰囲気街から離れながら延岡北部の無鹿町和田越決戦の地西南戦争和田越決戦配置図和田越決戦ノ地碑延
こんにちは、スタルペスです。宮崎県延岡市の可愛岳のふもとにある「可愛山陵(えのさんりよう)(えのみささぎ)」にやってきました。延岡市北川町の西郷隆盛宿陣跡資料館の裏手にあります。「可愛山陵」の正式名称は「北川陵墓参考地」といいます。※北川陵墓参考地(可愛山陵)天孫「ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)」の墓とされています。ニニギノミコトの墓は、九州に3箇所もあっていずれも宮内庁の陵墓参考地となっています。まずは、宮崎県の西都原古墳群にある「男狭穂塚(お
○邪馬台国を代表する風景は邪馬台国三山の風景で、その話を前々回した。前回はブログ『狗奴国を代表する風景』で、それが神代三山陵の風景だと言う話をした。○もっとも、現在、宮内庁が管轄する神代三山陵比定地は、完全に誤りである。当古代文化研究所では、神代三山陵の第一人者である白尾國柱の研究を継承して、真実の神代三山陵探索を行った。その研究成果をテーマ「神代三山陵の研究」として、まとめている。・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログhttps://ameblo.jp/sisiza1949
○前に、邪馬台国を代表する風景として、ブログ『邪馬台国の風景』を書いている。・テーマ「台州・天台山」;ブログ『邪馬台国の風景』https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12600931757.html?frm=theme○つまり、邪馬台国を代表する風景は邪馬台国三山の風景であって、それは次のようになる。・畝傍山=霧島山(1700m)・香具山=桜島山(1111m)・耳成山=開聞岳(924m)○邪馬台国を訪れていただければ判ることだが
○福昌寺墓地に白尾國柱のお墓が存在すると言う話を聞いていたが、なかなか訪れることが無かった。2020年3月4日に、ようやく鹿児島市池之上町にある福昌寺墓地を訪れ、白尾國柱のお墓詣りを済ませることができた。○白尾國柱のお墓の側面と裏面には、長瀬眞幸が書いた白尾國柱墓碑銘が存在した。それを苦労して読んだ。いつもお世話になっている白尾國柱への、せめてもの恩返しのつもりである。白尾國柱に学んだことは多い。○白尾國柱の「麑藩名勝考」は、名著である。彼が「麑藩名勝考」をものしたのは、神代三山陵の究明にあ
○前々回に『神代三山陵の先坣僑位』の話をし、前回、『世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道』の話をした。よくよく考えてみたら、肝心の神代三山陵について、何も話していない。それでは話が繋がらない。○それで、今回は、神代三山陵について、考えてみたい。しかし、神代三山陵の問題は奥が深いし、なかなか面倒でもある。当古代文化研究所では、神代三山陵について、すでに詳細な検証を加えている。・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログhttps://ameblo.jp/sisiza1949/theme-
○吐噶喇列島が吐火羅国で、硫黄島が舎衛であることは、畢竟、硫黄島がどんなに恐ろしい島であるかを、説明しなくてはならない。ある意味、硫黄島は日本創世の島だと言えよう。○そういうことを教えてくれるのが、吉野山である。そのためには、吉野山がどういう山であるかを確認することから始めなくてはならない。それが『吉野山の正体』である。詳しくは、以下のブログに書いている。・テーマ「吉野山の正体」:40個のブログhttps://ameblo.jp/sisiza1949/theme-101103996
○「日本書紀」全三十巻の最後を飾るのが高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめすめらみこと)である。漢風諡号は持統天皇と申し上げる。持統天皇は女性の天皇である。○「日本書紀」の持統天皇紀を読むと、異常に吉野宮御幸が多いのに、驚かされる。持統天皇は持統天皇三年一月十八日から、持統天皇十一年四月七日に至る九年間に、三十一回もの吉野詣でを繰り返している。年平均にして、およそ3、5回。これはどう考えても、尋常な数字ではない。○何がそれだけ、持統天皇を吉野へ引き付けたのか?寡聞にして、そういう話を聞
3月の鹿児島長期出張漫遊。最初の休日は一の宮参り。<旅の行程>1日目:薩摩川内→出水→鹿児島2日目:鹿児島→入来→鹿児島3日目:加世田→知覧4日目:蒲生→鹿児島→桜島5日目:鹿児島→福山→隼人→鹿児島鹿児島県はかつて、薩摩国と大隈国の律令国に分かれていました。薩摩国には、現在の桜島を除く鹿児島市から南端の指宿、枕崎までを含まれていました。そんな薩摩国の一の宮。鹿児島中央駅から1時間、上川内駅で下車。徒歩15分程で、山の麓の鳥居が見えてきます。
神亀山(しんきさん)新田神社の周辺は、その形から神亀山と呼ばれており、「可愛山陵・中陵・端陵」という3つの古墳が集まっています。※画像はお借りしています。南から望むと、可愛山稜は甲羅に、中陵が首、端陵を頭部とした亀のように、見えることから、神亀山と呼ばれています。可愛陵社(えのみささぎしゃ)御祭神邇邇杵尊(ににぎのみこと)新田神社の本殿裏手に、可愛山陵があります。見えてきました邇邇杵尊の御陵になります。明治7年、可愛山陵指定により創建され、新田
○日向神話を語ろうとすれば、当然、日向国の中心が何処にあったかを確認する必要がある。何故なら、そこが日向神話の舞台だからである。そういう意味で、神代三山陵の存在は大きい。○それは、日向神話が神代三代の物語であるからに他ならない。その神代三代の御陵が神代三山陵である。どう考えたところで、日向神話の舞台が神代三山陵付近であると考える方が自然である。○そういう意味では、神代三山陵のあるところは、天皇家の故郷でもある。少なくとも、そういう意味で、「古事記」や「日本書紀」は、神代三山陵を記録しているこ
○日向神話とは何か。具体的には、・天孫降臨神話・海幸山幸神話・神武東征神話の三つに集約される。そこが日向神話の舞台であることは、間違いない。ところが中西進は、日向神話の舞台が何処であるかさえ、言及しようとしない。と言うか、おそらく中西進には、そのことがまるで判っていない。○天孫降臨の世界山が何処であるか。中西進には、そういうことすら、関心がなさそうである。何故なら、天孫降臨の世界山がどうして日向国でなければならなかったかが、中西進には、理解されていない。加えて、天孫降臨の尊
○枕詞『かもつきのあひら』の話を長々と続けている。もともと枕詞「天降付く」から始まった話である。それ程、日向国には、現代に於いても、枕詞が溢れている。枕詞を研究しようと思えば、日向国を訪れるに如くはない。○枕詞『かもつきのあひら』の話は、まだまだ続く。と言うか、奥が深い。これまで、肝属川の支流、姶良川の上流の話だったが、今回、話するのは、肝属川の河口の話である。○大和国の始まりは、神武天皇の東征だと「古事記」や「日本書紀」は記す。その神武天皇の父が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊で、その御陵が吾平山陵
新田神社■御祭神:瓊瓊杵尊■鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2■薩摩国一の宮神亀山という小高い山の上にあり、社殿の背後に皇孫・瓊瓊杵尊の陵墓とされる可愛山陵(えのみささぎ)があります。江戸時代までは八幡三神(応神天皇、神功皇后、武内宿禰)が祀られ新田八幡宮と呼ばれていました。平安時代の承平・天慶の乱の際に反乱調伏のため九州で五ヵ所が選ばれ(五所別宮)、宇佐八幡宮の別宮の八幡宮が勧請されたうちのひとつと言われています。それと陵墓を守る神社とが、どう関わり合ったかは諸説ある
○前回、鴨神の故郷が日向国であることを確認した。もっともそれは旧日向国であって、後世の大隅国だと言うことになる。上鴨神社に該当するのが鹿屋市吾平町神野の大川内神社で、下鴨神社は吾平山陵だと言うことになる。○その大川内神社と吾平山陵の間を神野と言う。こう言うと、何でも無い気がするけれども、これが本当に大事なことであることに気付く人は、それ程、居ないのではないか。それは此処神野が熊野であると言うことである。○当古代文化研究所では、これまで、長い間、神代三山陵の研究を重ねて来た。結果、真実の神代三
○鳥居があって、玉砂利の参道を歩いて行けば、禊の清水の場が存在し、その先に祭りの場が存在する。それがもともとの神社の様子である。そういうものが吾平山陵へ行くと、そのまま現代でも存在する。つまり、此処が日本の神社の原風景であることが判る。○伊勢神宮や出雲大社、大神神社などが、幾ら頑張ったところで、それらは全て、勧請された神に過ぎない。もともと、神々の故郷は日向国に存在する。そういうことは、日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」を読むと、判ることである。○日向国には、当然、その原型が存在
○肝属地名や吾平地名を考えると、枕詞『かもつきのあひら』が一番説得力がある。そういう話を続けている。枕詞『かもつきのあひら』は、当古代文化研究所が肝属地名や吾平地名を説明するために案出したものである。○肝属地名や吾平地名を説明するのに、枕詞『かもつきのあひら』ほど、的確なものはない。前回の最後に、神無月の話をした。岩波古語辞典には、次のように説明する。かみなづき【神無月】陰暦十月の称。中世の俗説に、十月には諸国の神神が出雲大社に集まって不在となるからという。○とんでもな
○大隅国には肝坏郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡が存在した。そのうち、肝坏郡と姶羅郡の所在地がはっきりしない。そういう話を前回した。しかし、大隅国には、姶良川が流れ、大姶良川も存在する。これらが姶羅郡と無関係であると考える方に無理がある。○また、大隅国には、肝属川が流れ、肝属平野が存在し、肝属山地もある。ある意味、肝属川が流れる肝属平野が大隅国の中心であったことは間違いない。姶羅郡が姶良川や大姶良川流域を中心だとすれば、肝坏郡は肝属川の下流域と内之浦などの大隅半島南部であったと推測される。○
○前回、あひら地名について、考察した。あひら地名の起源は、どう考えても、旧吾平町にあるとするしかない。そこを流れる川は姶良川と言う。その旧吾平町の唯一無二の名所が吾平山陵である。姶良川沿いに存在するから、吾平山陵と称するのであろう。○その吾平山陵は山陵と称しながら、その実、山陵ではない。そのことは、実際、吾平山陵へ参詣してみない限り、理解されない。吾平山陵は、河合の洞窟である。おそらく、あひら地名は吾平山陵の状況を表現したものと思われる。○それが河合である。吾平山陵へ参拝するには、四の橋から
○神代三山陵の所在地になるところの地名が肝属で、その肝属地名を案内する妥当な説明を見たことがない。川の名が肝属川で、山は肝属山地、平野も肝属平野と呼ぶ。ただ、前回案内したように、肝属川の源流は高隅山となっている。上流は鹿屋川である。さらに面倒なのは、肝属川水系の最長流は串良川である。○肝属川が流れている平野が肝属平野である。それに対して、肝属山地は肝属川の南部地域を占める山地となっている。真実の神代三山陵比定地である、甫与志岳・国見山・吾平山陵が存在するところである。そういう意味では、肝属