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前記事のつづき、賤ヶ岳登山でもうすぐ頂上というところから。頂上の一角に到着。ここまで、登山口から約30分。振り返ると、近江盆地の水田地帯と伊吹山。整備されて公園のように開けた山頂部に『史跡賤ヶ嶽』の石柱と、碑文が全く読めない石碑。オシャレな木製の山名パネル?早朝の琵琶湖展望が素晴らしい。奥には三等三角点。30分で標高400mも登れる訳がないから、登山口は少し標高があったのだろう。奥に見えてるのは余呉湖。低山には珍しく、凝った立派な彫刻作品が。武者像『戦のあと』という作品で
琵琶湖の北岸に位置する長浜城、その天守から周囲を眺めると戦国時代の当時の様子が頭に浮かんできますね。この地に豊臣一家が一時期一緒に暮らしていたのだと思うと緊張感が少し感じてしまいます。訪問が2月の後半でしたので周囲の山にはまだ雪の積もった白い部分が見られます。周囲には佐和山城、彦根城、安土城、小谷城など当時に知られたお城や遠くには伊吹山や比良山系などが見られます。また古戦場で知られる姉川、賤ヶ岳、関ヶ原などはすぐ近くに存在していますね。
8/10今日はうっかりサイクルウェアを忘れてしまう。せめて、裸になる前に気づきたかった😑しゃーないので登山。一応、トランポ先で自転車に乗れなかった場合に備えて、軽装だけど登山出来るウェア・シューズorブーツはいつも車🚗に載せてある。じゃー予備のサイクルウェアを載せとけって話しですけどね笑とは言ってもそこまでガッツリ装備があるわけでは無いので低山。いつもお世話になっている余呉湖。今日は賤ヶ岳。東海地区とその周辺は、歴史の教科書とかに出る所がほんと多くて、歴史スキーな自分には登る以
(JR渋川駅から赤城山)■永禄4年の関東上杉政虎の北条小田原城攻めは、前回ブログで記しましたが、6月に政虎が越後へ帰国した後の関東の動きをご紹介します。7月:北条氏康、政虎が関東から去ると関東回復に向け反撃を開始。8月:真田幸隆、信玄の命で岩櫃城を攻撃し斎藤憲広と和議。北上野上杉勢の信濃支援ルートを遮断。(9月第4次川中島の戦い)11月:武田信玄、北条氏康の要請で西上野に出兵して高田城・国峰城を落城。12月倉賀野城を攻める(落城せず)。12月:上杉政虎、古河城の足利藤氏や近衛前
昨日のことになりますが、埼玉県は小手指の方に南北朝戦乱の史跡を巡ってきました。↑小手指原古戦場碑↑案内版この地域では、南北朝時代に三度も合戦が起こっています。代表的なものが新田義貞による鎌倉幕府滅亡時に起こった合戦となります。史料『太平記』によれば……大手の軍勢は同月十一日の午前八時に武蔵国小手差原に到着した。ここで遙かに源氏の陣を見わたすと、軍勢は雲霞のごとく群がって幾千万騎とも知れなかったので、桜田と長崎は予想外であったのだろう。そのまま馬を止めて進み得なかった。これに
■第4次川中島の戦い川中島の戦いと聞くと、多くの人がこの銅像の様に、謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたなどと、信玄と謙信(当時政虎)の一騎打ちを連想すると思います。実際にはそのようなことは無かったようですが、戦国大名でかつ対照的な二人が直接対決する配役の妙と、両者ともに危うく一方的な敗戦を喫しそうになりながら、何とか持ちこたえ、はっきり勝敗が付かない形で戦いが終わったことなどが、多くの人を引き付けているのです。永禄4年6月下旬、政虎が関東から越後に帰りました。彼はその後、陸奥会津の蘆名
毎日暑い日が続きますね。第4次川中島の戦いは新暦9月。当時残暑はどうだったでしょう。■永禄元年〜3年(1558〜1560年)の動向今回は、にらみ合いの第3次川中島の戦いが終わり、第4次川中島の戦いが始まる前の3年間から始まります。1.武田晴信の動き永禄元年の信濃守護着任から始まり、宗教権威と寺社統制を最大限に利用して「武田家(晴信)への権力集中」を図った時期です。年代順の主な動向永禄元年(1558):信濃支配の安定化上杉との大決戦を避けつつ、北信濃の国境防衛と家臣団統制、内政整備に
弘治2年(1556年)は、真田幸隆による信濃埴科郡尼飾城の攻略です。■尼飾城の攻略晴信は、真田幸隆に景虎側の軍事拠点であったこの城の攻略を命じ、幾たびかの攻略戦の末、弘治2年、堅固を誇る尼飾城をようやく陥落させました。晴信からの度重なる早期攻略の催促のもと、真田幸隆は高坂弾正(高坂昌信)らの加勢を得て、三方が断崖絶壁の尼飾城で徹底抗戦する東条氏を、粘り強い包囲と数次にわたる攻撃の末に、追い詰め陥落させました。敗れた東条氏は越後の上杉氏(長尾景虎)を頼って落ち延び、東条地域は武田氏の支配
こんにちは。以前に愛知県新城市へ訪れた時の続きです。亀山城の次は織田、徳川連合と武田が戦った設楽ヶ原へ訪れました。『愛知県新城市亀山城跡(三河国)』こんにちは。今週は愛知県新城市の亀山城跡に訪れました。以前に訪れた田峯城から30分強。『東三河の山奥にある田峯城』こんにちは。6月前半の話しですが、愛知県設…ameblo.jp設楽ヶ原歴史資料館に車を停めて古戦場跡まで10分程歩きます。直ぐに武田の重臣である甘利信康討死の碑が現れる。この戦で武田は多くの重臣を失いました。設楽
■下伊那侵攻天文23年の晴信は、伊那郡統一に乗り出します。既に支配済みの上伊那から南下し侵攻してゆきます。侵攻ルートは、現在の国道153号線沿いに【北:上伊那】伊那郷(伊那市中心部)→福智郷・小村郷(伊那市南部・宮田村周辺)→春近領(駒ヶ根市〜松川町の西岸一帯)→麻績郷・伴野荘(高森町・豊丘村など、下伊那の北部)→【南:下伊那】知久郷(飯田市下久堅・豊丘村南部)途中の郷は、大軍で押し寄せる武田軍に対抗できず従属しましたが、下伊那知久郷(ちくごう)だけは、鈴岡小笠原の気質が残
令和8年7月28日16時27分頃、熊本県熊本地方を震源とする地震が発生しました。連日の報道で皆様もご存じのことと思います。亡くなられた方々のご冥福、けがをされた方々の回復、避難されている方々の健康をお祈り申し上げます。さて、今回のブレイクタイムは数年前、孫の学童チームが地区大会で優勝し、熊本で行われる「全国大会熊本ラウンド」に出場した時の思い出です。開会式は「パークドーム熊本」でした。ゲストに松坂大輔さんが来られました。第一試合の会場は「八代運動公園野球場」でした。試合の後、近くの
天文20年(1551年)5月、東信地方を支配した晴信は、深志城(現松本城)を信濃侵攻の拠点とし、馬場信春を城代に据え、筑摩郡、安曇郡の平定と村上義清(葛尾城)への侵攻を進めます。葛尾城の侵攻ルートは大きく2つ。①北国街道ルート北国街道は、現在の上田市から埴科郡坂城町に入ります。狭隘な谷で区切られ、底部に千曲川が流れている場所で「岩鼻」です。天文17年上田原の戦いで村上軍が陣張りした場所ですが、砥石城を落とし小県郡を掌握したとはいえ、大軍が通るには不向きのルートです。②筑摩山地ルート筑摩
天下分け目の戦いと言われるのは3つある。その中の「山崎の戦い」をNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でやっていた。この古戦場には行ったことがある。天王山の山裾から東側を見ると、眼下に広い平地がずっと広がっている。ここで合計4万人ぐらいの軍勢が戦ったんだなあ、と思うと何とも感慨深い気持ちになる。この場所で1時間くらい、ぼおっと景色を見ていた。山崎の戦古戦場1km余り前方を新幹線がひっきりなしに走っている。その速さもすごいが、音もすごい。右側から左へは大阪から京都へ。左側から右
近所の図書館でこのような本を見つけまして↓県内の城跡や古戦場巡りをしていた私にとっては、『総まとめ』と言っても過言ではない内容で、非常に興味深かったです。ちなみにこの本を書かれたのは、よく歴史番組でも拝見する小和田哲男先生!特に興味深かったのは、今まで私的に謎だった沼津の長浜城跡で知った“駿河湾海戦がいつ行われたのか”がわかって、かなりスッキリしました簡単に言うと、今川義元が桶狭間で討たれて、その後武田が駿河に侵攻し、徳川家康が遠州に侵攻し始めた頃ですね。大
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第29回の紀行で山崎合戦図、山崎合戦古戦場、勝龍寺城、明智藪が出てきましたね。山崎の戦い。戦況は川を挟んだ総力戦へと発展。(小泉川)(山崎合戦図)明智方1万6000。対する4万の兵で圧倒する織田方。秀長も天王山の山裾に陣を構えたといいます。(山崎合戦古戦場)敗色濃厚となった光秀は防衛の拠点としていた勝龍寺城に逃げ込むと、秀吉たちの包囲網をくぐりぬけ、ひそかに脱出。しかし
天文19年(1550年)7月、林城を開城させた晴信は、9月に小県郡(ちいさがたぐん)の要害・村上方の砥石城攻めへと向かいます。対する村上氏の当主は村上義清。天文17年の「上田原の戦い」で武田軍が大敗を喫した、いわば宿敵でした。今回は、『川中島への不可避な道』において極めて重要な拠点となる「砥石城」にフォーカスします。■砥石城の地政学的意味砥石城は東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる抜群の立地にあります。南東には北佐久を望み、西側には神川が流れて南西で千曲川
次なる戦いの相手は小笠原長時。諏訪郡と筑摩郡の境の塩嶺塩尻峠で繰り広げられます。■小笠原氏の領域室町時代の小笠原氏のメインの領域は信濃国(特に松本盆地を中心とする筑摩郡や、飯田周辺の伊那郡)です。しかし、北信濃(長野市や千曲市周辺)は村上氏などの強力な国人が割拠しており、小笠原氏の支配は及びませんでした。そのため、彼らの実際の支配領域は「中南信地方の同盟・主従関係を軸とした緩やかな勢力圏」にとどまっていたのが実情でした。▶筑摩郡室町時代の信濃国筑摩(ちくま)郡の領域は、現在の松本市・塩尻
関ケ原古戦場記念館①2026年7月19日の日記週末むすめがやってきた。友人とお出かけした時の土産を持ってきてくれたのだ。菓子と・・これは・・ジブリパークに行ってきたんだ・・😍せっかくの3連休だから、どこか行こうか暑いから、どこかの施設だね・・条件は、混雑していない、屋内施設で、ちょっと気になっている場所??ちょっとお出かけのつもりだったが、「関ケ原古戦場記念館」に決定したようだ。片道2時間以上のドライブになるよね~💦(はい、決定権は連れとむすめです)ちょっと遠いけれ
上田原の戦いの相手は村上義清。村上氏は清和源氏の流れをくむ北信濃の名族であり鎌倉幕府の御家人でした。この時代の当主の村上義清は猛将として知られ、葛尾城(かつらおじょう)を本拠に埴科郡、高井郡、小県郡、水内郡を勢力下におさめ、村上氏の全盛期をもたらしていました。下図で示すように筑摩郡の小笠原氏とは筑摩山地、佐久郡の滋野氏とは依田川を境に接しており、支配権を争っていました。天文10年海野平戦いでは、村上義清と武田信虎は共に組んで戦いましたが、諏訪郡や佐久郡を支配し信濃に進出する晴信とは、どうにも
甲斐国の三方の憂いを無くし、北側(信濃国)に勢力を集中できる環境を整えた晴信は、いよいよ佐久郡平定に乗り出します。■年表1546年(天文15年):この年勝頼誕生5月、佐久郡前山城に入り内山城を開城、大井貞清逃げる。7月、内山城の在番を小山田昌辰に。8月、明年より信濃にて禁裏料所1万疋献上を約す。9月、諏訪上社に信濃伊奈郡内の地を寄進す。1547年(天文16年):この年に佐久郡を支配6月、甲州法度之次第を定む。8月、佐久郡桜井山城に入り志賀城を攻める。小田井
こんばんはソロモナスの賢者がなかなかクリアできない肆那樹麟ですただでさえ武器枠足りないといつも思ってるのに、初っ端メイン含めて三枠しか解除されてないとか無理ゲーでは…BLEACHコラボそっちのけで進めてるんですけど、全然わからん…ボスランダムなのがキツいですどういう編成にすればいけるんだこれは(o´・ω・`o)前途多難です今回は最近のグラブル関連まとめ記事になりますまずは古戦場の結果古戦場が終わってから、かなり時間が経っちゃいましたが今回は頑張って、十賢者のフラウを最終上限
地元・長岡京ですが歴史をテーマに巡り、いつもの道がほとんどですが旅ランにするという、強引なたてつけでいきます。こちら京都のヨーゼフです🤠本日の、テーマは明智光秀と山崎の戦い⚔️本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ち、敵討ちに羽柴秀吉がやってきた、光秀VS秀吉の戦い。まずは走って巡ります🏃6時56分31度今日はハイキングもあるのでゲルベンチャー9を履いていきます。山崎の戦いで明智光秀の本陣であったであろう場所は2つ、考えられている。まずはそのひとつ、恵解山
7月13日、湖北でプチハイキングをしました。リフトで賤ヶ岳(標高421m)に登り、徒歩で余呉湖まで降りて左周りで余呉駅まで行きました。曇りで時々小雨という天気でどうも長浜市の中心部とは天気が違ったようです。気温27度ぐらいで涼しく歩くことができました。普段、運動とは無縁なさりぃですが、ネットで調べて、さらに木ノ本駅の観光案内所でも細かなところを教えていだきました。とても助かりました。☆5つでグーグルマップにお礼の投稿をしました。ありがとうございました。観光案内所の横にあったお土
室町時代第三期:戦国時代1467年(応仁元年)~1573年(元亀4年)戦国時代の始まりは、一般的に1467年の応仁の乱ですが、関東では少し前の1455年の享徳の乱と言われています。(いきなりCheckPoint!)☑鎌倉府鎌倉府は、南北朝時代に室町幕府が関東および伊豆・甲斐の10か国を統治するために鎌倉に設置した地方行政機関です。京都の幕府から半ば独立した独自の強大な権力を持ち、長官の「鎌倉公方(かまくらくぼう)」と補佐役の「関東管領(かんとうかんれい)」によって運営されました。☑鎌
天文12年、長窪城を手に入れた晴信が次に目指したのが伊那郡(現在の上伊那地方)です。伊那郡は、奈良時代は諏訪郡として一体で存在していたと言われています。想像ですが郡司は諏訪郷から里長は伊那郷から選出されていたのではないでしょうか。高遠氏や藤沢氏は諏訪氏の分家の位置づけにあり、諏訪社の影響が強く、惣領家との関係は微妙だったのではないでしょうか。そう考えると大祝の座を簡単に諦めることができないのですね。天文13年に頼継は反攻に出ます。■第一次伊那侵攻天文13年(1544年)10月、天文
3章で「はて?」と思ったことをGoogleGeminiに聞いてみた。■天文12年の小さな大事件それは・・・晴信が長窪城を攻略しているころ日本に「鉄砲」がやってきました。日本史年表をみると大体は「1543年日本に鉄砲伝来」や詳しくても「1543年(天文12年)8月、ポルトガル商船、種子島に渡来、鉄砲伝来」くらいの書き方ですよね。でも実は、本土から離れた小さな島に起こったこの事件が、日本の戦国時代の大きな変化点だったのです。残念ながら晴信が鉄砲を知るのは、まだ先のことでした。▶伝来時の驚
翌天文12年、諏訪統一を果たした晴信が次に目指したのが佐久郡です。■海野平の回復天文10年5月海野平の戦いで滋野一族が敗れ、村上氏、諏訪氏、武田氏の3者によって小県郡と佐久郡が分割されました。7月上野国に逃げた棟綱の要請を受けた関東管領・上杉憲政は、長野業政を総大将として佐久郡へ出兵し、一気に依田川まで侵攻しました。この時、武田や村上、諏訪の連合軍と上杉方の間で和睦・交渉が行われ、記録上は「海野棟綱が海野平を回復した」とされています。しかし、この回復は極めて一時的、あるいは名目上のも
『頼重・頼高兄弟が降伏してから僅か2ヶ月後の天文11年9月10日、頼継は晴信の上原城に侵攻した』この戦いを「宮川の戦い」といいます。では何故この戦いが起こったのでしょう。(私見が入りますが紐解いてみましょう)■宮川の東西で諏訪を分割当初、諏訪侵攻にあたり頼継と晴信は「宮川を境界線とし、川の東側を武田領、西側を高遠領とする」と取り決めました。この取り決め(宮川の東西)について理解するため図にしてみました。宮川の流れについて、現在を「青点線」当時を「青実線:仮説」で書き込みました。極端で
はちす咲く無名戦士に手向くかに「雲の峰」2025年9月号青葉集掲載。「はちす」は蓮の花の事。花托の形状がハチの巣に似ていることから、この名が付けられた。2025年夏、この年3月リニューアルオープンした大阪市立美術館を訪れる。我が家のお墓が、この近くの四天王寺にあるので、墓参りもかねて訪れた。そのすぐそばに、茶臼山古戦場跡がある。ここは大坂冬の陣で徳川家康が、夏の陣で真田幸村が本陣を構えた場所。今は公園として整備されているが、隣の天王寺公園や美術館の賑わいとは対照的に、静まり返っていた。この茶
https://mahoro.crayonsite.comレイキヒーリングとヘッドマッサージのお店いやしハウスまほろ店舗の特徴である、レイキヒーリングとヘッドマッサージの、珍しいお店です。予約の電話番号とお問い合わせフォーム。mahoro.crayonsite.com*前回の続きです。温泉入浴後、道の駅を目指しました。道の駅『源平の里むれ』です。段ボールには、商品の説明などが書かれていました。この日は、梅雨時だったので、天候不良で残念ながら、野菜の入荷は少なかったです。さすが