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はい行ってきましたTICC。今回は例によって土日が仕事なので初日の金曜日ですね。お昼頃に到着したらこれまた凄い人…。しかしまあ古代は扱っているお店が少ないですし、スラブ品はお店価格でちょっと手が出る物が無いので裸コインでチラチラ物色。うーん良い物が無い。ローマ後期帝政のシリクア銀貨とか良いかなと思ったのですが、できればスラブ品が欲しいのでパス。そして金貨は…おおう、クシャン朝の金貨は100万越えですか。あっササン朝のバハラームの金貨まだありましたけどお金無いです。エジプトのアルシノエ
ローマ帝国の歴史の中で、これほど評価が揺れる皇帝は多くない。カラカラは暴君として知られる。だがそれだけで語るには、あまりにも単純すぎる人物でもある。彼の名「カラカラ」は本名ではない。彼が好んで着用し、兵士や民衆にも広めたガリア風の外套に由来する呼び名である。防寒性に優れた実用的な衣服を自ら身につけ、広く配ったその姿勢は、皇帝でありながら兵士と同じ側に立とうとする意思の表れだった。彼の父セプティミウス・セウェルスは、帝国を再統一した軍人皇帝だった。その最期はローマではなく、
週末はAWですね。私は例によって不参加ですが、アレクサンドロス大王のアテナのスタテル金貨が結構数が出ていたので欲しい方には良い機会ではないでしょうか。という事で金貨ではありませんが女神アテナ関連の話としてアテナのテトラドラクマ銀貨の話です。パンフィリア地方シデ紀元前3-2世紀テトラドラクマ銀貨AUStrike5/5Surface4/5表面はコリント式の兜を被った女神アテナ。ちょっとボンヤリ打ちの箇所もあるものの、全体の雰囲気というか図柄のまとまりは結構良い感じかなと
ドミティアヌスが暗殺されて元老院は歓喜した。そして彼の名を削り像を壊し記録抹消を決議した。その後新皇帝として推されたのが、66歳のネルウァだった。彼には軍歴も武威もない。だが長く宮廷を生き延び、極端に走らず、敵を作らない男だった。彼は強い皇帝ではなかったが、誰も怯えずに済む皇帝ではあった。即位直後、彼は粛清を止め、追放者を呼び戻し、元老院と皇帝の関係を修復する。ローマは久しぶりに、恐怖のない空気を吸った。だが、その安堵は一部のものだった。問題は軍だった。ドミティアヌスは軍団
ドミティアヌスは、歴史の中であまり幸運な皇帝ではない。彼の前には、帝国を立て直した父ウェスパシアヌスがいる。その後には、ネルウァから始まる五賢帝という理想の時代が続く。光と光のあいだに立つ皇帝は、どうしても影になる。だがその影の中に、帝国の芯がある。ドミティアヌスは15年統治した。短命でも混乱期でもない。むしろ安定期である。財政は健全に保たれ、銀貨の質は改善された。軍の給与は引き上げられ、国境は強化された。ライン川・ドナウ川戦線は堅固になり、帝国の外縁は整備された。元老院
ウェスパシアヌスが生きた時代、ローマは疲弊していた。ネロの放縦。四皇帝の年の内戦。皇帝は神でも芸術家でもなく、国家を動かす役職であるはずだった。だがその前提は、完全に壊れていた。ウェスパシアヌスは、その壊れた前提を、理念でも激情でもなく、仕事で修復した男である。彼は名門の出ではない。地方出身の実務型軍人。野心よりも責任感が先に立つ人物だった。ネロの治世下では、決して好かれる存在ではなかった。有名な逸話がある。ネロが竪琴を弾き、長大な歌を披露していた最中、ウェスパシアヌスは居
ここの所忙しくて一カ月近く放置してしまいましたが、とりあえず一つ更新しておきましょう。マケドニア王国紀元前306-283年デメトリオス1世テトラドラクマ銀貨AUStrike5/5Surface3/5FineStyle以前紹介した後に手放してしまったデメトリオス1世ポリオルケテス(攻城者)の銀貨でしたが、去年に再入手しておりました。アレクサンドロス大王死後のディアドコイ戦争での最大勢力であったアンティゴノスの息子として、ギリシア世界を勝ったり負けたりと縦横無尽に駆け回
セルウィウス・スルピキウス・ガルバは、ローマ史の中でも特異な皇帝である。彼は「帝国の中で生まれ、帝国のすべてを見て、最後に帝国に殺された男」だった。ガルバが生まれたのは紀元前3年。すでにローマは帝政に入り、アウグストゥスが支配する世界だった。彼が17歳のとき、アウグストゥスは死ぬ。「ローマを救った男」の最期を、少年として見送った世代である。続くティベリウスの治世。ガルバは17歳から40歳までを、この冷徹で倹約的な皇帝の時代に過ごす。規律、節度、軍紀、国家財政。ガルバという人物
ネロは、ローマ史上もっとも評判の悪い皇帝として知られている。だがその評判は、同時代のローマ人が作ったものではない。決定的に歪められたのは、後世、とりわけキリスト教的記憶である。即位当初のネロは、暴君ではなかった。重税を嫌い、元老院との協調を重視し、民衆からの人気も高かった。セネカやブッルスに支えられた初期政権は、むしろ穏健で、安定していたとすら言える。彼が次第に異質な皇帝になっていくのは、権力を得たからではない。孤立したからだ。母アグリッピナ、妻オクタウィア、側近たち。「止める
クラウディウスは、ローマ史上もっとも誤解された皇帝の一人である。それは能力の欠如ではない。身体と外見、そして生い立ちが、彼を「侮られる役」に追いやったからだ。幼少期のクラウディウスは、重い病に苦しんだ。正確な診断名は分からないが、現代的に見れば小児期の神経疾患、あるいは脳性麻痺に近い症状だった可能性が高い。足は不自由で、歩行はぎこちなく、手は震え、言葉は吃った。表情の制御も難しく、緊張すると顔が歪む。ローマ貴族社会において、これは致命的だった。彼は笑われ、隠され、軽んじられた。
最近、カエサルの象コインをオークションで手に入れたので紹介します。2つ入札していて、どっちか落札出来たらいいなと思っていたら両方落とせていました。■TKC017Crawford443/1デナリウス/銀貨発行者:ガイウス・ユリウス・カエサル/GaiusJuliusCaesar発行年:前49年発行地:軍営随伴造幣(カエサル遠征軍)重量:3.23gサイズ:18.7mmダイ軸(DieAxis):11h状態:GVF表銘文CAESAR「カエサル」図像(表)右
■AW第43回オークション~古代貨セッション②閉幕閉幕した🥲今回は自重したので落札なしである。入院中だからな!せめて火曜くらいに退院の確約がないと落とす気になれん。というわけで、いつものように感想を書く。・Lot3002今回私の本命はこれだった。入院中でなければねぇ。・Lot3004ヘミドラクマで100Kってすごいな。・Lot3008お値打ちなような?finestyleなのに量産期よりちょっと高いくらいだ。・Lot3042ここからの共和政デナリウスも欲しいところではあ
ユリウス・カエサルが暗殺された年の夏、ローマの空に一つの異変が現れた。前44年7月、カエサルを記念する競技会(ルディ・ウィクトリアエ・カエサリス)の最中、昼の空に彗星が現れたのである。七日間、輝き続けたその星を、人々はやがてこう呼ぶようになる。「神君カエサルの星」ローマ人にとって、これは単なる天文現象ではなかった。カエサルは神となり、天に昇った。そう信じるには、あまりにも都合の良い出来事だった。そして、この奇跡を最も冷静に、最も的確に利用したのが、オクタヴィウスである。彼はまだ十
マルクス・アントニウスは、敗者として記憶されている。だが、それは政治史の話だ。人間の物語として見たとき、彼ほど強く生き、深く愛し、そして美しく破滅した人物は、ローマ史にほとんど存在しない。彼は生粋の軍人だった。荒々しく、豪放で、感情を隠さない。兵士と酒を飲み、戦場では最前線に立ち、剣と忠誠で人を従えた。この点において、彼は誰よりも「ローマ的」だった。ユリウス・カエサルが最も信頼した部下が、アントニウスである。ガリアでも、内戦でも、彼は常にカエサルの右腕だった。だがカエサルは、彼
マルクス・ポルキウス・カトー、後に「小カトー」と呼ばれる男ほど、ローマ史において分かりやすく、そして分かり合えない人物はいない。彼は英雄ではない。軍事的天才でもない。人心を掴む雄弁家でもない。だが彼は、共和政ローマが最後に生んだ、最も純粋な人物だった。小カトーの生き方は、一言で言えば「妥協しない」ことだった。それは美徳であり、同時に致命的な欠陥でもあった。彼は大カトー(カトー・マイヨル)の曾孫にあたる。質素、禁欲、厳格、法と徳を何よりも尊ぶ一族の精神を、彼は血ではなく信仰として受
マルクス・ブルータスは、ローマ史上もっとも有名な「裏切り者」である。だが同時に、彼ほど自分を裏切らなかった男も、ほとんどいない。ブルータスの家系は、ローマ王を追放した伝説的英雄ルキウス・ユニウス・ブルトゥスに連なる。「王を憎み、自由を守る」それは彼の思想ではなく、血に刻まれた宿命だった。若きブルータスは、剣よりも書物を愛した。ストア派哲学に傾倒し、徳と義務を何よりも重んじた。彼は政治家である前に、理想の人であろうとした。皮肉なことに、そんな彼を最も寵愛したのがユリウス・カエサルで
マルクス・ブルータスが「理念の人」だとすれば、デキムス・ユニウス・ブルータス・アルビヌスは、行動の人だった。そして皮肉なことに、カエサルにとって本当に信頼していたブルータスは、マルクスではなく、アルビヌスの方だった。アルビヌス・ブルータスは、カエサルの最側近だった。ガリア戦争では副司令官として活躍し、内戦でも一貫してカエサル側に立ち、海戦ではマッシリア(マルセイユ)を攻略し、軍事・行政の両面で結果を出し続けた。カエサルは彼を高く評価していた。カエサルが独裁官となった後、自分が不在の際の
クラッススは英雄ではない。徳もなく、剣の才もなく、民衆に愛されることもなかった。彼がローマ史の中心にいた理由は、ただ一つ金である。内戦で焼け落ちたローマの街区を買い叩き、火事が起きれば消火を条件に家屋を奪い、属州経営と金融で富を積み上げた。ローマ一の大富豪。だがその富は尊敬ではなく、羨望と軽蔑を同時に集めるものだった。彼はそれを理解していた。だからこそ、執拗に軍事的名声を求めた。剣の栄光を持たなければ、ポンペイウスにも、カエサルにも並べないと知っていたからだ。第三次奴隷戦争でス
ポンペイウスは、共和政ローマ最後の時代に現れた英雄である。紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラがギリシアからイタリアへ帰還するとき、若きポンペイウスは私財を投じて軍団を編成し、スッラに合流した。彼はシキリア、さらにアフリカへと進軍し、マリウス派の残党を殲滅する決定的な役割を果たす。この功績によって、彼は25歳という史上最年少で凱旋式を許され、スッラから「マグヌス(大)」と評された。名門でもなく、正規の官職歴もない若者が、一躍ローマの英雄となった瞬間である。紀元前77年
遅くなりましたが明けましておめでとうございます。今年の最初は去年後半の予算を使い切って入手した金貨から。マケドニア王国フィリッポス2世紀元前359-336年スタテル金貨AUStrike5/5Surface4/5FineStyleアレクサンドロス大王の金貨を手にして以来、追加で何か古代ギリシアの金貨が欲しいなと思いつつ、なかなかこれと言った物に出会えなかったのと何の金貨にしようか優柔不断で決まらず、数年掛けてようやくこちらに決めてみました。やっぱりマケドニアの金貨です
スッラがミトリダテス六世と講和し、東方に一時の平和が訪れたとき、ローマは「戦争は終わった」と信じていた。だが、それは錯覚だった。スッラの後に東方を任された将軍ルキウス・リキニウス・ムレナは、講和の意味を理解していなかった。彼は宣戦布告もなくミトリダテスを挑発し、軽率な攻撃を仕掛ける。結果は惨憺たるものだった。ミトリダテスは再び軍を整え、小アジアで勢力を回復し、ローマは「勝ったはずの戦争」を失いかける。スッラが辛うじて抑えた東方は、ムレナの失策によって再び不安定へと引き戻された。この
いや…どうって言われても困りますよね。私もフランクリンミント初めてだし…。ちょっと前にフランクリンミント社のコインがセットで出品されていたので入手してみました。FranklinMintIsBack!Autographs,Coins,Jewelry,Books,&MoreShoptheofficialFranklinMintatFranklinMint.comforone-of-a-kindautographs,historicalmemor
スッラは生まれながらの英雄ではなかった。没落した名門の出で、若い頃は俳優や道化師と同じ長屋に住み、酒場や劇場を転々とし、愛人と放蕩する生活を送っていた。だが、そこにこそ彼の才能が育った。人間をよく観察し、誰がどんな欲望をもつかを見抜き、人の心の“綻び”を掴むのが異様にうまかった。ユグルタ戦争では、その洞察力が初めて戦場で輝いた。ローマが腐敗し、戦争が泥沼化していたとき、若いスッラは敵の同盟者ボッコス王と酒を酌み交わし、心を掴み、罠に誘い、ユグルタを生け捕りにした。剣ではなく“言葉と心
スキピオ・アフリカヌスの盟友としてザマの戦いに勝利をもたらしたヌミディア王マシニッサ。その一族はローマの友邦として繁栄し、北アフリカで強大な勢力を築いていた。その王家の枝葉から、ある若者が現れる。ユグルタである。彼は王ミキプサ(マシニッサの息子)の甥で、王家の“血”と戦場での才能を兼ね備えていた。ミキプサは自分の息子アドヘルバルとヒエムプサルに加え、戦で功績を立てたユグルタを評価し、三名を「共同統治者」とする遺言を残して死去した。だが、これは争いの火種でしかなかった。ヒエム
ローマの軍隊は、長いあいだ「市民の誇り」だった。自分の土地を守るために戦い、戦争が終われば畑へ戻る。しかし次第に戦場は遠くなり、遠征は長期化するようになった。長い兵役を終えて戻ってみれば畑は荒れ果て、いつしか貴族の巨大農園に追われ、土地を失う者が増えていった。市民兵はすり減り、中間層は消え、ローマ軍は弱体化し簡単な戦争にも勝てなくなっていた。そんな時代に、小さな農村から現れたのが、ガイウス・マリウスだった。彼は名門出身ではない。一門名も持たず、政治的な後ろ盾もないため、力だけでのし
たまにはコイン記事も書かんとな。Yahoo時代に記事にしたコインなのだが、記事にしたのが2016年なのだ。――――――――――――――――――――――――――――■ウェスパシアヌスのデナリウス銀貨(A.D.70)表面は、IMPCAESARVESPASIANVSAVG、ウェスパシアヌスの戴冠した右向きの顔。裏面は、COSITERTRPOT.左向きに座るパクス、オリーブの枝とカドゥケウスを持つ。※パクスパクス・ロマーナのパクス。平和と秩序の女神。※カドゥケウス伝令使
スキピオ・アエミリアヌスがカルタゴの炎を見届けてから数十年後、ローマは地中海世界の覇者となっていた。戦利品と奴隷があふれ、ローマはかつてない繁栄を手にした。しかしその繁栄の裏側で、ローマの土台が静かに崩れ始めていた。ローマの兵士はもともと、自分の畑を持つ自作農だった。春に耕し、夏に戦い、秋に収穫する。土地を持つ者だけが武器を持つ資格があり、これこそが共和国の強さだった。だが戦争が遠方へ伸びるにつれ、兵士は何年も畑を離れるようになった。祖国のために戦えば戦うほど、帰還した時には畑は荒
ザマの戦いでスキピオ・アフリカヌスはハンニバルを破り、第二次ポエニ戦争を終わらせた。だが、彼が望んだのは“カルタゴの滅亡”ではなかった。講和条約は厳しいものの、公正だった。そこにはカルタゴの名誉を残す余地すらあった。カルタゴは艦隊と海外領土を失ったが、都市は存続を許された。アフリカヌスは「勝利とは敵を滅ぼすことではなく、秩序を取り戻すこと」と信じていた。しかしローマは変わりつつあった。戦利品と奴隷で富を得た新しい世代の政治家たちは、功績よりも利益を求めるようになっていた。そして、
ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマは、西地中海の覇権を手中に収めた。だが東地中海では、依然としてマケドニア王国が強大な勢力を保っていた。この国はアレクサンドロス大王の後継国家であり、ギリシャ諸都市を支配下に置いていた。ローマとマケドニアの関係が悪化した直接の原因は、マケドニア王フィリッポス5世が第二次ポエニ戦争の最中にハンニバルと同盟を結んだことに始まる。ローマはこれを脅威と見なし、第一次マケドニア戦争(前214–205年)が起きた。以後も両者の対立は続き、第二次マケドニア戦争(前2
二人が静かに向かい合ったのは、小アジアの港町エフェソス(紀元前190年ごろ)だった。「あなたが最も偉大だと思う将軍は?」スキピオの問いに、ハンニバルは微笑んで答えた。「アレクサンドロス大王、ピュロス、そして…私だ。」スキピオは穏やかに返す。「では、あのとき私を破っていたら?」ハンニバルは一瞬黙し、そして頷いた。「そのときは、私が世界一の将軍だったろう。」互いの力を知る者だけが交わせる言葉。戦場を越えて通じ合った、二人の魂の会話だった。会談の数十年前、前218年、ハンニバルがア