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伊勢街道(参宮道)歩きは、多気郡明和町新茶屋に入りました。大きな建物です。軒がんぎ板と格子戸の風景が素敵です。擬洋風建物もありました。郵便局跡でしょうか。少し進むと右側に「三忠(擬革紙資料館)」があります。ここは櫛田川を渡ったすぐにあった、「壺屋清兵衛家跡」の記事で、擬革紙(ぎかくし)による煙草入れを紹介しましたが、その擬革紙を製造していた所です。貞享3年(1684)に油紙屋の三島屋初代堀木忠次郎が、ヨーロッパから輸入
伊勢街道(参宮道)は、多気郡明和町上野にある「安養寺」を過ぎ、明星に入ります。安養寺(上野集落)から明星集落にかけての街道筋は、「明星茶屋」と呼ばれ、参宮道を歩く旅人向けの茶屋が多く建ち並び、大変賑わっていました。この先「新茶屋」という地名があり、同様に旅籠・茶屋が建ち並んでいたそうですが、ここ明星茶屋より後にできたことから、新茶屋という地名となったという。明星集落に入るところに緩やかな坂があります。この坂は「そうめん坂」と呼ばれていて…江戸時代、この街
伊勢街道(参宮道)多気郡明和町斎宮を進みます。古民家の前面2階の一部が洋風に改変されています。ちょっと珍しい。この地区、本当に多様な建築様式の建物があります。「齊王隆子女王御墓」の石柱が建ちます。隆子女王は第43代斎王として伊勢に遣わされましたが、天延2年(974)わずか3年の在位で病死され、この道の先に葬られました。墓地(明和町馬之上)は宮内庁が管理しています。斎王制度のあった660年の間に60人余りの斎王が斎宮に遣わされ、ここで亡くなっ
斎宮跡の見学を終え…近鉄斎宮駅を右手に見ながら、伊勢街道(参宮道)に戻ります。秋葉神社と…庚申堂がありました。立派な門塀があるお屋敷です。この門、江戸時代中期の建築という。静かな街道ですが…江戸時代は、かなりの賑わいぶりだったようです。『伊勢参宮名所圖會…齊宮村・齋宮旧跡』少し進むと石垣があり、「斎宮城跡」とあります。「弘治元年(1555)野呂三郎らが徳政を求め城を築いて立て籠
斎宮(さいくう)跡をめぐります。斎宮発掘跡に、ミニチュアの建物が再現されています。「神殿」跡です。斎王や主神司(かんつかさ)が祭祀を行った場所。茅葺屋根で千木と鰹木をもつ神宮正殿の様な建物だったと推定されます。「さいくう平安の杜」には…斎王に仕えた役所である斎宮寮の中心的施設であった「寮庁」が、地下の遺構を保護したうえで、復元されています。「正殿」は、斎宮寮の長官が儀式を行う際や、都や伊勢神宮からの使いを出迎える場所だった
伊勢街道(参宮道)歩きは、街道を少し外れ、「斎宮跡」をめぐります。「斎宮(さいくう)」とは、「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王(さいおう)の宮殿と斎宮寮という役所のあったところです。「斎王」とは、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇女の中から選ばれ、伊勢に派遣されました。制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女で、この制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、60人余りの斎王の名が残されています。天皇が即位す
伊勢街道(参宮道)歩きは、松阪市を過ぎ「明和町」に入りました。「祓川橋」を渡ります。明治13年頃にはまだ仮橋で橋銭を徴収していたという。人は2厘、人力車は6厘でした。「祓川(はらいがわ)」の上流を見たところです。この川は先に記事にした「櫛田川」の分流で、曲がりくねって(蛇行)います。歴史的経緯からか、河川改修をほとんど受けおらず、「日本の重要湿地500選」の一つとされます。この先に「斎宮跡」があるのですが、その「斎王」は5月と11月の晦日に近隣の川で禊を
櫛田橋を渡り、伊勢街道(参宮道)を進みます。櫛田川の右岸に建てられていた道標がこの「早馬瀬神社」境内に移設されているというので訪ねてみます。「早馬瀬(はやまぜ)」と読むようです。地域の神明社なんでしょう。移設された道標…何とまっ二つに割られて(人為的に)います。「右げこうみち」「文化十三年櫛田川…」「庚申堂」があり、三面六臂の青面金剛像が鎮座しています。浄土宗のお寺「大乗寺」があります。お寺の境内に神社があり庚申堂が
伊勢街道(参宮道)歩き2日目は、朝6時半から朝食です。画像…エースイン松阪HPより。私はクロワッサンなどどちらかというと軽めですが、朝カレーをチョイスする方が結構多いのにびっくりです。近鉄「櫛田駅」からのスタートです。前日離脱したところに戻ります。越し方を振り返ってみたところです。進行方向を見たところです。国道を渡ると…お稲荷さんがあって…風格ある建物があります。
伊勢街道(参宮道)を進みます。格子のある町家はいですね。もはや廃屋?古刹の雰囲気のあるお寺がありましたので、訪ねてみます。浄土宗のお寺「浄林寺」とあります。境内はひっそりとしています。歴史あるお寺のようですが、由緒が良くわかりません。石仏が七体祀られていました。街道を歩いているとよく見るキリスト教の看板。「おもん茶屋跡」とあります。立派な建物が残っています。十返舎一九の『
伊勢街道(参宮道)を進みます。金剛橋を渡り…しばらく進みますと…大きな常夜燈が建ちます。町家が続きますが…町家も色々です。JR紀勢本線を踏み切ります。「徳和駅」です。当初は、初日の計画は、このあたりまでとイメージしていたのですが、実際に歩いてみると、時間的にも体調的にも、もう少し先まで歩けそうですので先に進みます。「徳和の常夜燈」…大きな常夜燈が建っています。「
松阪の町めぐりを終え、伊勢街道(参宮道)歩きに戻ります。「左さんぐう道」「右わかやま道」とあります。南伊勢が紀州藩領だったこともあるのでしょう。和歌山街道というのでしょうかね。紀伊半島を横断する道と思われます。歩いてみたい気もしますが、アクセスが…。しばらく進んで愛宕町西交差点を左に入りますと…「龍泉寺」があります。愛宕山上福院と号し、古義真言宗大覚寺派に属します。地元では「愛宕山」と呼ばれ親しまれています。「三門(三重県指定有形文化財)」
伊勢街道歩きは、松阪の町めぐりでかなりの時間を要してしまいました。松阪の中心地、伊勢街道(参宮道)沿いに日野町があります。この「日野町」という名は、天正16年蒲生氏郷が江州日野から転封となり、新たに城を築き城下町を造り、ここに近江商人を移したことからという。本陣や旅籠や豪商が店を構えていただけに、今でも松阪の中心地となっています。その一角に「新上屋跡」があります。本居宣長は、京都への遊学を終え松阪に帰った頃、賀茂真淵の『冠辞考』を読み、強い衝撃を受けたという。そ
松阪の町をめぐります。浄土宗のお寺「樹敬寺(じゅきょうじ)」を訪ねます。蒲生氏郷の松坂城築城に伴い、松ヶ島城下からこの地に移りました。墓地には…「本居宣長墓(国指定史跡)」があります。…碑面には宣長の「高岳院石上道啓居士」と妻・勝の「円明院清室恵鏡大姉」の戒名(ともに宣長自筆)を刻みます。背後に長男・春庭と妻・壱岐の墓があります。この墓地内には、先祖小津家と子孫本居家の墓碑26基が並びます。も
松阪の町をめぐります。天台真盛宗のお寺「来迎寺(らいごうじ)」を訪ねます。永正年間松ヶ島城下で創建と伝えます。蒲生氏郷松坂城築城の折り、この地を拝領し移っています。「鐘楼門」は文政4年(1821)落成。享保元年の松坂の大火で全山消失。豪商三井家などの尽力により8700両の費用をかけて再興されたという。「本堂」は、享保16年(1731)再建。この堂は複合仏堂で、前後に並ぶ外陣と内陣を取り合いで繋いでいます。内陣には阿弥陀・観音・勢至の三尊来迎像を配
松阪の町をめぐります。原田二郎旧宅の近くに「割烹料館八千代」があります。創業は大正4年という老舗です。創業時は松坂城二の丸跡にあったそうですが、昭和4年頃現在地に移っています。玄関棟など3棟が国登録有形文化財となっています。かなり南に進んだところに真宗高田派のお寺「眞臺寺」があります。「太子堂」には聖徳太子像を祀ります。昔、飯高郡神戸に保延寺という名刹があって、一体の聖徳太子像が伝わっていて、僧行基が崇敬していたと伝わり
松阪の町をめぐります。旧松坂城域に、風格ある門柱の中そして真っ赤な色に塗られた建物があります。「旧三重県立工業学校・赤壁校舎(松阪市指定有形文化財)」です。この学校は明治35年(1902)応用化学専攻の5年制工業学校として全国に先駆けて開校されました。当時は実験に使用する硫化水素の影響を受け、建物の塗料が黒変すると考えられていたため、外壁はすべて変色しない朱(硫化水銀)で塗られていました。そんなことから「赤壁」と呼ばれて親しまれてきました。この建物は明治4
松阪の町めぐりは松阪城下町をめぐります。「本居宣長ノ宮」があります。「本居宣長」を国学神として祀る神社で明治8年(1875)に建立され、大正4年(1915)に現在地に遷ります。相殿に「平田篤胤」を祀ります。歴史的経緯から氏子のいない神社です。志きしまのやまとこころを人とはばあさひににほふ山さくら花日本人である私の心は、朝日に照り輝く山桜の美しさに、ため息が出るほどその麗しさに感動する。そのような心がやまとこころなのです。
松阪の町めぐりは、旧松坂城内にある「本居宣長記念館」と「旧宅(鈴屋)」を訪ねます。㊟図は余湖君のHPよりお借りしました。「本居宣長記念館」に入ります。「本居宣長(もとおりのりなが)」は、18世紀最大の日本古典研究家で伊勢国松坂の人です。江戸店持ち木綿商小津家の家に生まれます。が商売には関心がなく宝暦2年(1752)23歳で京都に遊学。儒学そして漢方医学を学びます。宝暦7年28歳で帰郷し医院(主に内科・小児科)を開業。このころ賀茂真淵の『冠辞考』を読み影響をうけた
松阪の町めぐりは、旧松坂城内にある「松阪市立歴史民俗資料館」「小津安二郎記念館」に入ります。㊟この図は余湖君のHPよりお借りしました。この建物は明治43年(1910)皇太子の飯南郡への行啓を記念して飯南郡図書館として建設されたものです。明治45年4月開館。本館は2階建で伝統的和風の意匠で、左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成となっています。近代の伝統的和風建築の特徴を持つ建物として国登録有形文化財となっています。昭和52年(1977)図書館が
松阪の町めぐりは、「松坂城」に登城です。「大手門」があったとこを過ぎると…大きな石垣が目に入ります。「松坂城跡(国指定史跡)」です。誇らしげにそびえ立つ石垣は松阪のシンボル的存在です。春には桜や藤、夏には輝かしい新緑、秋には紅葉が石垣を彩ります。石垣は穴太衆によるものとされ、「野面積み」を主体に、隅の部分は「切りこみはぎ」「算木積み」という工法となっています。ジグザグに登りますと…「歴史民俗資料館
松阪の町をめぐります。松阪屈指の豪商、「旧長谷川治郎兵衛家」の本宅です。長谷川家は数多い江戸店(えどたな)持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功を収めました。延宝3年(1675)三代治郎兵衛正幸を創業の祖とし、後には江戸の伝馬町に5軒の出店を構える木綿商となり、総資産は15万両を数えたといわれます。日本での木綿栽培は15世紀末に始まり、三重県下では松阪や津一帯の伊勢平野で栽培されました。当地では藍染めを基調とした縞模様のブランド品「松坂縞」を生産
松阪の町をめぐります。阪内川に架かる「松阪大橋」を渡ります。「伊勢参宮名所圖會…松坂大橋」です。阪内川左岸を上流に上った魚町橋の袂、「小津与右衛門家跡」です。松阪は映画監督として名をの残した「小津安二郎」ゆかりの地でもあります。安二郎の父寅之助は、かって江戸で店を構えていた松阪商人小津与右衛門の分家小津新七家の6代当主で、本家の江戸店である深川の肥料問屋「湯淺屋」の支配人を務めていました。小津安二郎は、東京で生まれますが、
松阪の町なみをめぐります。伊勢街道進行方向と逆行しています。「旧小津清左衛門家(松阪市有形文化財)」を訪ねます。ウダツのあがる素晴らしい町家です。天正16年(1588)蒲生氏郷は新たに城と城下町を築き「松坂」と命名しました。あわせてメイン道路沿いに商人を住まわせ、自由に商売ができる制度を布きます。17世紀前期から松阪商人は江戸や京都・大阪に進出しました。18世紀後期には江戸の日本橋界隈で松阪出身者50人が店を構え、彼らは江戸では「伊勢商人」と呼ばれ、大阪商人・近
松阪の町をめぐります。伊勢街道の進行方向と逆行しています。中町和田金から伊勢街道を逆行すると、趣のある町家の隣に…「三井家発祥の地」があります。三井グループの歴史の元祖とされるのは、三井高利と呼ばれる人物です。父高俊は、この地で酒・味噌を賄い、質屋も営んでいました。元和元年(1688)高俊の末子としてこの地で生まれます。14歳で江戸で修業の後、28歳の時一旦松坂に戻り金融業に励み資産を蓄えたとされます。延宝元年(1673)52歳で江戸に出て呉服
松阪の町をめぐります。伊勢街道の進行方向と逆行しています。高野山真言宗のお寺「継松寺」です。奈良時代から続く、日本最古の厄除け観音として親しまれているお寺です。本尊に如意輪観音菩薩を安置します。曽我蕭白筆「雪山童子図」…釈迦本生譚の図…所蔵。三重県有形文化財。松阪といえば、小津安次郎が9歳から19歳までの青春期を過ごしたゆかりの地です。このお寺の隣には、「松阪座(松阪劇場)」があったこともあって、このあたりを徘徊
松阪の町をめぐります。伊勢街道の進行方向と逆行しているところがあります。曹洞宗のお寺「養泉寺」です。小津清左衛門家ゆかりの寺です。小津清左衛門は、松阪の豪商の一人で、日本有数の紙問屋(後日記事にします)として栄えました。かなり広いお寺で、手入れも行き届いています。「砂紋」も素晴らしい。寺前の道筋の町家にも歴史を感じます。2025/10/23
松阪の町をめぐります。松阪駅からのスタートですから、伊勢街道の神宮へ向かう筋道と逆行しているところがあります。浄土宗知恩院の末寺「清光寺(せいこうじ)」。天平21年(749)僧行基によって創建されたという真言宗のお寺神光寺が前身。その後荒廃し、再建されたのがこのお寺です。この山門は元禄14年(1701)建立されたものです。「松阪忠霊十三塔」…忠霊塔は戦死者の霊に対し顕彰することを表す塔で、納骨堂を備えていることが前提とか。鐘楼堂…松坂は袴付
「伊勢街道(参宮道)」歩きの再開です。伊勢街道は、東海道日永追分で別れ伊勢神宮に至る道で、その距離はおよそ18里(約70㎞)です。「♪伊勢に行きたい伊勢路がみたい。たとえ一生に一度でも」…と伊勢音頭にも唄われ、多くの人があこがれた伊勢参り。江戸時代のお陰参り(㊟)の時には、500万人近い人々が熱狂的に伊勢を目指したといいます。㊟お陰参り…江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。およそ60年周期に3回起こった。3ヶ月ぶりに松阪駅前に降り立ちました。前回は7/19「松阪祇園祭」
暑かった夏も過ぎ、あっというまに10月も下旬、秋たけなわ…というか朝晩は寒いぐらいです。夏野菜の収穫や撤収、冬野菜の畝づくり、種まき、などなどやることがいっぱいで、なかなか街道歩きに出かけることができませんでした。そんな中天気予報とにらめっこで10/23(木)~10/24(金)と1泊2日で伊勢街道(参宮街道)をあるいてきました。考えてみたら3ヶ月ぶりの街道歩きでした。今回の歩きは松阪の町めぐりをスタートに、斎宮~そして宮川を渡り、神宮近くまででした。タマネギ苗の植え付けとか