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今朝ウォーキング途中海がとても綺麗なので写真を撮った「クロード・モネ」風で良い感じだ(ソニーのデジカメピクチャーエフェクト・絵画調で撮影)画像中央に小さな島が見える広島の有名な天ぷら屋さんが所有する「津久根島」であるこの島はお隣の街に伝わる「あまんじゃく伝説」に由来する島だ詳しくはココ津久根島、広島湾に浮かぶ小さな無人島の「あまんじゃく伝説」(tabetainjya.com)あまんじゃく伝説を要約すると右と言えば左上と言えば下と人の言う事に反発する息子の性格を逆
おはようございます。天気は曇り、気温は今日も高く16.9℃です。戦国時代には様々な戦(いくさ)がありましたが、その中で一国の総大将が打ち取られた戦があります。今日はその中から3つご紹介します。まずは超有名な今川義元。駿三遠の3国の太守でしたが、織田信長の奇襲により首を上げられてしましました。マイナーですが、陶義賢のも大内氏を乗っ取って大名になりました。厳島の戦いで毛利元就に敗れ討ち死にしました。肥前の竜造寺隆信も島原半島の沖田畷の戦いで、薩摩の島津家久に敗れて
🌸陶晴賢(戦国時代)主君を殺してのしあがった⛳陶晴賢(すえはるかた)主君殺しのむくい☆「厳島の戦い」は、戦国一の壮絶な戦い*安芸の智将として名高い毛利元就*奇襲をしかけて、勝利を収めた☆陶氏は、山口県の大名大内氏の家臣の家柄*晴賢はその陶氏を若くして継ぎ、勇敢な働きによって武勲を立てた*主君の大内義隆の右腕だったが、敵対することになる☆陶晴賢は、主君の命を奪い、のちに下剋上を果たした⛳陶晴賢、主君を自害に追い込む☆晴賢、中国地方の覇者、出雲の尼子氏
鯛山観音堂広島県廿日市市大野宮島を望む厳島の戦いの戦死者四千名は厳島の対岸の廿日市、大野に埋葬したと伝わりますが、この辺りに埋まっている可能性があります。観音堂周りの石仏コンクリの建屋が観音堂石仏群観音堂近くの鯛山公園鯛山は無くなり公園に名を残すのみです。
戦国のお話ですが、皆様タイトルの漢字は読めましたか?陶晴賢(すえはるかた)本日のお題は、広島にゆかりのあるお方を厳島の合戦と共にご紹介。しばらく前から「信長の野望」のウォーキングゲーム/位置ゲームが始まりましたね。2023年12月~はなんとイベントの舞台は、「厳島の戦い」だそうです。※ちょっと前にゲームは引退しました。どんな人でも広島へ観光を考えたときに、海に建てられた赤い鳥居と神殿の宮島(厳島神社)を思い浮かぶのではない
応仁の乱で京が荒れ果てたとき、高級公卿は、こぞって「西の京山口」を目指しました。当時、多くの守護大名が在京しており、京の荒廃と運命を共にしていましたが、東の今川と西の大内は、それぞれ反対勢力との最前線にあったため、在郷しており軍事力も確保していました。応仁の乱は、細川勝元vs山名宗全で始まりますが、直ぐ行き詰まり、大内氏の大軍の到来は、戦線を大きく動かします。そんな大内氏の創始者ともいえる「大内弘世」像が、香山公園の中心に建っています。大内弘世は南北朝期の防長両国ほかの守護。後の大
さて…あまりの寒さに外出控え中です。WBCまでは、戦国史研究とか…最近、読んだ本。↓大内、毛利、大友とかとか…名著ですね。感想として…毛利はエグイなぁぁ、とも。毛利家は天下を望まず、とかとか、なんか草食系というイメージがありましたがいやいや、とてつもなく肉食系か。弘治元年/1555が厳島の戦いで、その後三年で防長を征服…永禄元年/1558から九州門司城で大友氏と激突。これが永禄五年まで続き、それと並行して永禄三年位から東部戦線にて尼子氏と激突。この東西両面作戦はスゴ
【問題】次のうち、厳島の戦いより前に起こった出来事はどちらか?【選択肢】大寧寺の変大内輝弘の乱【正解】大寧寺の変【解説】天文20年(1551)、大寧寺の変で大内家を牛耳った陶晴賢を、毛利元就が破った戦いが厳島の戦い(同24年)である。後、永禄12年(1569)には、大内家再興を画した大内輝弘の乱が起こっている。
リデル・ハートが「戦略論」の中で説く8つの原則を、一つ一つ解説しています。今回は3つ目最小予期線を選択せよです。ここからは、少しテクニカルな領域に入っていきます。最小予期線とは何か。分かりやすく言えば、相手が「まさかここは攻めてこないだろう」と顕在的・潜在的に思っているポイントです。つまり、油断してるし準備不足な地点。ここを攻めろということです。容易に突破できる(成果を得られる)。逆襲されたり、逆手を取られたりするリスクも低
訪問日:2023/1/5【場所】広島県廿日市市【築城年】1554年【築城者・改修者】大内氏、毛利元就【城郭様式】平山城【主な城主】大内氏、毛利氏【見所】①曲輪②堀切【廃城年】不明【御城印の有無・販売場所】なし【アクセス】JR宮島口駅よりフェリーで10分、宮島フェリーターミナルより徒歩3分【駐車場情報】なし【周辺観光施設】厳島神社要害山と呼ばれる標高30メートルの丘に築かれた連郭式平山城です。1555年の厳島の戦いにおいて毛利元就公が陶晴賢公を誘き寄せる為の囮とし
学生の頃、歴史の成績はいつも2でした(笑)私は過去は振り返らないタイプなので·····という言い訳は置いといて。戦国時代とか江戸幕府とか明治維新とかまぁーった〜く興味なしえ?それ常識よ?って事さえ興味ないので知りませんw私の地元は明治維新や幕末にめちゃくちゃ関係してる県なのにそんなんどうでもいいって感じで今の今まで生きてきました🤣だけど、秋に行く長崎旅行を色々調べていたら坂本龍馬氏の史跡やらが沢山えっ?坂本龍馬って何した人だっけ?こんな認識ですwwwせっかく行くのだか
【問題】厳島の戦いを前に、毛利元就が陶晴賢に仕掛けたといわれる謀略は次のうちどれか?【選択肢】美女数十人を送って骨抜きにした朝廷から朝敵討伐の勅許を受けた重臣・桂元澄に嘘の内通をさせた周辺商人を買収し塩留めを行った【正解】重臣・桂元澄に嘘の内通をさせた【解説】厳島の戦いに際し、毛利元就は陶晴賢に対して数々の謀略を仕掛けている。家臣の桂元澄には陶方に偽って内通させ、晴賢を厳島へ誘導したともいわれる。
2015年4月20日宮島の多宝塔から徒歩で5~6分ほどで弥山大本山大聖院に着きます。御成門魔尼殿が見えます。魔尼殿への石段の中央には魔尼車が魔尼車を1回まわせば般若心経を1巻読んだ功徳が得られるそうです。石段を登るときと下るとき左手で魔尼車を順に回していけば、かなり多くの功徳が得られるはずです。魔尼殿扁額魔尼殿内陣勅願堂本尊は波切不動明王です。堂内には千体不動が安置されています。また入り口階段の両側には
1555年厳島の戦い厳島ヘゴーゴーゴー厳=1ゴーゴーゴー=555イケメン君はあみパパさんに教わります。「陸上競技大会」編の始まりです。
2015年4月20日今日から1泊2日で広島旅行のツアーに参加します。羽田空港から広島空港に移動します。羽田空港滑走路にて今日は雨模様で機内からは雲の景色です。広島空港からバスで宮島口へ移動しました。JRのフェリーではなく、こちらのフェリーに乗船します。出港していきます。厳島は雨模様でぼんやりした景色です。鳥居五重塔などが見えます。JRのフェリー乗ってきたフェリー宮島桟橋港宮島合戦碑天文24年10月1
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文24年(1555年)10月…ピシッ!ピシッ!ピシッ!「主君を討って八虐を犯した逆臣である!」毛利元就(もうりもとなり)は陶晴賢(すえはるかた)の首を3度鞭で叩いた。八虐(はちぎゃく)って謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不動、大不敬、不孝、不義の8つの罪だね厳島の戦いで勝利した毛利軍は桜尾城(さくらおじょう)に凱旋し、敵将の首実検をしたのだ。元春は晴賢の首が元就の鞭に叩かれたの
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「船は…いない…」厳島の大江浦まで逃げきた陶晴賢(すえはるたか)は疲れていた。晴賢には、僅かな近習が同行していた。その中の伊香賀房明(いかがふさあき)が、房明「殿、まだ西に向かいましょう。迎えの船があるはず…」晴賢「いや…もうよい。ここまで船がいないのは毛利(もうり)に付いた村上水軍(むらかみすいぐん)が我が船団を沈めたのだろう。」陶軍の船を村上水軍が合戦開始とともに攻撃して
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男広家(ひろいえ)です。毛利(もうり)軍の奇襲で大軍の陶(すえ)軍は大混乱、兵たちは我先と逃げていた。元春の吉川隊は陶晴賢(すえはるかた)を追いかけていた。さすがの晴賢さんも陣が立て直せず逃げるしかなかったんだね「ここから先は行かさん!!」吉川隊の前に現れたのは陶軍の弘中隆包(ひろなかたかかね)とその隊であった。ガチッ!!隆包「元春!!行かさんぞ!!」元春「そなたを斬るまでだ!!隆包!!」元春と
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「出陣じゃ〜!!」天文24年(1555年)10月1日、卯の刻(6時)厳島に毛利元就(もうりもとなり)が声が上げ、一斉に鬨の声が響いた。鬨の声って戦の時に勝ち鬨や戦場で上げる声なんだ。士気を上げるため、みんなで一緒に声を上げるんだよ「おおぉ!!」毛利軍は陶(すえ)軍の背後の紅葉谷を一斉に駆け降りた。先陣は元春の吉川隊である。吉川隊は塔の岡の陶軍を見つけ、元春「陶軍見たり!
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「船を出せ〜!出航じゃ〜!」嵐の中、元春の声が響いた。天文24年(1555年)9月30日酉の刻(18時)、毛利(もうり)軍は厳島(いつくしま)に向けて出航したのだ。暴風雨で海が荒れてるのに、毛利軍は好機だと出航したんだよね毛利元就(もうりもとなり)、隆元(たかもと)、元春らの第一陣は敵に悟られないよう元就の船のみ篝火をつけ、厳島を東に回り、包ヶ浦の浜辺に上陸した。現在の厳島・
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。村上水軍(むらかみすいぐん)が毛利軍に付いた。⬆️この画像は何年か前に村上水軍博物館に行った時に撮ったものだね陶晴賢(すえはるかた)は村上水軍の船団が毛利方に向かっているのを厳島(いつくしま)から見ていた。晴賢「くそっ!村上水軍なぞ無くとも、我が水軍でこと足るわ!」同じく村上水軍の船団を見ていた陶軍の弘中隆包(ひろなかたかかね)は唖然としていた。隆包『……したかあるまい』隆
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文24年(1555年)9月21日、陶晴賢(すえはるかた)率いる2万余の軍勢は岩国を出発し、500艘の船団で厳島(いつくしま)に向かった。翌22日に陶軍は厳島に上陸した。陶軍は宮尾城(みやおじょう)が見渡せる塔の岡に本陣を置いた。※画像はお借りしました晴賢「あのような城、一捻りしてしまえ!攻めよ!」宮尾城の兵力は、わずか500。城が落ちるのは時間の問題と思われた。宮尾城の
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。岩国まで来た陶晴賢(すえはるかた)の元に1通の書状が送られて来た。晴賢「桂元澄(かつらもとずみ)から密書だと⁉︎」桂元澄元澄さんって毛利家の重臣だよねその場には弘中隆包(ひろなかたかかね)がいた。隆包「どのような内容ですか?」晴賢は密書を読み、晴賢「我らに内通したいと…。」隆包「これは…元就の謀(はかりごと)では?」晴賢「元澄は吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)を攻
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文24年(1555年)正月、元春は毛利軍が本陣を置く桜尾城(さくらおじょう)にいた。桜尾城跡(広島県廿日市市桜本町)桜尾城は海を渡った厳島に近いね元春の元にある報せが家臣の福原元正(ふくはらもとまさ)から入った。元春「尼子(あまこ)が内部争いをしていると⁉︎」元正「はい、当主の晴久(はるひさ)と尼子新宮党(しんぐうとう)の国久(くにひさ)が関係が悪化しており、晴久が新宮党を
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文23年(1554年)9月14日、毛利元就(もうりもとなり)は陶晴賢(すえはるかた)の家臣、宮川房長(みやがわふさなが)率いる陶軍を夜襲しようとしたが、陶軍が伏兵を忍ばしていたため、一旦引き下がった。蛍が人のいるところには光らなかったから、伏兵がいるってわかったんだよね元就は3人の息子、毛利隆元(もうりたかもと)、元春、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、娘婿の宍戸隆家(ししどたか
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文23年(1554年)9月…陶晴賢(すえはるかた)は石見国の吉見正頼(よしみまさより)の三本松城(さんぼんまつじょう)攻めの陣で怒っていた。三本松城跡晴賢が怒るのも無理はなかった。反旗を翻した毛利元就(もうりもとなり)の軍が周防国に侵入し、晴賢の居城、若山城(わかやまじょう)近くまで姿を見せていたからだ。晴賢さん留守の周防で陶軍と毛利軍は小競り合いをしていたんだよ晴賢は家臣
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「陶晴賢(すえはるたか)と戦う!」天文23年(1554年)5月11日、毛利元就(もうりもとなり)は安芸の国人衆に大内、陶と断交する旨を伝えた。そして12日、毛利、吉川、小早川(こばやかわ)と安芸の国人衆の軍勢3,000で出陣した。毛利家の決死の兵力だねまずは大内方の栗田肥後入道(くりたひごにゅうどう)が城番を務めている佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を攻めた。佐東銀山城跡
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文23年(1554年)1月…元春は吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に来ていた。毛利元就(もうりもとなり)、隆元(たかもと)に呼び出されていたのだ。用件は陶晴賢(すえはるたか)から石見の吉見正頼(よしみまさより)討伐への援軍要請についてだった。吉見正頼さんは大内義隆(おおうちよしたか)さんを討った晴賢さんに反抗してたんだよね元春「陶殿から出陣要請とは…毛利を試しているよう
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天文21年(1552年)7月から尼子(あまこ)勢が大内配下の備後国を攻めてきた。元春「晴久(はるひさ)め!大内の内乱につけ込んできおって!皆、怯むな!」尼子の当主、尼子詮久(あまこあきひさ)さんは天文10年(1541年)に当時、将軍・足利義晴(あしかがよしはる)さんから一字をもらって晴久に改名したんだよね尼子晴久は大内義隆(おおうちよしたか)死去後、幕府より山陰山陽8ヶ国(出雲、