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2023年8月13日今日もわたしのブログへ訪れていただいてありがとう(*´∀`)♪前回のブログにて書かせていただきました『奈良へ来ています〜(*´∀`)♪』2023年8月10日今日もわたしのブログへ訪れていただいてありがとう(*´∀`)♪今日(8月10日)から奈良に来ていますそれは3月から毎月シンギ…ameblo.jp安倍文殊院へ行って来ましたあ、その前に前回ブログを書いた日はこんな「虹」を見ることができました翌日の朝食会場にあ
日本古代史において、大陸の国家と結びついたのは、紀元前200年頃から倭ないし倭人が前漢王朝へ貢物を献上してた頃に始まります。西暦57年、博多湾周辺に勢力を伸ばしていた倭奴国の首長が、後漢の光武帝から金印(漢委奴国王印)を授与されています。5世紀全般の古墳時代中期に、倭の五王が晋、宋、斉などの南朝に遣使を送っています(遣宋使)。第33代天皇、推古天皇が593年1月15日に即位し、日本史上最初の女帝となりました
令和5年7月31日第185回目聖徳太子の12階位説推古帝は厩戸皇子に馬子の了解を得て、皇太子の地位を与え、摂政として天皇に次ぐ地位に就かせました。馬子にも異論はなく推古女帝と敏達帝の間に生まれた竹田皇子の命を縮めたのは自分でまだ13才の厩戸皇子を守るよう竹田皇子に頼んだことによって皇子が自分の命を懸けて厩戸皇子を守り抜いた結果が天才の聖徳太子をこの世に出したと考えていました。馬子は推古女帝の心の内をも読み取っていて「お上に申し上げたいのは厩戸皇子を皇
令和5年7月29日第183回目朝廷内の序列を定める意見馬子は、かって自分の力になってくれた少年が少し大人びていたが、今は若き貴人の風格のある厩戸皇子を好ましくも頼もしくもある思いで皇子の発言を待っていました。皇子は大后と大臣とを均等に見ながら「私如き若輩者をお引き立て頂き誠に有り難く、慎んで御礼申し上げます。」とご前にひれ伏して述べ続いて「私は蘇我家とは深い関係にあって、先進の大陸、朝鮮諸国より、文物によって様々な学問、知識、智慧が入って参ります。先進
令和5年7月28日第182回目三人体勢の下地作り馬子にとって厩戸皇子と会うのは5年ぶり否それ以上時間が経過していました。自分に力を貸してくれた13才の年若き皇子はすっかり大人びていました。幼い頃の面影もなくなるほど逞しくなっていました。馬子は心の中であれから5年以上は経っているからもう19才は越えているはずと年勘定をしていました。皇子の身長は馬子を越えていますが、さすがにまだ細身で白面の貴公子ではありました。額田部大后は百済くだらから贈られた螺鈿細工らでん
令和5年7月27日第181回目厩戸皇子(うまやどのみこ)を推挙する大后と会見後、数日を経て、馬子にお召しがありました。「大臣おおおみの言を良く良く考えて見ました。そこで相談ですが、皇太子に厩戸皇子を立てて太子に内政を担当してもらい、私と大臣が貴族、豪族達の管理と外交をやって行けば女性の私であってもやっていけるかもしれません。大臣にとっては厩戸皇子はまだ若年で力不足と思われるかもしれませんが、私の見たところ皇子にはこれといった欠点がなく、仏教や景教にも精通し
「人生」めんどくせ~(43)★ウクライナ侵攻、果たして戦後に両国に残るのは何か?何万人という戦死者(夫・息子・一般民衆)壊滅的に破壊された都市・農耕地・インフラ国際社会から失った信頼何一つ得るものは無い。残るのは憎しみ◆聖徳太子の生い立ち馬子は七月に入ると、諸皇子及び群臣に呼びかけ守屋討滅の軍を起こすことを謀った。○皇子として泊瀨部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・春日皇子の五名の名があげられる。▲王族以外では、紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀陀夫・葛城臣烏那羅の名が上がっている
令和5年7月17日第171回目厩戸皇子の活躍厩戸皇子は馬子に無理にせがんで白の装束に銀製の鎧よろいを着け、意図的に目立つようにして矢を自分に射掛けさせるように仕向けました。物部軍の射手達はやっきになって皇子を射殺そうと矢を放ちますが、皇子を守る舎人とねりの前でことごとく矢が落ちて皇子の足元にさえ届きませんでした。豪弓をあやつる弓の名手の矢も同じでした。皇子は心の中で、これが四天王様の御加護に他ならないと合点がいきました。皇子の脇にいた迹見赤檮とみのいちい
「人生」めんどくせ~(42)★今年の5月安倍元首相の念願であった、憲法改正を目指す集会にメデイアが潜入しその実態を映像に捉えていた。正面には中曽根氏と安倍氏の顔写真。来賓には自・公・維新・国民の首脳が顔を揃えていた。その会場ではっきりしたのは、いまだに統一教会の代表者など、動員がかけられ出席している。そして会場の設営まで関わっていた。岸田「統一教会との関係は絶つ」この男のウソは本当に罪深い。どこまで国民をこけにするのか。◆聖徳太子の生い立ち太子のもとの名は厩戸皇子といい「元興寺縁
織田信長は戦国武将の中ではそこそこ背が高く、170センチほどだったという。お市はさらに大きくて、175センチほどだったそうだ。完全なモデル体型だったと思われる。信長は幼少期より鍛錬を重ねて筋骨隆々だったせいで、それほど背が伸びなかったみたいだ。浅井長政は180センチ以上だったと言われ、さぞお市とは釣り合ったカップルだったであろう。ところで、何話だったか忘れたが、信長が上洛したような回があったのだが、オレの勘違いだったようで、どうもこれから上洛の段取りになっているらしい。信長にとってこれは
令和5年7月16日第170回目厩戸皇子、四天王像を彫る香木である白檀びゃくだんは霊木でもありますし、仏像には理想的な木材です。厩戸皇子は喜び勇んで声を上げると同時に馬子に対して「さすが大臣でなければ手に入らぬ珍材です。ありがとうございます。」のもの言いに馬子は内心末恐ろしい若者、しかも我が血を色濃く受け継ぐ者と、戦場にもかかわらず頬が弛みました。皇子は夜を徹して四天王を掘り上げました。四天王とは東方の持国天、西方の広目天、南方の増長天、北方の多聞天
令和5年7月15日第169回目厩戸皇子登場!馬子が自軍の各陣の見回りを終わって本陣に帰って来て、そこに見たのは厩戸皇子うまやどみこが結跏趺坐けっかふざを組んで静かに瞑想している姿でした。馬子は思わず息をのみ暫くは皇子を眺めていました。そこには13才の若き皇子ではなく、光り輝く釈迦如来でした。厩戸皇子が人の気配で気付き目をあけ「大臣おおおみ、お戻りでしたか。私は今不思議な体験を致しました。多分私の守護神様だったと思いますが、お出ましになって申されるにはー
令和5年7月14日第168回目戦さ神出現か?又は…。蘇我、物部の両軍が膠着こうちゃく状態になり、睨み合いになって蘇我軍に緩みが出たところを守屋は見逃さず作戦通り馬子の本陣に向かってまっしぐらに突っ込んで行きました。馬子の旗本と皇子達は少し小高い場所に陣取っていて、まさかここまで突出して来るとは予測していませんでした。ふいを突かれた馬子側は防戦一方になりました。額田部皇后の長男竹田皇子は年下の弟分である厩戸皇子うまやどみこを庇かばいながら必死に闘い、重傷を
皆さま、こんばんはです^-^⭐️UE(アルティメット・エナジェティクス/究極のエネルギー学)という生命エネルギーを自在にコントロール次元上昇と共に人類が変容していくためのエネルギーワークで『本当の自分を楽しく軽やかに生きていく』をサポートします✨✨UEの魔法使いヒーラー⭐Starseedナナ♡でーす💕💕UE創始者大原彩奨先生ブログ大原彩奨『『統合』の前にクリアリングです❤️』こんにちは❣️⚜️あなたの潜在能力を解放し、本来の輝きを発揮させるプロフェ
令和5年7月12日第166回目馬子は厩戸皇子等を伴って出陣!馬子は一族の中で最も希望を持って将来を期待していたのは用明天皇と穴穂部間人あなほべはしひと皇女の間に生まれた厩戸皇子うまやどのみこでした。後の聖徳太子です。馬子は自分の持っている才能の全てが厩戸皇子に伝わっていてしかも父帝よりもはるかに健康に恵まれ、しかも自分にはない不思議な能力を持っていると見ていました。この皇子に国の未来を委ねれば間違いなしと想っていました。厩戸皇子13才の初陣ういじんで
お客様に教えて頂いた櫛。ラブクロムとかすだけで髪がまとまるサラツヤ髪へ美髪になる!!芸能人が使ってるそうで色も形も用途で数種類あります!純金も、、!!私はシルバーの持ち手ナシインバス。抗菌、濡髪持ち運び便利!一番の目的はトリートメント時使用![公式]ラブクロムFツキシルバー美髪コームくしクシLOVECHROMEFTSUKISILVER持ち運びに便利ヘアケアとかすだけでサラツヤ髪へダメージヘアプロも愛用おすすめプレ
令和5年7月11日第165回目蘇我軍、物部一族の本拠地に向かって進軍用明天皇が病に倒れ、なかなか回復の徴候が見えず、朝廷内には絶望感が漂っていました。馬子は幼少の頃から池辺皇子を親しく近い関係で見て来ました。胸の内ではなんとかもう一度元気な姿になってもらいたいとの想いはあっても大臣という立場は次の天皇を決めなければなりません。馬子は当然の如く蘇我系の皇子を次の天皇にと、姉の蘇我小姉の君と欽明天皇の間に生まれた泊瀬部皇子はつせべのみこを推しました。これに
聖徳太子(1)聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は、後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大...nyabecch.blogspot.com聖徳太子(1)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
「第1回目の遣隋使(3)」で終わったつもりだったんです。本当に。でも、追加で補足したいことがあったんです。それは清水書院の教科書です。600年の遣隋使史料である『隋書』について、日本側にとってあまり好ましくない部分もきちんと引用していた教科書として、実教出版と東京書籍を挙げました。しかし、清水書院『高等学校日本史探究』(R4検定)も、追加で紹介したいと思いました。清水書院は『隋書』の引用は不十分です。それは山川などと同じ。肝心な部分が省略されてる。でも、本文の中
今回のテーマ、第1回目の遣隋使について、最後に一言、言いたくなりました。600年の第1回目の遣隋使は、隋に行ってバカにされてましたね。「ぷぷ、それが政治?おーい、誰かこいつに政治について教えてやって!」こんな風に皇帝に言われちゃったわけ。使者は、恥ずかしかっただろうなと思う。それを伝え聞いた、厩戸(聖徳太子)・蘇我・推古らは、憤ったかもしれない。でも、彼らは「冠位十二階の制」と「憲法十七条」を作って、再び隋に挑んだ。すごいと思うよ。恥や怒りを抑え、そして何よ
読みやすく面白い本でした国史である六国史(日本書紀、続日本後紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)が成立する前にはどんな本が存在し六国史へつながったのかまずは『帝紀・旧辞』(共に現存していないが引用されている文献から推論できる)『帝紀』は天皇の系譜稲荷山古墳の鉄剣には古墳主のヲワケとワカタケル(雄略)の文字雄略朝(5世紀後半)には大王家の系譜ができ文字化されていたのではと(通説では欽明朝)『旧辞』は天皇の系譜と神話白雉5年(
当ブログに起こし頂きありがとうございます!今回からブログの趣向を変えて、日本の(歴史や人物など)都市伝説のお話をご紹介していきたいと思います。1回目は、聖徳太子(厩戸皇子)の都市伝説についてのお話です。聖徳太子(厩戸皇子)は実在したのか聖徳太子が実在したという証拠は以下のようなものが挙げられます。聖徳太子のモデルとなる人物である厩戸王(うまやとおう)は、日本書紀などの史料に記録されており、飛鳥時代の政治家であったことが確かで、聖徳太子が著したとされる三経義疏(さんぎ
大阪府南河内郡太子町太子にある聖徳太子墓。聖徳太子は第31代用明天皇皇子、第33代推古天皇皇太子です。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。■叡福寺724年(神亀元年)聖武天皇勅願により創建。叡福寺南大門の真正面に見えるのが、聖徳太子御廟。南大門の中央線上にあるのは叡福寺本堂ではなく、御廟です。陵名:磯長墓[しながのはか]陵形:円形、楕円形、円墳別称:聖徳太子御廟、太子廟、三骨一廟、磯長御廟、聖徳太子墓、厩戸皇子墓考古学的にも被葬者
一番好きな漫画といえば私は山岸凉子〔日出処の天子〕と答えます。80年代に月刊LALAに連載されていて毎号読んでいました。ただ、ラストはモヤモヤ感が残りましたが...飛鳥時代に栄華を誇った蘇我氏の御曹司の蝦夷。と、若き聖徳太子を描いた厩戸皇子。この王子の美しさにゾクゾクッ感がありました。その美しさ故に、皆を虜にして近づき、用がなくなれば切る。すべては思うがままに進んで行くストーリーだが、肝心の蝦夷には思い通りにならないから逆に興味を示す。女性には興味を示さない、指一本触れない一
B099【聖徳太子との歓談】実は霊能者だった?阿山>聖徳太子は日本人ですか?ユダヤ、ペルシャ人とかのハーフでは?聖徳太子>日本で生まれてますただ多言語というかチャネリングで沢山のことが聞くことができたので人はそう思ったかもしれません阿山>チャネラーだったですか?聖徳太子>そのとおり巫女>この人の中にいろんな人の言葉を話しすることができた霊的なメッセンジャーとしての役割があったたくさんの人を同時に聞けたとい
藤ノ木古墳の見学会の後に、法隆寺に行きました。5、6年ぶりくらいでしょうか。かの「日出処の天子」の舞台になった場所ですが、なぜか私にはしっくり馴染まないお寺なのです。あんまり行かないからかな。家から近いのに。この日はどんよりと小雨で、寂しい雰囲気でした。この真ん中の柱が、梅原猛が言うところの「怨霊封じ込めの柱」ですね。朱塗りじゃないからかもしれませんが、同じ太子信仰でも四天王寺とはかなり雰囲気が違います。この、右に見えるのがさっきの「怨霊封じの柱」。金堂です。金
学びというと確かな物を得られる気がするかもしれない。でも、ぼくは、不確かな物だと思ってしまった。聖徳太子は何人いたのだろうか?歴史の教科書では一人になっているけど、厩戸皇子と言った瞬間にお伽噺が始まってしまう。ぼくの主観だけど、聖徳太子は日本の言霊だ。和を以て尊しと為す神道を軸として、仏教を受け入れ、キリストの支配を避けながらも娯楽レベルで受け入れた自然を重んじるのは当たり前な神域吉田松陰先生の実績が凄すぎるのだけれど返って気づきづらいものかな目に
▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう憲法(いつくしきのりと)十七条(とをあまりななをち)一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)を有、また達(さと)れる者は少なし。是を以って或るは君父に順(したがわ)ず、また隣里(りんり)に違う。然れども、上和(やわら)ぎ下睦(むつび)て事を論(あげつら)うに諧(かな)うときはすなわち事理自ずから通ず。何事か成らざらん。推古天皇12(西暦604)年の厩戸皇子が公布したと言われる十七条
今日は昨日の天気が嘘のような、晴天青空が眩しい今日は橘寺さんの聖徳太子ゆかりの橘寺へようこそ!-tachibanadera-asukaのJimdoページ(jimdofree.com)聖徳太子春季御会式ですコロナで3年間取りやめになっていた、百味飲食(おんじき)13時からお会式が始まるのですが…しか~し、大遅刻…(いろいろあるんですよ)ですので、なにも画像がありません気を取り直して…百味飲食(おんじき)聖徳太子遺徳を偲び、徳を讃え、報恩謝徳の思いを持って追善供養を行
思いっきり遅れて行った2日目この日は11時献茶式14時柴燈大護摩厳修とお餅まき先日から12日は雨、やんだら黄砂とTVで大騒ぎの日斑鳩町を出るときは、太子町方面は厚い雲(真っ白)心配をしながら、遅れているのでとりあえず車でGO!途中土砂降りでしたが、叡福寺についたら雨は降っていない様子…話によると会が始まる前まで、雨が降っていたそうですやばい。風下…移動陣の中に入って、お焚きに参加退陣お疲れ様でした片付け中お餅まきその