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*11月16日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは寛文伊達騒動です。本日がシリーズ最終回、酒井邸事件のおはなし。あんみつ「先生、寛文九年(1669)二月、仙台藩内の涌谷22600石領主・伊達安芸宗重は、登米(とめ)12000石領主・伊達式部宗倫との領分境目を巡る訴訟を藩本庁に起こしました。領内お百姓同士の諍いが深刻だし、これを機として藩政を牛耳る伊達兵部宗勝への揺さ
*11月9日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは寛文伊達騒動です。本日は、伊東七十郎壮烈のおはなし。あんみつ「先生、寛文七年(1667)四月、幕府からの使者を饗応する場で、着座衆を差し置いて目付役が上座になる小事件が発生。家格無視に激怒した伊東七十郎は、奉行(家老)の原田甲斐に談判します。直接、藩の禄を食んでいない七十郎に失うものはないので、相当強い論難だったようです
今日の午前中は町内会の会議に参加。ご高齢になった方が班長を受けられないなどで、町内会から抜けられる方がいらしたり、悩ましい。午後は、東北大の学生と面談。震災後の沿岸部について、私が知っている限りのお話をする。写真は昨日、立ち寄った登米市東和町米谷の東陽寺の大銀杏。伊達騒動の中心人物の原田甲斐(宗輔)の首が密にこの大銀杏の元に埋められたと、伝えられている。
*11月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは寛文伊達騒動です。本日は、置毒一件存疑のおはなし。あんみつ「先生、寛文五年(1665)十二月、元小姓頭の里見十左衛門は、仙台藩後見役・伊達兵部宗勝に対し、藩政について痛烈に批判する意見書を提出しました。兵部が任じた渡辺金兵衛・今村善太夫・横山弥次右衛門の目付役3人が、兵部の意を汲んでスパイ政治を敷き、藩士がすっかり委縮し
*10月26日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは寛文伊達騒動です。本日は、伊達兵部と原田甲斐のおはなし。あんみつ「先生、寛文三年(1663)五月、仙台藩の慢性的な財政難に加え、手伝い普請の費用50万両を捻出するのに苦労していた筆頭奉行(家老)・奥山大学は、総家中に加役(臨時課税)を申し出ることにし、伊達兵部(政宗末子)・田村右京(政宗孫)・立花忠茂(政宗孫婿,柳川藩
R大学文学部史学科の院生・あんみつ君は、後期講義に入ってからは12月下旬の卒論提出期限に向けて、学部生の相談を受けることが多くなってきました。今日も論文テーマのフィードバックを終え、ぜんざい教授と学食でおやつタイムです......🍨あんみつ「いや~~~、10月だというのに、朝夕はともかく、まだまだ日中は暑いですねぇ。まさかまだアイスが手放させないとは思いませんでした。今年ほど気候変動を実感した夏はないですよぉ。もう来年がコワい。。。」ぜんざい「
週末に本屋に行ったが特に収穫はなし😞「岳飛伝」を引き続きだが、明日から違う作品にしようかな?本日は山本周五郎先生「樅ノ木は残った」。最初に読んだのが高校生の時。その時はいまいち??な感じで終わってしまったのが、大学生になってから読み直したら、主人公原田甲斐の行動・思考が全てラストへ繋がっていく物語に感動😭この小説は読み返すたびに新しい発見があると思う。まあ、何も言わなくても名作ですね。
「短歌でダンス?💃」(1255)樅ノ木は守り抜いたよ仙台の伊達騒動は見事な腹よ※モミの
また、不思議な出来事。最近、別次元とこの世界の境界がますます薄くなっていると感じます。そんな不思議な体験が「わかりやすく」起きている。夢や複数の人を通してきたり、数字だったり。でも、その意味が何かを考えても、答えがあるわけでなし。ひたすら、記録係をする。体験を通して。ああ、そうだった、道教の祖、老子も王室書の「記録管」をしていたんだと。(弟子にして~~)さて、いつ頃かをはっきり覚えていないのですが、2週間くらい前かな。内容はないんだけど、大きな馬が
去年10月に、伊達騒動研究会に参加して登米市東和町米谷(まいや)の亀松山東陽寺を訪ね、原田甲斐の首塚、寺宝を見学して来ました。寛文11年(1671年)3月27日、大老酒井雅楽頭邸で証定が開かれ、原田甲斐が訴人である伊達安芸を斬り、柴田外記や酒井の家臣等と斬り合い斬死し、柴田外記も間もなく絶命しました。甲斐の死骸は芝の良源院に運ばれ、家臣が甲斐の首を持って急ぎ船岡の東陽寺に埋葬しました。それから12年後の天和元年(1681年)の柴田家の牌寺の大光寺と入れ代って、東陽寺が米谷に移転を命じられた
(第七甲州街道踏切)旧甲州街道の旅は、中央本線初狩駅手前の第七甲州街道踏切からはじめます。猿橋と大月の間に、第五甲州街道踏切があって、今回が「第七」ということは、あそこからここまでの間に第六甲州街道踏切があったはずです。しかし、大月駅のすぐ西で線路を越えたときは、富士急線ともども掘割の上に架かった橋でした。そうやって振り返ってみると、前回ご紹介した上花咲宿の先、三軒屋交差点を国道から左折して今は行き止まりになっている、以前はそこで線路を踏切で渡り、中央本線の南側に沿って西へ向かい、線路や
島原の乱は切支丹ではない日本岩窟王・怨念の天皇人皇百十一代後西天皇島原の乱は伊達騒動に繋がる「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知らず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。同心松田兵右衛門に侍八人相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたてるときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」というのが発端で
4月の初め、桜で有名な石巻の旭山に20年ぶりで行ってみた。旭山観音堂、頂上の神社を参拝して、東松島市内全体を見ることが出来た。その帰り、旭山の鳥居から数メーター先の左側に「重孝神社」と説明板があったので車を止めた。案内板は塗料が剥げて文字が読めないので、直接田圃のあぜ道を通って行ったら、小丘の上に神社が有り、大分痛んでおりました。神社の横に碑が有り、1930(昭和5)年創建され、その伊東七十郎の霊が祀られていました。伊東七十郎は、政宗に仕えた名将伊東肥前重信の孫にあたり、伊達騒動(寬文事件)の
4月16日、仙台東照宮で遷座370年を祝う大祭が挙行され、神輿行列、子供神輿、稚児行列が境内から北六番丁小までの間を往復し、大勢の見物人が駆けつけ賑やかでありました。日光東照宮には、各藩が幕府への忠誠の証として寄進した石灯籠が並び立っていて、中でも石段に最も近い場所に、伊達政宗がポルトガル産の鉄で鋳造した「南蛮鉄灯籠」が在り、他の大名の奉献した石灯籠とは大きく異なっておりました。仙台東照宮は日光東照宮より分霊され、この地は、1591(天正19)年、葛西・大崎一揆の鎮圧のため、督戦にあたった
先週は登米市へ。原田甲斐ゆかりのお寺へ行ってきました。仙台藩で起こった「伊達騒動」で有名な原田甲斐。山本周五郎著『樅ノ木は残った』(※樅ノ木:もみのき)は、「伊達騒動」を題材にした歴史小説。1970年には大河ドラマ化もされたそうです。先月訪れた、柴田町の円龍寺も原田甲斐ゆかりのお寺でした。(関連する過去記事⇒「宮城県柴田町①円龍寺親切なご住職原田甲斐(伊達騒動)」)東陽寺(宮城県登米市東和町米谷越路83)お寺のワンちゃ
仙台藩で起こった「伊達騒動」で有名な原田甲斐。山本周五郎著『樅ノ木は残った』(※樅ノ木:もみのき)は、「伊達騒動」を題材にした歴史小説。1970年には大河ドラマ化もされたそうです。私が住んでいる名取市。伊達騒動後、原田家の家臣たちが名取市飯野坂・植松地区に移され、侍から百姓への身分変更。主君を慕い「花もも」を植栽したと言われていて、この「花もも」は、名取市の花に制定されています。原田甲斐と父・原田宗資ゆかりのお寺に、先週行ってきました。円龍寺(宮城県柴田郡柴田町入間
ようこそインターネットステーション泉中央へ、このブログは、私こと源住泰(ペンネーム)個人の趣味のページです。今回も前回の続きで、4/2にたちよりました、宮城県柴田郡柴田町のしばた桜まつり2023の話題の第3回目(ラスト)、伊達家のお家騒動(寛文事件)にスポットをあててみたいと思います。伊達家のお家騒動に関しては、宮城県民の多くが聞いたことが、あるかと思いますが、簡単に申し上げれば、伊達家の幼い4代目の藩主、亀千代(後の綱村)の後見役だった伊達兵部と、その
伊達政宗と支倉常長伊達騒動の真因は何だろう。この解明は「天正八年、スペインのフエリッペ二世によって開発された南米チリー鉱山の新硝石が起因」と思推される。以前NHKの「樅の木は残った」が放映されていたが、この謎解きには触れず人情物に終始していた。だが第六回では「なにがし様」という芥川比呂志演ずる人物を作りだし、海外問題にふれていた。原作者は此処をもっと掘り下げるべきだったのに惜しい。と言うのは日本の歴史は天文12年に「鉄砲伝来」とは明確だが、鉄砲に絶対必要な火薬のこと
今日の午前中は仙台市内を回る。その後、登米市へ。途中、東陽寺に立ち寄る。ここには、「原田甲斐の首塚」がある。寛文事件で、原田家は断絶。宗輔の首は密かに江戸から、船岡に運ばれ、東陽時の裏手に埋められた。その後、東陽寺が船岡から今の登米市米谷に移築する時に掘り起こされ、大銀杏の木の下に改めて埋葬された。現在、大銀杏の下に首塚がある。家臣から慕われていたのだと、思う。
「赤西蠣太」(あかにしかきた)「赤西蠣太」全編1936年6月18日公開。伊達騒動を下敷きにした志賀直哉の時代劇小説を映画化。片岡千恵蔵の一人二役。ランキング:1936年:「キネマ旬報ベストテン」(キネ旬発表)第5位1959年:「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」(キネ旬発表)第19位1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第17位1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋
万世町牛森の山林内に原田館はあります西南には住宅地が建ち館跡のすぐ近くまで開発が行われていますが館の周辺だけは耕作地が残ります遺構状態もよく縄張りは理解できますが土塁は低く、堀も浅く幅がありません関東の城館を数多く見てきた私にとっては違和感のない縄張りと遺構の残り具合でした※凹凸があまりないので満足感を得られる人は少ないかもしれませんこの館で私が注目した点は立地で館の周辺が湿地帯となっている点ですとくに東側は人の手が入っていないと思われる湿地でした雪解けの伏流水が湧水と
神山藩の領地は、海坂藩に近いのかと思ったが、筑前の秋月藩のほうが近いように思われる。黛新三郎殿は黒沢家の婿養子となり舅殿の跡を継ぎ大目付黒沢織部正となったので仙台藩の原田甲斐殿のような人生を送るのだろうと予想していたが・・・・しかし、神山藩は花が綺麗なところだ蛍袋の花、萩の花、桔梗、百日紅、竜胆、水仙、金木犀たくさんの花が咲き、季節の移り変わり、その風景が浮かんでくる。素晴らしいところだ。「兄弟とは、しんそこ厄介なものだ」「妙なところばかり似る」
いつでも護られているあなたへ。『地に足の着いたスピリチュアル』提唱者115白龍光龍太幸・島垣由希子です🐉いつもありがとうございます‼️昨日は、金曜日からの流れで鹽竈神社へお参りして来ました。金曜日の出来事。『これからのヒントは『過去世』にあり?』いつでも護られているあなたへ。『地に足の着いたスピリチュアル』提唱者115白龍光龍太幸・島垣由希子です🐉いつもありがとうございます‼️昨日、名取熊野三社の…ameblo.jp仙台藩4代藩主の伊達綱村公は鹽竈の礎を築いたお方なのですね
伊達騒動(寛文事件)でよく知られている原田甲斐が伊達安芸を殺害したのが時の大老酒井雅楽守の屋敷と言われています。その屋敷跡が千代田区東京駅の近くにあります。江戸城の目と鼻の先ですね。東京駅からも歩いて行ける場所でないかと!現在はあの平将門の首塚になっています。なおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【伊達騒動原田甲斐が暴挙した酒井家東京都千代田区】を参照願います。
※2021年3月29日訪問※仙台市青葉区の【功徳山荘巖寺】さんを訪れました荘厳寺さんを訪れると参道入口に重厚な門を見る事が出来ますこの門は、小説《樅ノ木は残った》で有名な、仙台藩家老・原田甲斐の屋敷門を移築した物と伝えられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼荘厳寺山門は,三間一戸の薬医門で切妻造,本瓦葺の堂々たる門である。江戸時代初期の上級武家門として数少ない遺構である。寛文事件で知られる,仙台藩家老原田甲斐宗輔の,片平丁にあった屋敷門を移築したものと伝えられ,
宮城県の桜も3月中に満開桜の名所船岡城址公園を散策🤗🌸🌸すでに、百花繚乱(3月31日に撮影)さくらの里で、カツカレーを食べてきましたちなみに、宮城県は緊急事態宣言に伴い、さくらの里での飲食は4月1日~11日まで休業するらしく13日から再開予定とのことです⬆ファンキーなワンちゃんがお花見に来てました仙台駅でよく見かけるおじさんとワンちゃんに船岡城址でも会えたなんてハッピーなご縁ボケーッとお花見をしていたら、花を植えている実行委員会のおじさんに声をかけられて、
「清らかな山の気を吸い、自然の生り物を食べ、手足を伸ばして寝、おのれの生死について考える必要もない、これが人間の生活ではないか。」山本周五郎著「ながい坂」上巻よりこんな生活をすることが出来る環境を持っているのになぜ出来なくなってしまったのだろうか。「樅の木は残った」の中で原田甲斐殿は組織を守るために生きそして死んだ、三浦主水正殿は自分の信念のために生きようとしている。どうやら、人生の坂道はまだ長く続くようだ。
「意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の目にも壮烈にみえるだろう。しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」原田甲斐は矢崎舎人を見た。舎人は両手を膝に突いて、深く頭を垂れていた。山本周五郎著「樅の木は残った」下巻より
「死ぬことはなんでもない、なん年もまえから、こんどこそ死ぬだろう、という峠を幾たびも越して来た。死ぬ覚悟はできているが、やりたいと思ったことを、やらずに死ぬのがこころ残りだ、どんなにこころ残りか、わかってくれるだろう。」「誰にしても、やりたいことを全部やって、こころ残りなしに死ぬ、というわけにはいくまいと思う。」と原田甲斐が穏やかに、ゆっくりと云った。山本周五郎著「樅の木は残った」下巻よりそうだ、私も死ぬ前にやりたいことがたくさんある、しかし、そ
伊達騒動の真因伊達騒動は以前NHKでも「樅の木は残った」で放映された。これまでの説では伊達安芸と兵部の党派争いとするのが、最も新しく正しいものとされているが、安芸は伊達領内で二万二千石の大禄をはんでいた。それが谷地十町歩位の境界争いで己が江戸表へ訴え出たのでは、一つ間違えば二万二千石さえ失いかねないのだから、それは冒険にすぎはしまいかと考えられる。そして、「今でも、うちの会社は脱税していると投書したり、公にする者がないではないが、それらは会社をやめさせられた腹いせか