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山岡美智子さんの人生の転機となったのは、1955年にケロイドの手術でアメリカに渡り1年半のホームステイをしたことだった。美智子さんは手術で手の指が動くようになり、顔や首のケロイドも見違えるように良くなったが、それ以上に多くの人とのふれあいの中で心の傷を癒すことができたのだ。それはケロイドの手術で一緒にアメリカに行った他の女性たちも同じだった。広島女子商2年生の時に被爆した和田雅子さんの手記には、各家庭で「被爆者としてではなく一人の人間として受け入れられ」、「顔の傷は残ったけれど、心のヤケド
1945年9月からGHQが放射能についての報道をシャットアウトしたため、それ以後世間では不思議な死に方をしても「原爆症」との関わりが表立って問われることはなかった。戦後10年、全国でいったいどれだけの人が原爆による白血病やガンで亡くなったか、確かな数字は掴みようがない。広島で外科医をしていた原田東岷さんが白血病患者に初めて出会ったのは1948年の冬だった。熱が出て悪寒がするという5歳の賢二君は異常なほどに痩せており、血液検査をしてみるとまともな赤血球が見つからず白血球はひどく少なかった。
高橋昭博さんは爆心地から1.4km離れた中学の運動場で被爆して大火傷を負った。奇跡的に命は助かったが、右手は4本の指がくっついて動かず、肘も120度くらいで曲がったまま。ケロイドを隠して夏でも長袖シャツを着て手には包帯を巻いていた。火傷が治ったあとの皮膚が固く盛り上がったのをケロイドという。カニの甲羅を貼り付けたように見えるとも言われる。このケロイドで皮膚がひきつれ変形したりしたので、顔にケロイドがある人は、例えば多田マキさんなどは街を歩けばマキさんの顔を見た子どもが泣きながら家にかけって
肥田舜太郎さんの『広島の消えた日被爆軍医の証言』(日中出版1982)を読むと、戦時下には病院も平穏な別世界ではなく、戦争や軍隊のメチャクチャなところ、あってはならないことがむしろ凝縮されているように感じる。この本はもうずいぶん前の出版だが、最近「さすらいのカナブン」さんが肥田さんの体験を漫画『あの日、ヒロシマで』(みらいパブリッシング2022)に描かれているのでありがたい。力作だと思う。1917年広島市生まれの肥田さんは日本大学の医学科に進んだが、太平洋戦争が始まると大学も軍事教練に明け
映画『オッペンハイマー』は、熱線で顔の皮膚が弾け飛ぶ女性や黒焦げの死体を描くとともに、一瞬ではあるが嘔吐の場面もある。それは、嘔吐が放射線によって最初に現れる症状であることをクリストファー・ノーラン監督がよく知っていたことに他ならない。悪心と嘔吐は爆撃当日にきわめて顕著で、生存者の31%、死者の16.6%にみられた。嘔吐は当日のみのものが多く、翌日以後におよんだものは比較的少ない。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎の原爆災害』岩波書店1979)しかし、映画に出てくる
原爆から10年後、『絵で読む広島の原爆』に描かれるのは広島赤十字病院と1956年9月20日から診療を開始した広島原爆病院だ(現在は広島赤十字・原爆病院)。原爆病院は被爆から10年経ってようやくできた被爆者医療の拠点病院。とは言っても、それで「原爆症」が治るというわけではなかった。原爆の、主に放射線によって人体に生じる障害を「原爆症」という。被爆直後の嘔吐・下痢に始まり、高熱や全身からの出血で被爆者が次々と死んでいった急性の障害は被爆から4か月過ぎると下火になった。しかし、その後から白血病や
『黒い雨』に、広島へ向かった保健婦と救護班員の「原爆病(原爆症)」が詳しく書かれてあるのは、矢須子の「原爆病」発症につなぐためだ。矢須子の発症は重松にとってまさに青天の霹靂だった。はじめ僕は茶の間でそれを打ちあけられたとき、瞬間、茶の間そのものが消えて青空に大きなクラゲ雲が出たのを見た。はっきりそれを見た(井伏鱒二『黒い雨』新潮文庫)矢須子は最初熱が出て、尻に腫れ物ができた。そして髪の毛が抜けだして、これは「原爆病」だと気づいたのだ。最初に診断した医者に「あれは病気の怪物じ
広島で被爆者医療に貢献した原田東岷、五日市に広島戦災児育成所を開設した山下義信も復員兵だった。原田東岷が台湾から広島県西端の大竹港に復員してきたのは1946年3月15日だった。午後4時半の汽車に乗り、季節外れの雪が舞う中を広島の己斐(こい)駅に着いた。それは荒涼たる風景であった。皆は、必死になってそれを探したのに、そこには雪原が果てしもなく拡がっているだけであった。「無い!広島が無い!」悲痛な声が挙がった。(原田東岷『ヒロシマの外科医の回想』未来社1977)市内中心部の中
原田東岷は1963年のクリスマスだったと記憶している。その年も平和公園のベンチに腰かけて断食をしているバーバラ・レイノルズを見かけた。私は隣に腰かけて話しかけた。「今、何を考えているの?」。彼女はポツリと言った。「私も被爆者なのです」。説明はなかった。どういう思考過程なのだろう。私は黙っていることにした。(原田東岷『平和の瞬間』勁草書房1994)そのころ、バーバラは英宏昌、松原美代子とともに世界をまわった第1回平和巡礼を終え、次の「広島・長崎世界平和巡礼」の準備に追われていた。
原田東岷がマイ・フォン・ダオと再会したのは1990年2月16日。バーバラ・レイノルズの突然の訃報に接し、飛行機に飛び乗ってロサンゼルスの空港に着いた時だった。ダオの傍らには5人の子どもたち。アメリカ兵がサイゴンに置き去りにしていった「混血」の子どもたちだった。1974年6月にベトナムに戻り、広島の人たちが寄付した700万円と7台のミシンで孤児院を開いたダオだったが、1975年4月30日、北ベトナム軍がサイゴンに入り、南ベトナムは崩壊した。それは北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線の人たちにと
原田東岷はサイゴンに滞在した2週間の間に皮膚移植手術を3回行うとともに孤児院もいくつか見てまわった。悲惨としか言いようのないところがほとんどだった。たいてい一室または二室に四、五十人の幼児が収容されており、ほとんどが捨て子のようであった。リノタイルの床を這いまわっている裸の子供たちは、まるで尿の海を泳いでいるようなものだった。あらゆる皮膚病が見られ、目や鼻の囲りには、膿の出ている疔をもたない子は稀であった。子らの栄養は極度に悪く、お腹だけが出っ張っていた。(原田東岷『ヒロシマの外科医の
1967年2月21日、原田東岷は羽田空港から南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)に飛んだ。原田東岷の目的はベトナム戦争で傷ついた子どもたちの実情を知ること。かつて広島の被爆者に国外からも多くの人たちの援助の手が差し伸べられたが、今度は自分たちが手を差しのべる番だと思ったのだ。そしてベトナムの子どもたちの戦争被害と救援活動が世界に伝えられれば、アメリカ国内の戦争に対する世論も大きく変わるのではないかと期待した。原田東岷が心配したのはナパーム弾による被害だった。ナパーム弾については、1
広島・長崎世界平和巡礼団は、アメリカからヨーロッパ、ソ連をまわり、1964年7月5日に広島に戻った。長い旅を振り返って、団員の多くが口にしたのがアメリカの平和運動に驚いたことだった。吉川清らとともに広島で最初に被爆者運動を立ち上げた河本時恵が言う。「アメリカで、あれだけ多くの人が熱心に平和を考え、行動しているのを知ったのは大きい」(中国新聞社『炎の日から20年―広島の記録2』未来社1966)団員の一人で理論物理学者、当時広島県原水協の常任理事だった庄野直美は、戦後のアメリカの核
ルーテル教会の原爆の絵碑もちろん、被爆者といっても一人一人が自分だけの人生を歩んだのだし、その中でも様々な思いがあったはずだ。しかしそれでも、浜井信三は広島には「ヒロシマの心」があると確信して平和宣言を読んだし、世界の多くの人が広島でその心と出会った。そしてバーバラ・レイノルズは「ヒロシマの心」に驚愕し、その心を世界に広めることを誓った。多くの被爆者は苦々しさ、そねみ、嫉妬、疑惑、不信、憎しみで満たされていた。しかし、年を経る毎に、それら種々の感情の複合された争い難い事実が生まれてき
広島市特別名誉市民ノーマン・カズンズの記念碑1955年5月、ノーマン・カズンズの尽力により「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれた25人の女性がケロイド手術のためアメリカに渡り、原田東岷も同行した。最初、原田東岷は渡米すべきかどうか迷った。そのころ市民の間にはまだアメリカへの反感が根強かったのだ。しかし、『原爆の子』の編者である長田新は渡米を勧めた。「善意には善意で胸を張って応えるべきだ」と。(原田東岷『平和の瞬間』勁草書房1994)以前ブログ「被爆者が語りだすまで」にも書いたが、原田東岷が
2003年8月6日の夜、広島市の中央公園ではイラク戦争反対と世界の平和を求めるメッセージが書かれた1300個の灯篭がピースマークの形に並べられ、ロウソクに灯りがともされた。暗闇の中に輝く色とりどりの灯篭。そこに子どもたちの歌声が合わさって、私たちの心をふるわせた。歌は「世界の命=広島の心」。原田東岷が作詞している。世界の命=広島の心作詞原田東岷作曲藤掛廣幸劫火(ほのお)の中に生まれでた新しきいのちヒロシマそれはいま世界の平和平和をきずく聖なる力ああ
1948年12月のある晩、5歳の賢二君が高熱を出して原田病院にかつぎこまれた。原田東岷が驚いたのは、その異常なほどに痩せこけた体。そして検査のため一滴とった血液を顕微鏡でのぞくと、そこにはまともな赤血球も白血球もまったく見つけることができなかった。賢二君と母親は榎町(えのまち)の路上で被爆した。爆心地からは真西に800mぐらいしか離れていない。母親は原爆の閃光に焼かれて全身黒焦げとなった。けれど最後の気力を振り絞って賢二君の乗った乳母車を押して爆心地と反対方向の天満川の河岸に逃げ、翌日そこ
原田東岷(はらだとうみん)は1938年に軍医として中国の戦場に送られ、台湾で敗戦の報せを聞いた。後に回顧してこう書いている。永い召集生活だった。二十七才の元気な見習士官から栄養失調で無一物の元大尉までの七年間毎日山野をかけめぐり、危険から危険をくぐり抜け、幾千の兵隊や八路軍の死をみとりながら自分のいのちをもみつめ続けた。無意味な開戦、幸福追求の無視、かきたてられた復讐心、残虐な公然殺人への共犯。そして最後に虐殺の町に戻ってきた。(原田東岷「あの頃」広島県医師会『原爆日記第Ⅱ集』19
ヒロとミヨコとバーバラの平和巡礼はアメリカからヨーロッパに渡り、さらに当時共産圏の東ヨーロッパとソ連を巡った。ナホトカから船で横浜港についたのは1962年7月27日だった。4か月の旅では多くの出会いがあった。その一方、英語圏以外の国ではバーバラたちは言葉の壁に悩み、特に被爆者のミヨコは心も体も疲れ果ててしまった。また、東西両陣営が互いに相手側を敵視して非難の応酬を続けることにバーバラは苦悩を深めた。けれど、広島に帰ってしばらくするとバーバラは嬉しい悲鳴をあげることになった。驚い
佐古美智子さんは1956年11月に帰国するまでに10回手術を受けて、瞼は閉じることができ口元の引きつりもなくなった。けれど原田東岷さんがミラー夫妻の自宅で美智子さんの笑顔を見た時はまだ一度も手術は行われていなかったのだ。それでも美智子さんの弾けるような笑顔は手術の目的を半分以上達成したようなものだった。ミラー夫妻は美智子さんにどんな魔法をかけたのかと、東岷さんは夫のエドワードに尋ねた。「イヤどうしてどうして、私たちは何もしなかったのです。私たちの生活にとけこませようとしただけです。
1955年5月5日。25人の若い女性がアメリカに向かう飛行機に乗った。ジャーナリストで原爆孤児への支援でも知られるノーマン・カズンズさんらの尽力で、ニューヨークにあるマウント・サイナイ病院でケロイドの手術をすることになったのだ。彼女たちは当時日本では「原爆乙女」、アメリカでは「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれた。同行した外科医の原田東岷さんは10月になってニュージャージー州のホームステイ先に「原爆乙女」の一人、当時23歳の佐古美智子さんを訪ねた。原田さんは驚いた。玄関の扉を開くと、一段
原爆に遭った人が「被爆者は短命だ」などと面と向かって言われたら、誰もが腹を立てたことだろう。でも、「そんな馬鹿なことがあるか」とどれだけの人が言い返せただろうか。被爆者自身不安だったに違いないと思うのだ。中学2年生の時動員先の工場内で被爆した植田雅軌さんの体に異変が起きたのは、郷里の大崎上島に帰ってからだった。体の倦怠感、食欲不振、髪の毛も抜けだした。母親が必死になって漢方薬を手に入れ、鯉の生き血を飲ませ、亀の味噌汁まで食べさせたという。それがよかったかどうかはわからないが、植田さんは
被爆当時女学校1年生だった内田美佐子さんは原爆で父親と二人の姉を亡くし、家も財産も失った。美佐子さんと母親は助かったもののどうやって暮らしていけばいいのかわからない。途方に暮れた母親は日雇い人夫に出るしかなかった。天秤棒を担ぎ、焼け跡の片付けをする肉体労働でした。毎日の日当で、その日食べる米二合を買っていた生活を忘れることはできません。雨が降れば仕事がなくなり、その日の米を買うこともできませんでした。病気になったら、焼け跡の地下に埋めておいた品物を掘り出して医者に行きました。それがお金
吉川清さんのケロイドの具合は広島赤十字病院に入院しても思わしくなかった。特に冬になるとケロイドが破れ、潰瘍ができて化膿し、針で突き刺すような痛みに昼も夜も悩まされた。吉川さんは皮膚を移植してのケロイド整形手術を受けることにした。原爆医療法が施行されたのは1957年。国民健康保険が全国民対象となったのが1961年である。吉川さんは自分の土地と妻の生美さん名義の山林を売り払って手術に臨んだ。手術は5年間で16回行われた。手術は、ケロイドで硬直した両腕と、脱臼してしまった両手首から右手の指に
【牛田バラ園】今回の「遠足」の最終目的地です。牛田総合公園内にある市営のバラ園です。この辺りは何度も通っているのに訪問するのは初めてです。存在を知らなかったのです。無料で24時間入場できる被爆者の治療にたずさわった外科医・故原田東岷は医療の第一線を退いてから、「ヒロシマ」の名を冠した新種のバラを世界各地に送る活動を続けた。その多くが此処に咲いている【花の盛りは…】(残念ながら)過ぎていますが、今もって美しい花を写真におさめました(↓)既に散っていましたので説明板です夢
ヒロシマの被爆者医療と平和活動に努めてこられた原田病院が、閉院する事を今日知りました。近所で暮らしてました。母が腰痛で時々お世話になってました。未だ東岷先生が御健在の頃、診察室の傍に座って息子で院長の診察ぶりを見守られてたようです。入院を勧められた際、断ったら「チェッ」と言われたけど、その言い方が可愛いんよと昔、母から聞きました。広島海と島の博覧会と云う大阪万博を小規模にしたようなイベントが、平成元年に3月から9月まで開催されました。その博覧会場で広島平和祈