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前回のチラシの裏面で、京都花月昭和38年12月中席の予告。上席もでしたが落語がありませんね。まだ吉本所属の噺家が少なかったんでしょう。トリは幸子・幸朗、モタレに右楽・左楽。奇術の堀ジョージ、漫談の滝あきらもすでに花月に出ています。ポケット・ミュージカルスには上席に続いて前田五郎が出演。前田五郎もまだ新喜劇に入団したばかりで21歳です。この席も吉本新喜劇ではなく、博多淡海劇団で博多淡海主演の「煙草のけむり」。顔写真を見ると、ホント進ちゃんと似てますね。
京都花月昭和38年12月上席のチラシ。漫才は古参芸人が多数出ており、トリは守住田鶴子・浅田家寿郎。奇術の松旭斎天正は弟子の幸子を後見にしていました。二番目に横山やすし・たかしが出ており、この時のたかしは後のレツゴー正児。ポケット・ミュージカルスは檀上茂構成・演出の「みんなで歌おう」。吉本シンギングチームとして浜裕二、吉本ボードビリアンで桑原和男、前田五郎、内海英子が出演。この席は吉本新喜劇ではなく、博多淡海劇団で「踏切番のお婆さん」。踏切番という言葉ももう知らない人も
今は無きトップホットシアターのチラシ博多淡海さんと共に、トップホット楽屋で奥津由三さんや赤井タンクさんらと、今月13日、大阪に出張で来られた江戸川大学教授、お笑い評論家で浅草喜劇の歴史を研究なさっている西条昇教授と大阪と云えば道頓堀今井.けつねうろん.やろうと阪急の今井支店でお昼にしてその後、梅地下の茜屋珈琲店でゆっくり話しました、今は亡き我が師匠芦屋雁之助と大恩人ミヤコ蝶々先生の話やトップホットシアターでの奥津由三さんの話、角座で少しの期間でも皆んなで頑張った新喜楽座.博多淡海さんの話
「幕末残酷物語」(1964)新選組の内ゲバを描いたモノクロ時代劇を観ました。初見。監督は加藤泰。予告編はコチラ。時は幕末。池田屋騒動の直後のお話。今をときめく憧れの新選組入隊テスト中、木刀で血まみれになる志願者(山本麟一)を目にして嘔吐。無様な姿を見せたことを恥じて切腹しようとしたヤケクソな根性を認められて、滑り込みで新選組の仲間入りをした田舎者の江波三郎(大川橋蔵)。局長の近藤勇(中村竹弥)、副長の土方歳三(西村晃)、総長の山南敬助(大友柳太朗)、一番隊の隊長の沖田総司(河原
今月3本目の九州納品の仕事で、熊本に行って来ました!11月末にも関わらず、気温21度と車窓全開でちょうど良い気候で、仕事とはいえドライブには絶好の日和でした。帰路はいつもと同じで、国道3号線で福岡県久留米市まで走行し、小郡市より国道200号冷水バイパス、飯塚市より国道322号で小倉市新門司港まで行き、新門司港-大阪南港行きの名門大洋フェリーに乗船という計画で、約185kmを下道で走行します。寄り道しなければ下道でも夜間4時間以内、日中でも4時間半くらいです。最初の
ふと思っていることを…1つ❤️…え~こんなことありませんか?☺️「この役者さん、芝居うまいのに、愛想もそんなに悪くないのになんで、あんまり人気でないんだろうっと…」私はあります👹あれ~なんなんですかねぇ~ちょっと意味わかりません。実力あるのに…名前だしてもいいけど、憚られる(はばかられる)ので、実名報道には踏み切れません(笑😄)気ぃ悪くする人もいますのでねぇ~❤️あ~これは言っても構わないかもしれません。自虐的にカミングアウトしてたので、劇団松丸家松丸家小弁太座長この方はご自分
昭和49~54年頃だったと思いますが、福岡で活躍中の博多淡海さん(2代目)が松竹新喜劇藤山寛美先生に招かれて松竹新喜劇に参加されました、そしてその間、道頓堀角座で白木みのるさんが喜楽座と銘打って喜劇公演されてましたがその後、博多淡海さんが座長として新喜楽座として数年間、座長公演をされていました、吉本新喜劇から白羽大介さん、東宝梅田コマからは私(当時は芦屋凡凡と名乗っていました)あと松竹新喜劇から曽我廼家文童さん他、多数出演していて私は2年間位に何度か出演致しました、まだまだ大阪の芝居
昭和45〜7年頃か、と記憶してますが、松竹芸能さんが角座で白木みのるさん座長で喜楽座を旗揚げ、その後、九州から博多淡海さんが来られて座長として新喜楽座を旗揚げされました、松竹から曾我廼家文童さん、吉本から白羽大介さん、梅コマから私、芦屋凡凡が加わり数年間、興行しました、この写真は当時角座前に飾って有った写真を私が劇場の方に無理を言って頂いた写真です、この頃、我が師匠芦屋雁之助先生は東京日比谷で活躍中でした、朝日放送でなもんや三度笠も終り、この頃から演劇もテレビも東京移行が始まっ
先月、かつて吉本新喜劇の座長を務めていた木村進さんの訃報を目にした木村進さんは、1970年代に間寛平さんとのお笑いコンビで人気を博し、その後吉本新喜劇の座長についた。私は、木村進さんが間寛平さんとのコンビで活躍していた頃をよく知り、吉本新喜劇の舞台や「あっちこっち丁稚」に二人が出演したテレビ放送を何度も見たものだった。また、木村進さんの父は博多淡海さんで、現役のお笑い芸人当時の姿をテレビで見ていた。父博多淡海さんの没後、しばらく経ってから木村進さんは父博多淡海の名を継いだ。しかし、博多
吉本新喜劇座長として人気を集めた喜劇俳優の木村進(きむら・すすむ)さんが19日午後3時14分、腎不全のため大阪市の病院で死去した。68歳。我々40代以上の新喜劇ファンにとっては、進ちゃんは新喜劇のスーパー座長。二枚目・三枚目・爺さん・婆さんなんでも出来て、その上踊れるし、殺陣は出来るしと、ホントに素晴らしい役者でした。昭和45年に吉本新喜劇に入団。昭和49年6月、間寛平と共に座長に昇格。その後昭和62年に三代目博多淡海を襲名して、昭和63年に脳内出血で倒れるまでの約14年間ずっと座長でし
まいどおおきに今日の大阪は爽やかな暑さまだこの時期は暑くても湿度が低いから気持ちいい~よ~吉本新喜劇の風雲児木村進さんが亡くなりました腎不全で68歳大好きでした木村さんのお父さんが2代目博多淡海さん松竹新喜劇で故藤山寛美さんとの名コンビ木村さんは親に反発してライバルの吉本興業へでも博多淡海の名物芸のおばあちゃん役でブレイク当時はまだ面白くなかった間寛平とのコンビでおばあちゃんとおじいちゃんで大爆笑「イ
吉本新喜劇の二枚目俳優木村進が亡くなりました。68才でした。昭和40年代後半に23才の若さで座長に抜擢され、その後38才で倒れるまで飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍をみせました。全盛期に倒れたのが悔やまれます。父親は博多淡海。木村進も親父の真似をしてお婆ちゃん役をよくやりました。芸や身のこなしは上手かったのですが、福岡出身の為こてこての関西弁を喋れませんでした。喋くりで笑わすほうじゃなくギャグを多用したのは寛平と通じるものがあります。合掌。
左から間寛平さん、木村進さん昭和50年台に活躍していた吉本新喜劇の元座長・木村進さんが腎不全のために5/19にお亡くなりになりました。まだ68歳でした。謹んで木村進さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌・・・。木村進さんは芸能一家の出身で、祖父が初代の博多淡海、父が二代目博多淡海、ご本人も三代目博多淡海を襲名されてました。まさに、お笑い界のサラブレッドでした。私は、角座でやっていた二代目・博多淡海さんの新喜楽座の舞台のテレビ中継を見たことがあります。このように、二代目は正座し
お亡くなりになられた。https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905200001008.html「あっちこっち丁稚」とか、「てなもんや三度笠」とか出てた。お父さんの博多淡海を襲名して、東京で公演やるって聞いて見に行ったなぁ。そしたら、私の前の席にWAHAHA本舗の皆様が見に来てた(と思う)ご冥福をお祈りします。寛平ちゃんに原哲男さんと「おまんにゃわ」の爺さん(*≧∀≦*)
普段は新聞なんて読む時間が全くないのに、今日は何となく朝刊を手にしました。(既に夕方でしたけれど)飛び込んで来た記事を見てショック・・・若い頃、私が大好きだった木村進さんの訃報でした。若い人はご存知ないと思いますが、木村進さんは吉本新喜劇の座長さんでよく間寛平さんと一緒にテレビに出ておられました。同級生が、「三番街の釜めし屋さんに木村進が来ていたよ」と言えばそのお店に行ってみたりもしました。(お会いすることはなかったですが)週末は吉本新喜劇に加え、「モーレツ!しご
訃報が続きます。吉本新喜劇の作家だった、檀上茂さんが亡くなっていたことが分かりました。79歳。新喜劇ファンにとっては、竹本浩三、三原和人、中村進らと共に新喜劇創成期からの作家として有名で、「あっちこっち丁稚」「花の駐在さん」など、テレビ用のコメディも数多く手がけました。檀上茂氏に関してはこちらに詳しいインタビュー記事があります(こちらへ)。かなりのスパルタ演出だったらしく、若手座員などはかなりしごかれたと聞いたことがあります。私は今から25年程前にお会いしてお話したことがあり
昨日、映画「めんたいぴりり」について書いてみましたが、思い出したことがあったので書いてみます。「ぴりり」ファンにはおいしいかな?①映画はいろんな方のコメントのとおり、泣いたり、笑ったりの内容です。19日広島のラジオに出演されていた「江口カン」監督のお話によると、このやり方は、子供の頃に見ていた松竹新喜劇を見て身についてそうです。私も記憶にありますが、松竹新喜劇とは藤山直美さんのお父さん、藤山寛美さん主演の舞台で、吉本新喜劇のような感じでした。そういえば初めは笑うばかり、最後に涙という展
松竹新喜劇の藤山扇治郎の自主公演「若藤会」2月10日、11日の両日、ABCホール(大阪市福島区)東憲司の戯曲「エル・スール〜我が心のふるさと博多、そして西鉄ライオンズ」昭和30年代の博多を舞台に、新聞配達の少年(扇治郎)や鉄工所のおばちゃん(寿ひずる)、旅館の風呂焚きのあんちゃん(渋谷天笑)ら、貧しいながらもたくましく生きる人々のドラマだ。博多弁のせりふは初めてで、少年から老人までを演じることにも挑戦する。共演は大湖せしる、蔵下穂波、蓑島直音ら。藤山扇治郎さんに、福袋的なプレゼント🎁
お友達ホステル淡海社長と待ち合わせ❤今夜は天満を、うろうろえ!環状線のるんですか?乗り換えもわからず不安。。。主人にライン誘導。甲子園口から天満着いた🎵しかし、そこから、お店まで3分で迷うワタシ淡海社長にわからなーい❗と電話しました(^o^;)なんとか着博多串のお店バッテンよかとぉ❤博多の名物の居酒屋さん、モツや餃子、板蕎麦が美味しい!ホステル淡海社長と巨人師匠今日はお誘いいただき、ありがとうございました🎵東京滝りん❤数年ぶり会えて嬉しかったですこれからも元気に遊び
甲子園口でランチ☀🍴洋食のビブグルマン店❤里芋スープこちらのお店はお野菜にもこだわり芦屋CAさんの有機野菜だそうワタシは人気の定番お野菜たっぷりドリア❤週かわりランチはカキフライでしたソースも絶品🎵苺のソルべおもった以上に苺🍓イチゴ🍓😋🍴💕二人で食べる用にスプーン2つつけて下さいましたお心つかいが嬉しかった❤ご馳走様でした今から大阪で友人がオーナーのホステル完成披露内覧会へ行ってきます
昭和63年9月、うめだ花月の予告用チラシ。NGK偏重の番組編成になりつつある頃ですが、まだ何とかうめだ花月らしさを保っています。●上席由紀子・たか志が小づえ・みどりに変更になり、少し良くなります。小文枝さんは重鎮ながら、古典落語での高座だったので、イマイチ受けが悪く、徐々に看板が下がってしまいます。吉本新喜劇は特プロもあったの檀上茂二本立て。一本目は「妻の同窓会」で、洋食屋の主人(岡八郎)が妻(末成由美)が同窓会に参加することでのヤキモチ騒動。二本目は「おっちゃんはスキやね
本日無事に52歳になりました感謝BIRTHDAYディナーはやはり、、私がこの世で一番好きな食べ物ですよね♡ぱぴブログ上級者ならおわかりな、焼き鳥『夙川鶏天』さんメニューにない人気のシャンパーニュつくねは、まいど外せない絶品淡海地鶏串そういえば、さっき博多淡海さんのお嬢様からも、おめでとうメール💌いただきましたヒップと胸串右、今まで食べた胸串で一番美味しかったです胸?て聞き直すほど濃い味ジューシーでした半熟のうずら串もお店のこだわりですね静岡産わさびの笹身串本当はあとも
昭和63年8月のうめだ花月の予告用チラシ。5月になんば花月が閉館し、NGKとうめだの二館体制。徐々にNGK偏重の番組編成になってきてますが、この8月はまだうめだ花月らしい雰囲気がある感じです。●上席小文枝さんが弟子の文珍よりも看板が下になってしまってます。まぁ当時の観客の受け方からすれば仕方なかったかもしれません。笑福亭松之助を含めて落語が三本もあるのが今では考えられないですね。京都花月があった頃ぐらいまでは看板が結構上だった翠みち代も、ピンクダックの前になってます。ポケッ
このチラシは予告用のモノとして、劇場のもぎりで配布されていたり、劇場内にも貼られていました。記事の内容は以前のプログラムと重複する箇所が多々ありますが、ご了承下さい。前年の昭和62年11月にNGKがオープンし、それまで花月三館の中で最も格があった「なんば花月」が10月に一旦休館。11月下席より再オープンしましたが、NGKに出番のない芸人の一時的な救済のための、再オープンで昭和63年5月31日で完全に閉館となりました。その約半年間は京都花月の再来のような番組編成で、うめだ花月よりも格下の
今回のサイン色紙は長年新喜劇の座長として活躍した木村進が襲名した三代目博多淡海です。昭和63年9月17日うめだ花月。ハンチング帽を深く被り、サングラスをかけて楽屋から出て来て、サインをお願いすると特に何を喋るわけでもなかったですが、やはりスターのオーラを感じました。この時に出ていた新喜劇を最後に病に倒れてしまったのが残念でなりません。昭和62年9月下席うめだ花月。三代目博多淡海襲名興行「プッツン婆さん奮戦記」。昭和63年3月下席なんば花月「プッ
ブログネタ:今までかかった最も重い病気参加中脳炎。2012年2月のことであった。よくもまあ、1ヵ月半で目が覚めたものだ。そして、1年ぐらいのリハビリで日常生活には支障がなくなった。今もリハビリ中なんだが、それは専門職であるから必要以上に必要。41歳の春を入院生活で過ごすことになった。バカボンパパは元気だと思い知ることになった。さて、今日のタイトルは昭和の吉本新喜劇を知るものにはすぐピンとくる。私が小学校の頃から新喜劇の座長を務めていた木村進さんである。どうして今ここで触れるの
昭和63年お盆興行のうめだ花月のポスター。前年の7月下席より、ポスターデザインが変更。NGKオープン以来、うめだ出番が減ってしまった阪神・巨人といくよ・くるよが正月以来久々に出演。阪・巨は13~16日の日にち限定ですが、この中席はNGK出番と掛け持ち。阪・巨とカウス・ボタンが同じ出番なんて今ではないですねぇ・・・。この頃は看板の位置も月亭八方やいく・くるより下ですし。京都・なんば花月が閉館してしまい、芸人が飽和状態になり、しかもNGKは誰でも出れる頃ではなかった当時、それでも
昭和52年1月正月興行の角座。いつもの正月興行に比べると若干豪華さに欠けるような感じがしますが、それでも演芸のトリでかしまし娘が出ています。弟子の正司敏江・玲児も看板が大きくなり、師匠と並ぶほどの勢い。落語は笑福亭鶴光の一本だけ。「オールナイトニッポン」をやってる頃ですね。かしまし娘、宮川左近ショウ、トリオ・ザ・ミミック、サムライトリオなど音曲もの同様にトリオが多いのも松竹の特徴。トップには浮世亭三吾・十吾。けっこうええとこまで上がって来たのですが、看板にならずして平成