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日本各地に昔から伝えられている民話。そういった伝承には何か元になる話が実在しているのではないか?小説を書く過程で調査・収集した資料(主に伝承系)について、そんな視点で考えてみました。前回に引き続き「あかてこ」について。前回「あかてこ」について、皂莢樹の木があったのでは?という場所までは推測しましたが、では当の本人は誰だったのか?今回はそれについてです。南部夜話には「南部家の何代目かはっきりしないが……」とありましたが、ここで南部家の家系図を見ていき
※2024年3月29日訪問※三ノ丸の西側部分まで歩いて来ました三ノ丸跡では現在石垣の修復工事が行われており、解体された石材が並べられていました✨工事箇所のフェンスには石垣修復工事についての説明と、南部家の家紋である《向かい鶴》が染め抜かれた幟が立てられていましたという事で盛岡城散策は以上となります✨今回は滞在時間30分という限られた時間内での散策となってしまったので、改めて別の機会にゆっくりと散策出来ればと思っています
※2024年3月29日訪問※榊山稲荷曲輪跡から北に進み【二ノ丸西側の石垣】を見て行きますまさに『壁』のような高石垣に圧倒されますね✨しっかりと横矢を掛けれるように、屈折して積まれた石垣天端部分の数段は垂直に積まれており、敵兵がよじ登るのは難しいですね◆陸奥国・盛岡城(不来方城)三ノ丸西側石垣/国指定史跡◆に続く
日本各地に昔から伝えられている民話。そういった伝承には何か元になる話が実在しているのではないか?小説を書く過程で調査・収集した資料(主に伝承系)について、そんな視点で考えてみました。第1回目は「あかてこ」です。青森県の八戸市に古くから伝わる妖怪『あかてこ』。南部藩政時代の話らしいのですが、この伝承の原型、つまりモデルとなった人物は実在したのか?そんな視点で考察してみました。※ただし、史実の他にも個人的な偏見も含まれています。では、さっそ
※2024年3月29日訪問※二ノ丸の西側には【榊山稲荷曲輪】という曲輪が設けられていました✨三角形に飛び出したような形のこの曲輪には「榊山正一位稲荷社」の本殿・拝殿が建てられ、御神体(南部家家祖、源義光伝来の観音仏)が祀られていたそうです✨表向きは、上記のように神社の敷地として平和利用されていたと考えられる榊山曲輪実際には五稜郭のような横矢を掛けやすい三角形の形状で、腰曲輪の西南隅にある櫓台と相横矢を形成していおり、二ノ丸高石垣の横矢枡形状の張り出しとも相横矢を形成するなど、軍事的にもし
※2024年3月29日訪問※吹上門跡から【吹上坂】を下って行きます盛岡駅方面から盛岡城跡に向かって歩いて来ると、まずこの吹上坂の石垣が目に飛び込んで来ますね非常に立派な石垣を間近で堪能出来ます坂を降りた先の道路は、かつては北上川が流れていたようで、天然の外堀の役目を果たしていたんですね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)榊山稲荷曲輪/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※【吹上門】の跡を見て行きましょう虎口になっている様子がはっきりとわかりますね✨門跡の側の木の下に、四角い石が2個置いてあったので確認してみると…おそらく門の【礎石】と思われる石材ですよね✨門跡から腰曲輪の外へと歩いて行きます◆陸奥国・盛岡城(不来方城)吹上坂/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※腰曲輪の南西角地には【吹上三社】というお社が建てられていました築城当初は【吹上門西櫓】という櫓が建てられていたようですが、幕末に破却され、吹上三社が勧請されたそうです✨現在では櫓台の石垣と、東屋が整備されていますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)吹上門跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※本丸の南側には【腰曲輪】が広がっていました【腰曲輪】の石碑が建てられていますね✨【腰曲輪の建物】と書かれた案内板が設置されていたので確認していきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっています。曲輪の東辺には二ヶ所の折邪があり、それぞれ櫓が備えられていました。そのうち、北側の櫓は単層で、南側の櫓は二層となってお
※2024年3月29日訪問※吹上馬場の西側には【宝蔵】が建てられていたようです現在、宝蔵跡と思われる石列を見る事が出来ますが、これが当時からの遺構なのか、公園整備の際の平面表示としての整備なのかはわかりませんでした◆陸奥国・盛岡城(不来方城)腰曲輪跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※本丸跡から南側に石段を降りて来ました藩政時代にはこの石段は無かったようで、明治期の公園整備の際に、本丸へ登り易くする為に整備されたものだと思われます本丸の南側、一段低くなった場所には【吹上馬場】【御馬場】と呼ばれる馬場が有ったようです✨近くには【史跡盛岡城跡】と書かれた縄張り図が設置されているので、こちらも散策の際の参考にさせて頂きました✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)宝蔵跡/国指定史跡◆に続く
自分が旦那の御先祖様達から選ばれていた✨のを思い出したお陰で、今年も岩手の実家に向けて行く意識が産まれて来てくれてね✨『あの世から選ばれて生きる❤️✨』そういえば、ここ数年、身内の死者に寄り添うコトが多すぎて忘れていたのだけど…結婚って、相手の先祖に選ばれるか?が、大事なんだよね✨『命日❤️そして、使命✨』…ameblo.jp昨年、お義母さんが亡くなって遺産放棄もしてしまったことで、帰る必要性が無いと、思っていたんだけど『決断…かな⁇遺産放棄しました♡』お義母さ
※2024年3月29日訪問※盛岡城の中心部であった【本丸跡】です【本丸跡】の石碑が建てられていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸は城の南側に位置し、東西70m、南北55m。北側には【中奥】、南側には【大奥】が建てられていました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲本丸跡を散策してみて思った事は、『意外と狭い本丸だな』という事かつては本丸をぐるりと囲むように、三層櫓や二層櫓、多聞櫓などが建てられていたはずなので、さらにその中に御殿が建てられていたとすると、かなり手狭
※2024年3月29日訪問※盛岡城のシンボルでもあった本丸【三層櫓(三階櫓)】の跡ですこの三層櫓(三階櫓)については、明治初期に撮影された古写真が1枚だけ残されており、手前の二層櫓と共に盛岡城の様子を伝える貴重な資料となっています✨【盛岡城古写真】※清養院所蔵※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1633年(寛永10年)に築かれたとされる最初の天守(1842年までは「御三階櫓」と呼称)は1636年(寛永13年)に落雷を受けて炎上した。その後しばらく天守は再建されなかったが、1676
※2024年3月29日訪問※本丸南西隅には、本丸二層櫓(南西隅櫓)が建てられていました二層櫓跡の手前側で発掘調査が行われており、立ち入り禁止のロープが貼って有ったので、櫓台には近付けませんでしたぐるりと回り込んで、腰曲環から見上げた二層櫓跡ですこの二層櫓に関しては明治初期に撮影された古写真が1枚残されており、盛岡市としても将来的に復元整備を検討しているとの事でした※画像は盛岡市のHPより引用※本丸の南西部分にも立派な石垣を見る事が出来ます✨【本丸南西部の石垣】という案内板が設置され
※2024年3月29日訪問※本丸北西隅には、本丸納戸櫓(北西隅櫓)が建てられていましたこちらも建物は残っておらず、櫓台の石垣を見る事が出来ます近くには【本丸北西部の発掘調査】という案内板が設置されていましたので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北西部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末~16世紀末)から、南部氏の盛岡城Ⅰ期(16世紀末)、盛岡城Ⅱ期(17世紀前葉)の4期にわたる構造の変遷が確認されています。本丸北半部の石垣
※2024年3月29日訪問※本丸北東隅には、本丸隅櫓(北東隅櫓)が建てられていました建物は残っておらず、現在では櫓台の石垣を見る事が出来ます✨近くには【本丸北東部の発掘調査】という案内板が設置されていましたので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸北東部では、石垣修復のための発掘調査により、福士氏の不来方城(14世紀末~16世紀末)から、南部氏の盛岡城Ⅰ期(16世紀末)、盛岡城Ⅱ期(17世紀前葉)の4期にわたる構造の変遷が確認されています。本丸北東部の石垣
※2024年3月29日訪問※本丸に入る北東部の門が【御末門】です現在スロープとなっている道を進み、曲がった所に門が建てられていたようです本丸へと至る門だけあって、しっかりと石垣が積まれていますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)本丸隅櫓(北東隅櫓)跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※冠木御門跡の東側には、何やら櫓台のような石積を見る事が出来ますこちらは【武者溜】と呼ばれる軍事施設で、文字通り、戦の際などに武士達の待機場として使用されていたのかもしれません✨先程歩いて来た御台所跡の平場を確認する事が出来ますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)御末門跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※冠木御門跡から淡路丸を臨むと、地面に何やら丸い石組がこちらはかつての【井戸】の跡だそうです◆陸奥国・盛岡城(不来方城)武者溜跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※本丸北東部分への入口でもある【冠木御門】跡ですかつてはこの道を遮るように門が建てられていたようですが、現在、門の遺構などは残されていないようです◆陸奥国・盛岡城(不来方城)淡路丸井戸跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※二ノ丸と本丸を繋いでいた【御廊下橋(渡雲橋)】を見て行きます橋の下は空堀が巡っていたはざなのだ、当時はもっと深さが有ったと思われます✨盛岡城を紹介する際には、この御廊下橋の構図がよく使われていますよね私が訪問した際は、工事中なのか、橋の下は通行出来なくなっていました画面向かって左手が本丸で、二ノ丸よりも少し高く造られている事がわかります✨本丸側から見た御廊下橋です現在は擬宝珠の付いた朱塗りの橋が架けられていますが、江戸時代には屋根のある橋で、本丸石垣の上
※2024年3月29日訪問※二ノ丸東側では【はばき石垣】と呼ばれる石垣を2ヶ所確認する事が出来ます2ヶ所有るうちの北側の方が少し大きく造られているようですねこれは、二の丸造成の際、盛土をして石垣を積んだものの、排水工事が不十分だった為か、元禄年間以降、石垣に孕みが生じた為、はばき石垣を布積で構築したとの事慢性的な財政危機に陥っていた南部家は、幕府の許可が得られたとしても、石垣積み直しなど全面修理を行う余裕がなかった為、はばき石垣で対応したのではないかとも言われているようです◆陸奥国・盛
※2024年3月29日訪問※御台所跡から【不明門跡】へと向かいます✨門の遺構は残されていませんが、この不明門の脇には巨大な【岩盤】が露出しています✨この岩盤を避けるように石垣が積まれており、盛岡城が岩盤の上に築かれた事がわかる場所ですね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)二ノ丸東側石垣(笑い積み)/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※三ノ丸の南東部に位置する【御台所跡】へと向かいます御台所の北側には、入口である【台所御門】が建てられていましたが、現在遺構は見られず御台所跡は現在多目的広場として利用されているようですね【広場】の石碑も建てられており、その名の通り広大な曲輪であった事がわかりますね✨◆陸奥国・盛岡城(不来方城)不明門跡/国指定史跡◆に続く
※2024年3月29日訪問※盛岡城と言えば、東北では珍しく石垣を多用した城としても知られていますよね✨そんな盛岡城の代名詞とも言える石垣をじっくりと堪能して行きますまずは【三ノ丸北東部分の石垣】✨櫻山神社と鶴ヶ池の間の細い遊歩道から盛岡城公園内に向かって歩いて行くと、立派な石垣が見えて来ますお城好きにはたまらないこの石垣(笑)もっと近くで見学したいのですが、石垣前の平場には立ち入り禁止のロープが盛岡城公園の案内板を見ると、かつてはバラ園が有った場所と思われますが、現在は石垣の石材な
※2024年3月29日訪問※鳩御門跡から三ノ丸跡へと散策予定でしたが、石垣修復工事に伴う立ち入り禁止区域が有る為、櫻山神社の東側から公園の中心部へと迂回し、散策して行く事に見えてきた【水堀】は、こちらも城の内堀で、現在は庭園の池のような形で整備されていました✨噴水なども整備されているようです✨近くには盛岡城公園の案内板が建てられていたので、散策の際の参考にさせて頂きました✨水堀に面した部分には石垣が見られ、かつては城の水堀として機能していた事が伺い知れますねこちらの水堀は【鶴ヶ池】と
※2024年3月29日訪問※三ノ丸の北側の入口部分には【鳩御門】という門が建てられていました✨鳩御門跡に関しては遺構は残されていないようですねちなみに、この周辺の三ノ丸石垣は現在修復工事が行われているようです石垣修復工事と平行して発掘調査も行われているようですねさて、この鳩御門跡から三ノ丸へと散策する予定でしたが、現在この石垣修復工事の兼ね合いで立ち入り禁止の区域が有る為、本丸方面へと向かうにはぐるりと迂回する必要が有りますので、訪問される際は御注意を◆陸奥国・盛岡城(不来方城)三
※2024年3月29日訪問※早速盛岡城跡を散策して行きましょう✨盛岡城跡は約20年振り、2回目の訪問です今回は所要の合間を縫っての訪問だったので、散策時間はわずか30分じっくりと見て回る事は出来ませんが、少しでも盛岡城の魅力をお伝えて出来ればと思いますまず訪れたのは、三ノ丸北西部分の【水堀】です現在は『亀ヶ池』とも呼ばれているようで、市街地の中でよくこの水堀が残されているなと感動この水堀はかつての【内堀】との事水堀のすぐ目の前に、飲食店などの繁華街が広がっているのは珍しい光景だと
※2024年3月29日訪問※岩手県盛岡市の【盛岡城跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼盛岡城は、岩手県盛岡市にあった日本の城。1937年(昭和12年)4月17日に国の史跡に指定されている。また、2006年(平成18年)には日本100名城に選定されている。「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で