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「だから教祖が「間違いだ」と指弾されてもけっして認めない。もしそれを認めてしまうと、信じた自分を裏切る事になりますから。」<問い>の問答南直哉、玄侑宗久:対談より抜粋。久々に熱中して読める本。ハラハラしながら読めます。なにかに安穏と座り込みたがる自分の弱さ、っていうと響きがカッコイーけれど、「不安定でケッコー」的発言連発の本で自分が楽したがってたんだなあと思う事しきり。「自分」がそう思ったんだから、そう思えたんだから「正しい」って人は思いたいもんだ。「自分」がそう思えただけ、
「自己というのはどこからか課せられ、我々が否応なしに押し付けられたものです。そうするとなにが押し付けられたのか・・・それは決して分からない。この矛盾を抱え込んでいる以上、<異界>的存在が内部にあるのは当たり前です」「それを失ってしまうと、もはや自己ではあり得ない」「自己が自己であるという事は、「自己ではない」ということを抱え込んでいるから触発されるのであって、その触発がなくなってしまったら自己は自己である事をやめてしまうのでしょうね。ですから自己を支えているのは自己ではないのです。
これは否定も肯定もしないで放置するという意味で史上の人物としてお釈迦様、ゴータマ・ブッダは、ある種の質問には「無記」で通したという。(中略)なぜ生まれてきたのか、なぜ死ぬのか。どこから来て死んだらどこに行くのか。そのすべてに答えが出ない。つまり我々の存在にさしたる根拠も意味も見いだせない。この堪え難い状況を、堪え難い故に、「絶対神」や「霊魂」や「理念」で埋め合わせるよりも、この状況をあくまで直視して、なおかつ充実した生を求めていくのが仏教だと、ぼくは思う。この姿勢はある意味で最もシビアだろ
「ブッダが『無記』というものを持ち出したのは、そこに対する強烈な意思があったからだろうと思います。我々が使う言葉で『不在である死者のリアリティが語れる』ということになってしまうと、それは大きなごまかしであるし(後略)」<問い>の問答南直哉・玄侑宗久:著より、南さんの言葉を引用とにかくハラハラする本でして、着眼点が自分の悶々といてたところにピタリと当ててこられるのです。テレビやラジオがお亡くなりになった人を語っても、懐かしんでも死者当人のなにがしかは含んだものではない。どこまで
「ハウスがあって、父親がいて、母親もいるけれど、ホームがない」『出家の覚悟』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉:共著より抜粋。「親も子供に対して真剣ですよ。ハウスがあるのに、ホームがないのですから」スマナサーラ師の台詞。自分が安心して心をすとんと座らせられる場所が、生きてる人間には大事。疑いなく、人と居られるってことが根幹にない人は、その欠損感を埋めるためだけに、あらかじめそれを持ってる人に比べ、散々な工夫と投資と努力を重ねるところに、スタートラインを定める事になる。そして、
「『共生』という言葉がはやりだが、」に続く言葉。語る禅僧・南直哉著第二章七項「なすべき」の自由、より抜粋「土壇場の仏教は、共に死ぬか、さもなくば他を助けて自分が死ぬ教えである」と南師はおっしゃる。このごろの社会は言葉の明るい面を上手に切り取って使う。影の部分を切り落としたり、削いだりしてるので、言葉の力としては薄っぺらく、威力を持たないことがままある。「一緒に死んであげられる」、そういう生き方が覚悟無しにできようはずもなく、いいこと、いいことばっかりを重ね乗せていく不完全さ
「相手を許しがたいのは、自分が可哀想だからです。自分に申し訳ないからです。」「誰かを許す前に、許す自分を受け入れないといけない。だからこそ許すというのは難しいし、ものすごく手間がかかります。」南直哉:著「なぜこんなに生きにくいのか」第6章「人間関係はなぜ悩ましいのか」他人に厳しく当たれる人は、往々にして強く、賢い。意思の力のように本人は思っているけれど、他者、それも弱者からすると、傲慢にしか見えないし、正しい事をただ正しいからと力づくを行使してることを恥じない。「だって正しいんだから」
電車に乗る時間が長いと読み終わってしまう恐山の僧侶の南直哉さんが書かれた「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本これもKindleの中に眠っていた相棒を見送って…さぁどうやって生きていったらいいのか?ともがいていたときこの本の中にもあったけれど僧侶の方と話したいと出かけたことがありますhttps://ameblo.jp/1959-4104/entry-12737992096.html『身延山久遠寺③』ガスで全く見えないし…雲行きが怪しくなって来たので急いでもう1か所に行かな
言葉と文字は笑顔の源!産業心理カウンセラー&書道家の岡部あゆみです【悩みは身体が健康なうちにしか増えないいちど体を壊せば悩みは一つだけになるだからこそ自分の身体を敬い、丁寧に扱うこと健康でいられる今この瞬間がどれほど尊いかを忘れないでほしい】とAさん【悩みは一言に集約できるそれは、思い通りにいかないことだ】と恐山院代の南直哉氏は話されていたが本当にその通りだと思うその思い通りにいかないことの究極が病なのかもしれません自分の健康以外で悩めることは
数奇な運命を思う。釈尊・道元和尚・南直哉さんVS瑩山禅師・ネルケ無方老師これは、「運命の決定的な違い」だ、と思う。釈尊・道元和尚・南直哉さん…自分の「死の恐怖」に苦しんだ。…「釈尊と同じ苦しみ」だったので「釈尊の教え・原始仏教」に逢い、解決した。VS瑩山禅師・ネルケ無方老師…なぜ、人は死ぬのか「疑問」を追及した。…大日能忍禅師「日本天台本覚思想」の。「梵我一如のお悟り」の体験で、解決した。…バラモン教のウパニシャド哲学「ブラフマン・宇宙原理とアート
言葉と文字は笑顔の源!産業心理カウンセラー&書道家の岡部あゆみですアーティストの、ちゃんみなが次のようなことを話していた『自由なことをするためには型にはまらなきゃいけないことがあるのゴールするために、やらなきゃいけない課題ややりたくないこともやらなきゃいけないそれでやっと自由が手に入るの』私もそう思う自由というのは自分がやりたいことだと思うのだがそれをするためにはやりたくないこともたくさんしなければいけない一旦型にはまった後にわかることが個性だと思う
道元において、「言葉」で伝え、それを理解して貰う事で、受者が「死苦」から解放される。道元も、「原始仏典」を読んで、「死苦」から解放された「経験」がおありである。「お経の言葉」を解って、それで救われる。「お経の言葉」を「信じて」、それで救われる、ではない。主著『正法眼蔵』は、その言葉である。解るような解説が必要になる。坐禅をしなくても、精読で、完全に理解できる。何度も、繰り返して、読む価値がある!道元禅師は「原始仏教」である。「中国禅」ではない。『正法眼
アウシュビッツ収容所から、生き延びて、『夜と霧』・・・隠されているもの「自分を必要としている人が、世界に、きっといる」と・・・自分は、何を、求められているのか?・・・他人との間で「意味」が生まれていく。「他者」から「課せられ」ている「自己」無数の「細胞」で「自己」が生まれ、無数の「自己」で、「同胞、国家、世界」が生まれ、無数の「生物、人類など」で、「地球、太陽系、・・・」が生まれ、無数の「銀河系」で、この「宇宙」が生まれた。そして「宇宙」は、生まれ、や
南直哉著『超越と実存』南直哉著『超越と実存』(道元和尚が)解っていない、ネルケ無方さん。そして、偉大な、太祖・瑩山禅師の、「日本天台宗、達磨派」の、立派な禅僧!その結果、「道元」和尚を、「瑩山」禅師の「密教禅」で、理解しようと、しているから、南直哉著『超越と実存』の内容が、理解できない!「道元」和尚は「原始仏教」VS「瑩山」禅師は「天台密教の禅」しかし、「道元の教え」は、日本仏教史には、全く、影響を与えなかった。その「嗣法」は、若くして亡くなっ
「ネルケ無方と南直哉」の決定的な違いは、「死ぬのに、なぜ、生きる」という「哲学的な疑問」VS自己の「死苦」という「肉体的苦痛」から「逃げ出したいという悲鳴」の「相異」である。その相違によって、ネルケさんは、バラモン教・ウパニシャド哲学「梵我一如」で救われた。大日能忍、義介禅師、瑩山禅師、沢木興道老師、内山興正老師、の系譜南直哉さんは、「正伝の仏法、釈尊の教え」「諸行無常、諸法無我」で救われた。釈尊、道元和尚、僧海、義尹、の系譜この2つは、「偉大な宗教
『禅とハードル』著者メッセージ『禅とハードル』著者メッセージ『禅とハードル』の著者である、南直哉さんと為末大さんが、読者やこの本についての思いを語っていいます。2013年発売の本ですが、中身は色あせません。東京オリンピック前に、必読の1冊です。こちらから発売中です。http://www.samgha-ec.com/SHOP/200360....
https://www.youtube.com/@arigatou-358
「『共生』という言葉がはやりだが、」に続く言葉。語る禅僧・南直哉著第二章七項「なすべき」の自由、より抜粋「土壇場の仏教は、共に死ぬか、さもなくば他を助けて自分が死ぬ教えである」と南師はおっしゃる。このごろの社会は言葉の明るい面を上手に切り取って使う。影の部分を切り落としたり、削いだりしてるので、言葉の力としては薄っぺらく、威力を持たないことがままある。「一緒に死んであげられる」、そういう生き方が覚悟無しにできようはずもなく、いいこと、いいことばっかりを重ね乗せていく不完全さを
「だから教祖が「間違いだ」と指弾されてもけっして認めない。もしそれを認めてしまうと、信じた自分を裏切る事になりますから。」<問い>の問答南直哉、玄侑宗久:対談より抜粋。久々に熱中して読める本。ハラハラしながら読めます。なにかに安穏と座り込みたがる自分の弱さ、っていうと響きがカッコイーけれど、「不安定でケッコー」的発言連発の本で自分が楽したがってたんだなあと思う事しきり。「自分」がそう思ったんだから、そう思えたんだから「正しい」って人は思いたいもんだ。「自分」がそう思えただけ
「ブッダが『無記』というものを持ち出したのは、そこに対する強烈な意思があったからだろうと思います。我々が使う言葉で『不在である死者のリアリティが語れる』ということになってしまうと、それは大きなごまかしであるし(後略)」<問い>の問答南直哉・玄侑宗久:著より、南さんの言葉を引用とにかくハラハラする本でして、着眼点が自分の悶々といてたところにピタリと当ててこられるのです。テレビやラジオがお亡くなりになった人を語っても、懐かしんでも死者当人のなにがしかは含んだものではない。どこま