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8月29日の出来事708年(和銅元年8月10日)日本初の銅銭「和同開珎」を発行。prefsaitamaさんが2012/03/28に公開聖神社と和銅遺跡(秩父市)http://youtu.be/maDFOvISM8k1526年オスマン=ハンガリー戦争:モハーチの戦いハンガリーのモハーチ平原で、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。オスマン帝国軍が勝利し、ハンガリー平原へと進出する。Callistridさんが2012/04/12に公開モハーチの戦い
産業革命とイギリス・清・インドの三角貿易、アヘン戦争、これらはみんな強く関連しているけど年号とあっても南京条約くらいでなかなか詳しくやらない。日清日露戦争、世界大戦にもつながる流れなのでもう少しくわしくやるとだいぶわかってきますね。
『茶の民族誌』第4章嶺南の茶と民族p234-235「南越国、そして「蛮夷」、さらに漢族等が織りなしてきて広東省の歴史文化を、それぞれ、ときほぐすことはできないが、それらの要素が同化融合して広東省の歴史・文化が発展してきたことは、容易に想定できることである。広東省が、中国の南の玄関として著しい発展をとげるに至ったのは、清代に起きた「阿片戦争」が大きな足掛かりとなったのも事実である。阿片戦争に関わる資料は、枚挙にいとまのないほどあるので、ここで蛇足を加える必要はないが、『あへん戦争と香港』は「
こんにちは。TOSHです。今回は「鼓浪嶼[コロンス]:歴史的共同租界」についてまとめてみたいと思います。基本情報登録年:2017年登録基準:(ⅱ)(ⅳ)概要厦門(アモイ)市の小さな島。1843年に南京条約により厦門が開港し、1903年に共同租界が設立され、海外貿易の重要な窓口となった。海外からの移住者によりさまざまな文化が流入した。結果、伝統的な南福建スタイル、西洋の古典的なリバイバルスタイル、ベランダコロニアルスタイルなど、さまざまな
1843年11月17日、中英が締結した南京条約にもとづき、上海が対外開港された。南京条約とは1840年に勃発したアヘン戦争の講和条約で、清国軍がそれまでに総崩れ状態になっていたため、「香港島の英国への割譲」「賠償金の支払い」「広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港」「公行(清国側が貿易を独占させた中国側商人団、英国側は自由な取引の障害と主張していた)の撤廃」など、清国側にとって屈辱的な内容だった。締結日は1842年8月29日、発効日は1843年6月26日だった。さらに、南京条約の後には付属協
こんにちは本駒込の東洋文庫ミュージアム企画展「大清帝国展完全版」に行ってきました清朝は中国最後の統一王朝で1616年~1912年まで続きました日本ではほぼ江戸時代と重なります最近テレビで『瓔珞〈エイラク〉』という清朝乾隆帝時代の宮廷ドラマを見ましたが、イメージが補完できてけっこう楽めました企画展の前に1F常設展に立ち寄りました司馬遷「史記」の一節です羅漢中「三国演義」、「三国志演義」ともいいます演義とは小説のこと、陳寿が執筆した正史「三国志」を題材にストーリ
(第二帝政)ーナポレオン3世の時代(1)ナポレオン3世はナポレオン1世の名声と労働者・農民、ブルジョワジーの対立を利用して政権を維持した。これをボナパルディズムという。(アカデミア世界史浜島書店)具体的にはブルジョワジー(資本家階級)支持を得るために産業の保護育成や海外侵略による植民地獲得、資本家と対立する労働者階級には土木事業や保険制度の採用など社会政策を実施した。ナポレオン1世のとき支持層であった人口の4分の3を占める農民に対しては土地の所有権を保証し、カトリック教会も保護
興味も余り無いので、詳しく知らないが、全人代で香港についてナニかを決定し、トランプさんが香港にとっていた優遇措置を止めた(る)とか。「一国二制度の終焉」とかの見出しもありました。そもそも香港って、英国がアヘンを清にもちこんで、阿片漬けにして、起こったアヘン戦争の結果だ。(イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスとの間で戦争
香港と中国ってどんな関係なの?そもそも香港は中国でありながら、なぜ独立国っぽい存在なのでしょうか?これを理解するには、1842年に終結したアヘン戦争で結んだ南京条約までさかのぼります。当時の清朝はアヘン戦争に負けた事で、戦勝国のイギリスに、99年間にわたって香港の統治を約束させられるわけです。(1898年)そして、イギリス統治の最後の総督であったクリストファー・パッテンは、香港の民衆に民主主義の考え方を植え付けたんです。当然、中国は不満を爆発させていたわけですが、その後、約
現在、中華人民共和国の香港で、民主化運動が行われています。逃亡犯条例が云々というのは、枝葉の部分であり、「普通選挙で選ばれた、国民の代表者が、法律を作り予算を決め、政治を行うべきである」ということが、厳しく問われているのだと、僕は思っています。前回の投稿では、我が国の法定通貨である円(日本銀行法46条2項)の、直近の75年における歴史を見る上で、どうしても外せない出来事を3つ、書かせていただきました。香港での民主化運動の背景を考えるための材料になると思い、そう致しました。第一次阿片戦
今回は、川鼻仮条約と南京条約の時期に影響を受けたであろう人々の情報です。歴史的には、条約が結ばれたことと、条約の内容が記録されているだけで、個人的な手紙でも残っていれば、さらに詳しい状況が分るでしょうが・・・トランジット占星術では、具体的に何が起きたかは、本人にしか分かりません。ですが、ニュースで何が起きたか報じられたり、何か起きたか記録が残っていた場合は、大まかにですが想像を巡らせることができます。あくまでも想像ですよ。最近のニュースでは、カルロス・ゴーン氏も見ている途中なのですが、陥
人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。歴史は教養ですよ〜で、ただの教養にしないのが「リーダーのための歴史教室」。あなたはリーダーで、あなたが歴史を作る主人公なのです。<今日のあらすじ>清が諸外国と交わした不平等条約のことと、さらにその後もう一度起こる戦争について。度重なる戦争と敗北に農民たちはもうヘトヘトになっていました。アヘン戦争のあと締結した、不平等条約、南京条約。その
前回のブログでは、日本がアヘン戦争に負けた清朝中国と同じように、近代産業の発展を妨げるひどい貿易条件をアメリカとイギリスによって飲まされた、という話をしました。今日は、そのように日本が押し込められた原因となった、「このままでは日本が列強の植民地にされてしまう!」という恐怖が、実は列強から植え付けられた根も葉もない幻想であった、という話をします。1840-42年のアヘン戦争の結果、勝利したイギリスは南京条約で面積わずか80平方キロの香港島を獲得しています。しかしイギリスは当時すでにアメリ
私は自分の体調上、感想・質問・コメントなどをフェイスブックで窓口を一つにして頂戴しております。前回のブログでフェイスブックや個人的な質問・メッセージを多くいただいたので、今回はアヘン戦争についてもう少し綴ってみたいと思います。現代は「第2の帝国主義時代」と言われています。そもそも「帝国主義」とは何でしょうか?欧米列強の世界侵略と植民地化の動きのことを言いました。輸出市場・資源供給地を求めました。海外に進出することは、国内問題から目をそらさせるのに非常に都合のよいものでした。