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過去はいらない、今の貴方がいればいい。これからが大事、ボクの新しい過去、示唆してくれる大切な言葉に思いを馳せます。過去の記憶が無いということは、ほとんどの私たちは体験できないことだし『懐かしい思い出』が消えてしまったら悲しい気もします。それでも、どんどん忘れていきます。覚えているとかなり確信していたのに、あとから調べてみると記載されている内容と記憶に大きなズレがあったりします。えっ?ずっとそうだと思いこんでいたことは違ったの???なんてことがあったりします。過去の思いでの上に今
2021シーズントップチームスタッフ新体制について日頃より、ちふれASエルフェン埼玉に温かいご声援をいただき、誠にありがとうございます。この度、ちふれASエルフェン埼玉は、2021シーズンより新監督に元日本女子代表選手である、半田悦子(はんだえつ…www.as-elfen.co.jp
第一回女子ワールドカップまで、あと3か月。イタリアから戻って5日後には代表チームの合宿が京都であり、続いて茨城の鹿島、静岡のつま恋、岐阜と続き、合宿ざんまいの日々でした。岐阜の合宿中の出来事です。宿泊していたホテルで、同部屋の半田さんとくつろいでいた時です。突然、非常ベルが鳴り響きました。何事?とびっくりしているところへ館内アナウンス。「ただ今、はっぽうしました。調査中です。」「はっぽうって何?ピストルとかの発砲の事?」「やだぁ~、ヤクザの抗争でもあったのか?」「
岡山合宿の最終日に、プレーでも精神的にも文字通り中心だった木岡さんが、骨折で戦線離脱してしまった代表チーム。岡山で解散後、3日後福岡に集合です。私は移動時間がもったいなくて、母の実家、佐賀県唐津の祖母の家に滞在させてもらいました。呼子で船に乗ったり、髪を切りに行ったり、映画観で『プリティウーマン』を観たりと、思いっ切り、3日間リフレッシュして過ごしました。1週間ほど練習した後、第8回アジアカップ、第一回ワールドカップのアジア予選が始まります。第一戦は北朝鮮でした。どんな大
1987年12月に開催されたこの大会。4年前に台湾でやった大会と同じだった様です。私にとってレギュラーで試合に出られるようになった思い入れの深い大会です。直前合宿は初めての沖縄でした。なんか、軽井沢と言い、沖縄と言い、素敵な所へ行けるようになってすごく嬉しい♪りっぱなホテルに泊まり、美味しいものをたくさん食べたんですもの。徐々に待遇が良くなってくるのを実感します。台湾も、もう3回目だったので、すっかり台北の街は、道も覚えちゃったくらい。外国に3週間も居ると、みんな日本のも
イタリアのイェゾロで、イタリアの友人たちと泣いて別れを惜しんだというのに、拍子抜けしてしまいます。まぁなんとイタリアと縁がある事でしょう。その2ヶ月後に日本でイタリアチームを招いての親善試合、西友カップが開催されることになったのです。もっと早く分かっていれば泣かずに済んだのになぁ…。西武セゾングループの「イタリア・フェア」の一環でした。第1戦は東京北区にある西が丘競技場で行われました。試合前、ジャコ達との再会を喜び合いました。ジャコは右サイドバックで出場していたので、ツートップの1角だ
大会の会場になるベネチアのJESOLOイェゾロ(私たちはジェソロとその時呼んでいた)は、リド島とブラーノ島のちょうど真ん中にあります。飛行機からバス、船にも乗り継ぎ、たどり着いた記憶があります。水の都ベネチアのイメージとは違い、ロングビーチのある素敵なリゾート地でした。まさか、そんな所とは知らず…「水着を持ってくれば良かったぁ」とみんな悔やんでいましたよ。空気が乾燥しているためか、日本よりも景色がくっきりしていて、海の青、空の青が鮮やかです。ビーチ沿いにたくさんのホテルやバールと呼ばれるイ
天津国際大会の中止を受けて、急きょ1月にインドネシアで行われる国際大会への参加が決まりました。参加国を聞くと、地元ジャカルタの3チームにインドと日本を加えた5チームと言うじゃありませんか。なんとも物足りないと感じたのは私だけではなかったハズです。それでも、中国や台湾以外に行くのは初めてでしたし、寒い冬から南国へ行けるっていうのが楽しみでした。事前合宿を検見川で4日間やってからインドネシアに行くのですが、事前合宿中にGKの古木さん(宮城広瀬高校)が突発性難聴とかいう事でインドネシアに
西安国際大会の2ヶ月後、1984年12月に、すぐまた台湾で国際大会がありました。台湾は初めてなので、どんな国だろうと楽しみにしていましたが、あまり外国へ来たという感じがしないほど、日本語も通じるし、雰囲気も日本に似ている国でした。物価も日本とほどんど変わらなかったので、ちょっと残念。だって、中国だったら欲しい物ほとんど買えちゃうくらい安かったから(笑)それでも買い物はいろいろと掘り出し物を見つける事が出来て、楽しかったなぁ。服とか時計とかいろいろ買いました。この大会では、西安の
路上でアイスを買って食べたその日、夜中にお腹が痛くなって、トイレに駆け込みました。ひどい下痢でした。何か食べれば、トイレに駆け込むことになり、帯同のドクターから薬をもらい、しばらく何も食べられずに寝込んでしまいました。力が入らず、歩くのもふらつく状態です。そんな時、開会式を迎えてしまいました。「どうする?行けそうか?休んでいてもいいぞ。」と聞かれましたが、全く歩ける気がしないし、とても長い時間立っているなんて無理。ホテルのベッドで一人さみしくお留守番する事になってしまいました。この大会、
1981年、私は中学生となり、東京都リーグは、この年に8人制から十一人制に移行します。立ち上げたばかりのFC小平は、残念な事に登録が間に合わなかったという事で、参加出来ませんでした。この年、第1回だった東京都選手権(トーナメント戦)には出場する事が出来ました。トーナメントというのは、リーグ戦と違って負けたら終わりです。初戦で強豪の三菱養和と当たります。大人のチームと対戦するのはこれが初めてでした。キーパーは日本代表の長谷選手でした。ボロ負けするかと思いきや、どうにか守りきっ
私が中学1年だったある日の朝、朝食を食べようとリビングに入ると、母が「かおりが観に行く試合の事が今朝の新聞に載ってるよ」と教えてくれました。へぇー、女子サッカーも新聞に載るんだ~と早速手に取ってみると、『女ペレエリザベッタ・ビニョット』という見出し。外国人のかっこいい女の人の顔写真入りでした。そもそも、小学4年生でサッカーをはじめてからこの時まで3年間、女子サッカーの話題がマスコミに出たのを見たことがない。日本で初めて女子サッカーが脚光を浴びた時かもしれません。19