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第19代義智万松院殿のお墓🙏他と比べても、質素な作りでした😳歴代の宗家のお墓があります🙏下に降りて来ました👩🦯先程見学した、本殿です☝️少し歩いて、名勝旧金石城庭園👀江戸時代に作られ、江戸時代に遺構だった庭園🤔山の上にはお城もあり、城跡も残っています🏯李王家宋伯爵家御結婚奉祝記念碑💕🔔1931年に建てられ、その後離婚、撤去されていたが、2001年に復元されたそう👀韓国からの観光客の方々が、写真を撮ってましたので、有名なお話なんでしょうか🤔朝鮮通信使が、来ていたんですね
前回の記事もご覧いただきありがとうございます『【LanLanんぽ】台東区立一葉記念館①』『【LanLanんぽ】本郷菊坂下通り樋口一葉旧居周辺』LanLanんぽは、もっぱら午後です午前中は、まだ頭が動かないからさて、ある日の午後▲昭和にタイムス…ameblo.jp『【LanLanんぽ】台東区立一葉記念館②』『【LanLanんぽ】台東区立一葉記念館①』『【LanLanんぽ】本郷菊坂下通り樋口一葉旧居周辺』LanLanんぽは、もっぱら午後です午前中は、まだ頭が…ameblo.jp
🌕分けのぼる道はよしかはるとも、終つひには我も人もひとしかるべし。樋口一葉(「につ記」より)のぼっていく道のりはたとえ違っても、最後にたどりつくところは、自分も人も同じだろう。樋口一葉は日記の中で何度も恋について自問自答していますこれも恋について書いた文の中の言葉真実の恋の姿を極めることは、霊山の山頂にのぼるようなものだと述べたあとにこの言葉が続きます恋に限らずどんな道についても言えることだと思いますがきわめる方法はいくつでもあるということです
名作の語りべ芙美のブログにお越しくださいましてありがとうございます樋口一葉「日記」をYouTubeにアップしておりますので下のサムネイル画像をタップしてお聞きくださいませ今後ともどうぞよろしくお願いいたしますスタンドエフエムにも朗読をアップしておりますそちらものぞいていただけると嬉しく思いますスタンドエフエム母方の祖父の蔵書だった「一葉全集」譲り受けて大切に読んでいます一葉日記は一葉が16歳から亡くなるまでの10年間に記した生活記録です
今日8月18日は「九州から関東は晴れるが、局地的に雷雨の所も。東北は天気が回復するが、太平洋側の海上は波が高く注意が必要。」との予報。千葉(北西部)は「北東の風のち南東の風曇時々晴」とのこと。「日中の最高気温の高い方から」は、兵庫西脇39.2℃、広島加計38.7℃、岐阜美濃38.4℃、高知江川崎38.1℃、和歌山かつらぎ38.1℃、愛知豊田38.1℃、・・・、千葉千葉33.3℃とのこと。『雪加(セッカ)鳴き端居にとほき波きこゆ
今年のNHK大河ドラマ光る君へが始まってもう、23話が終了(画像はお借りしました)ドラマは紫式部、いよいよ結婚か❗💞の展開❗清々しかった道長も己の家の繁栄の為の手腕を発揮してきていて、毎回、翌週が楽しみに成ってきたが、私にはストーリーの流れとは別にそのシーンがある度、ストーリーから引き離され、失笑してしまうシーンがある🤭🤫🤐それはまひろが琵琶を奏でるシーンだ❗私の中では“奏でる”とは程遠い感じで母の死を悼む時でも道長を想
最後を除いた十通は大きく二期に分けられる。前半に当たる二十七年半ばまで、一葉の思惑は投資の指南、と言っても資本がない以上、経済的な援助を合わせて受けることであった。つまり久佐賀を一廉の人物と見込んで歌道なり文学なりへの後援を望んだのである。一方の久佐賀は対価として一葉の身柄、つまり妾となることを求めた。発端は一葉に在るにせよ、この六月までは寧ろ久佐賀が積極的に迫っているように見える。一葉が久佐賀の求めに応ずることを潔しとせず、身を躱したことで両者はすれ違い、交渉は六月で中断したとみられる。
藝大美術館の「大吉原展」を見てからというもの、吉原という場所が夢の舞台などではなく、ちょっと電車に乗ればたどり着ける場所に確かに存在したのだ、、、と実感。その感覚が薄くなる前に、、とばかり吉原界隈の生活が鮮やかに浮かび上がる樋口一葉「たけくらべ」を読み始めました。現代訳と原文が交互に出ていて、かつ時代背景的解説が載っているすぐれものの一冊が読みやすく、便利です(文末に当該書を紹介)。一時期吉原界隈に住んでいたという一葉。吉原独特の空気感を思う存分本作に取り込んでいます。
なにか勉強したいな、という気持ちがあったんですね。どの「何か」にしようかな、なんて、考えるの楽しい。文学も、なんでもよかったのですが、どういうわけか、一葉さんに呼ばれた感じがする。☆「選ばなかったこと」って、あとあとまで気持ちに残るってこと、ないでしょうか。「こっちの道に行ってたら、私、どうだったのかな」とかって。成就しなかった片思いについて、そういうことは思いませんが、告白されたのに断ってしまった人のことって、私は結構、忘れられない。
冒頭の2枚の写真は2019年湯島天満宮での「菊祭り」の写真です。(今年はまだ行っていません。今年の菊人形は大河ドラマ「どうする家康」がテーマとのこと)菊人形の発祥の地は本郷に近い「千駄木・団子坂」と言われていますが、一葉さんの住んでいた「菊坂」近辺、多くの農民が菊を育てていたので、この坂には「菊坂」という名前がつけられたとか。多くの文士達が宿泊したという「菊富士ホテル(菊富士楼)」という、「菊」のついた名前の有名なホテルもあったとか。大正3年開業、大変モダンなホテルだっ
名作の語りべ芙美のブログにお越しくださいましてありがとうございます樋口一葉【日記】その二をYouTubeにアップしておりますので下のサムネイル画像をタップしてお聞きくださいませ今後ともどうぞよろしくお願いいたしますスタンドエフエムにも朗読をアップしておりますそちらものぞいていただけると嬉しく思いますスタンドエフエム一葉から桃水宛の手紙(一葉記念館蔵)桃水からの一葉あてのはがき(一葉記念館蔵)桃
吉祥寺を出て本郷通りを南へ歩きます。養昌寺というお寺にやって来ました。境内にポツンと枝打ちされた公孫樹の木が立っています。足元には謎の石像。庚申塔ではなさそうですが、正体不明なほど風化しています。境内がこうして舗装されていると、余計に殺風景な印象は否めません。檀家が車で来るから仕方ないんでしょうけどね。本堂の前に立つお地蔵さんは正月バージョンですね。いったい日本には何体のお地蔵さんがあるのでしょうか。人の数ほどとまではいかずとも、100万体ぐらいはありそうですね。私たちが「運
樋口一葉生誕150年である2022年の一葉忌ということで、パンローリングのオーディオ制作担当のJ・T氏が力を尽くしてくださいまして、樋口一葉日記〈その一〉に続いて、〈その二〉も連続の発売となりましたありがとうございます。本当にうれしいです「樋口一葉日記その二」→朗読サンプル※サンプルは「筆すさび」「よもぎふ日記二」「森のした草」の一部を3分ほど配信・購入はこちら→でじじ「樋口一葉日記その二」ダウンロード版Amazonオーディブル→「樋口一
白山上から本郷通りを駒込方面へ曹洞宗のお寺、養昌寺の門前左脇に「半井桃水の墓」文京区教育委員会の案内板半井桃水は、対馬藩藩医の家に生まれ東京朝日新聞に入社新聞に連載小説を書いたり、日露戦争従軍記者として活躍したそうです小説家になりたかった樋口一葉は桃水の元を訪ね、教えを乞い「一葉」というペンネームは、この頃から使い始めたそうです桃水は一葉に毎月いくらかのお金を融通していたそうで二人は恋愛もしくは愛人関係であったのではとも言われていますもしかしたら貧しい一葉
海恋紀行(わたしの旅ブックス)Amazon(アマゾン)374〜3,833円海恋紀行(わたしの旅ブックス35)[森まゆみ]楽天市場1,210円すでに絶版になっている著作の中から海辺の紀行をまとめた内容です。なので震災前の三陸も出てきます。巻末に初出一覧がありましたが、それぞれの文章の頭にそれが欲しかったと思いました。時間感覚がおかしくなってしまうからです。それでも味わいがあり博識で、引き込まれる内容です。行く先々で、その土地とこ
それほど世に知られていないけれど、通な人は知っているマイナー有名人。実はすごいことを成し遂げていたりする。そういうマイナー有名人のお墓を訪ねるのが好きです。変な趣味かなあ?(笑)確かにこういう人が生きていて、こういうことやったのだなあと思いながらお墓を見ていると、なんだか感動するのです。たとえば・・・◎高島秋帆(たかしましゅうはん)江戸時代幕末の西洋式の砲術家。高島流砲術の創始者。一時期は牢に入れられたりしたのだけど、後にペリーの黒船が来てから砲術で幕府に仕えるが、攘夷の無謀さ
Nowakowski:PianoQuintetinE♭major,Op.17人の生死とは「はかない」ものだというか「あっけない」というか。一見毎日の生活が永遠に続いて行くように感じられても、それは何かの拍子で突然終わってしまうのだ。たとえその覚悟をしたとしても、なかなかその緊張感を持続できるものではない。年末に届く喪中欠礼のハガキも、差出人が本人ではなく家族の方で、そのご本人は何カ月か前に亡くなっていたのを知らされるのは、いつもちょっとしたショックになる。コントラバス奏者のF
今日もいい天気の対馬午前中はいさりび公園でまめと遊び半井桃水生家跡に作られた半井桃水館でランチを食べる。半井桃水って樋口一葉の師匠?(ごめん、よく知らない。。。)建物の中は資料館だったり図書館だったり食堂だったり多目的ホールっぽい。まんまや御膳これで650円はお安い?!美味しかった〜♪ご馳走様でしたo(__*)o
半井桃水(なからいとうすい)。長崎県対馬出身の小説家。幼少期を釜山で過ごし、長じて東京へ。新聞社で小説記者として働き、そのうちのひとつ、朝鮮を舞台にしたものがヒット。朝鮮人気を起こす。今でいう韓流ブームかな。しかし、300編ほどの作品を読む人は今日ではいない。と、酷評。この人の小説つまらないんですね。(読んだことないですが。不味いよ、と言われたみたいに一口食べてみたいです。)作品は全く捨て置かれていますが、この方がいなければ、あの作家は大成しなかったか
~五千円札でご存知の樋口一葉は、~~森鴎外や幸田露伴からも高く評価されていました。~~明治五年、父樋口則義と母多喜の次女として~~現在の東京都千代田区に生まれました。~~本名は奈津。~~士族だった父は、推新後東京府庁の役人となり~~一葉は、中流といえる暮らしの中で育ちました。~~幼い頃から向上心が強く、十四歳の時小石川にあった中嶋歌子の~~歌塾「萩の舎」に弟子入りし和歌や古典を学びました。~~しかし、十七歳で父を亡くすと、戸主として一家
以前、ブログで知り合った先輩の方に樋口一葉の「奇跡の十四カ月」についてコメントを書き込みました。「奇跡の十四カ月」とはhttps://muchacafe.hateblo.jp/entry/2017/09/14/002514樋口一葉のイメージは気が強く、私にとっては坂本龍馬の奥さんであったお竜さんのようなイメージです。けれども同時に彼女からは弱いものに対する優しい義侠心のようなものも伺えるのです。樋口一葉は常に生活に困窮しており、その為安い家賃を求めて酌婦街(私娼窟)に住むようになり
厳原八幡宮神社から通りを挟んだ地区へ。中村地区と呼ばれ、寛文年間(1661〜1673)に武家町として整備されたものです。今も遺る石垣や武家門が往時を偲ばせます。中村地区武家屋敷通り(長崎県指定まちづくり景観資産)対馬は石の文化。美しい色味の調和を魅せる石垣。宗義智公之像対馬藩初代藩主・宗義智の銅像。宗氏は関ヶ原の戦いで西軍につきましたが、徳川家康から朝鮮との国交回復を命じられ、その代わりに所領は安堵されます。けれど、正室の小西マリアは、
・樋口一葉本名奈津(なつ、夏子)。14歳で歌塾「萩の舎(はぎのや)」で中島歌子に和歌や書道・古典を学ぶ。15歳で兄泉太郎を肺結核で、19歳で父を亡くし、一家の主として家計を支えるため小説家を志し半井桃水に弟子入りする。翌年、出世作となる「闇桜」「うもれ木」を発表。その後、「文学界」同人たちと親しくなり、彼らから悩みや苦しみを打ち明ける手紙を受け取る。21歳で吉原遊郭の近隣に駄菓子屋を開業、翌年には本郷の銘酒屋街へ転居するという不安定な生活を送る中、これら底辺に生きる女性達に鋭い眼差しを向
半井桃水と麹町平河町樋口一葉対馬
竜宮小僧もっと知ろう中心街の「出没」事業PR浜松@S[アットエス]by静岡新聞浜松市中区の浜松出世の館で、浜松商工会議所と静岡文化芸術大が市中心街で展開している「竜宮小僧プロジェクト」をPRする展示会が始まった。18年1月31日まで、北区引佐町に伝わる人助けの妖精で大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場した「竜宮小僧」の伝説やプロジェクト内容を紹介するパネルなどが飾られている...おすすめ紅葉スポット〜神宮外苑・東京〜ウェザーニュース明治神宮外苑は、明治天皇と昭憲皇太后
2日目。今日は午前中は厳原散策、午後はアートフェスタへ行く予定。厳原の中心部、ランドマーク的建物がティアラというショッピングセンターで、その1階に島唯一のモスバーガーがあります。ティアラの道を挟んで向かい側が、観光案内所で、ロッカーやトイレ、展示室、レンタサイクル、食事処、お土産屋さんなどあります。しかし噂には聞いていたけど、韓国人観光客の数、すごかったです・・・!道歩いてる人の8割は韓国人じゃないの?って言っても過言ではないほどの数です。
対馬・厳原(いづはら)散策「武家屋敷通り」の案内板が目に留まりました行ってみます!この道を入るとすぐ宗義智の像がありました宗義智(そうよしとし)対馬領主・宗家20代当主初代対馬藩主←漢字ばっかりだよ!対馬のために生きた義智像を過ぎると何とも静かな小路が続きます門の前に石碑が立っているこの家何だろう~小説家・樋口一葉の師匠半井桃水生誕の地樋口一葉の師匠半井桃水(なからいとうすい)って!?家は藩医で代々宗家に仕えた父の任地・釜山の倭館で働いたのち上京東京朝
《樋口一葉》【NeufLesMilleetUneNuits=ヌフレミレユンヌニュイ=ニュー千夜一夜物語No.16】昔、樋口一葉の朗読劇《たけくらべ》を聴きました!独演会でしたが、悪くはないと思いましたが、最初におばさんが桃割れみたいな髪形で、娘の扮装で出てこられた時には戸惑いました?御一緒した方によると、中々声が綺麗だと言う事でした!長年の役者生活で美声を保つのは大変な事で、発声がとても大切なのだと教わりました❗ところで、作者の樋口一葉(ひぐちいちよう、1
22日の夜から23日の祝日にかけて酉の市他、3ヶ所ほどを見て廻ってきた。(勿論、十一月二十三日が新嘗祭であることは忘れていない)浅草の酉の市といえば、鷲神社とそのお隣の酉の寺・長國寺写真は鷲神社一番太鼓が打ち鳴らされる午前零時前に到着したが既に参拝者が長蛇の列をなしていて1時間半並び続けようやくでした。・鷲神社お酉様天日鷲命日本武尊を祀る今年は二の酉まで。酉の市の発祥は花久村(現足立区)の大鷲神社で、農民が秋の収穫を祈って鷲大明神に鶏を奉納したのが始まりとされ、ヤマトタケルが東