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ACPでの自己決定では、「関係的自律」が、きっと意図的に無視されています。そのことは患者さんは誰もが感じていて、それでも「我慢して」医療者とつきあってくれているのではないでしょうか。「自立」「自律」「自己決定」などという言葉は残酷なものなのです。人間だれしも自立/自律などできるはずがないのに、こうした言葉の下に「選択」の責任が患者一人に負わせられます(新自由主義です)。「賢い患者になる」だけでは、対応しきれないことです(「賢い患者になれ」と言われれば、それ自体ある種の「抑圧」です)。
患者さんは医療の主人公です。でも、それは自律/自己決定という言葉に押し込められることとは違います。「自分の意思」などというもの自体が錯覚です。自分の考えは、暮らしている社会・集団/周囲の人々の規範的な考えに「支配」されています。自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられて」います。自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題
「ある自治体のACP啓発イベントの講師は、ACPを「人生の最後にワガママをいう機会だ」と参加者に語りかけた」という事例を児玉真美さんが書いていました(『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023)。もちろん、児玉さんはこの事例を好意的に紹介しているわけではありません。こうした言葉でシロウトを「説得」しようとする姿勢を、鈍感と言うべきか、傲慢と言うべきか。「ワガママ」という、もともとは否定的な意味で用いられる言葉を安易に使ってしまう無神経さも(もちろん、肯定的な意味で使う場合
「行動変容」という言葉があります。しばしば、それがコミュニケーションと結びつけられて、コミュニケーションの目的(成果)のように語られます。確かに、糖尿病や高血圧などそれまでの生活習慣を変えるほうが良い場合はあるでしょう。でも、効果的に患者さんの行動を変えるためのコミュニケーションという考え方は、順序が逆ではないでしょうか。良いコミュニケーションから生まれた信頼関係の先に患者さんの行動/生活習慣が変わり、結果的に「良かった」ということはあり得ることです。だから医療者がまず考えるべきな
「人の本性が見えるときは「疲れたとき」でも「去り際」ではありません。本当に見えるときは「権力を掴んだとき」です。昇進後に性格がガラッと変わって、急にいじわるになる人はこのパターンです。」(あるツィッターから)私も、何度もそのような人を見てきました。急に変わるというより、それまでも「権力的なところがある」と感じていた人の、その性格が全面的に「開花」するのです。疲れた時に「本性が表れた」と感じさせられる場合がないわけではありませんが、どちらかといえば疲れは「言いわけ」です。医者は、
カイトウさん@teteatete2021内科医師です過去ログに何度も書きましたが「コロナワクチン接種後に急激に癌が進行する」例が間違いなく存在しますこの眼で何例もみました接種済みの方は要注意です特に癌既往のある方は早めの再検査など慎重対応を推奨します。主治医に相談してください。なお、この件を投稿すると、論文、データ等の証拠を求める方がいますが、特にないです。内科医が、患者を数多診る中で自分の経験を踏まえ「肌感覚で感じた異常」に
もう一つ、竹内敏晴さんの言葉から。「本来「悲しい」ということは・・・その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「哀しみ」は「怒り」にきわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。」(『思想する「からだ」』晶文社2001)医療の現場では、たくさんの「怒り」に出会います。患者さんだけではなく、医療者にも「怒って」いる
関東労災病院での講演では、「話しかける」ということについて何度か触れました。あわせて次のような言葉を紹介しました(このブログで、これまで何度か引用したものです)。先だって別の病院での講演の後で「どのように教育すればよいでしょうか」と質問されました。「ここまでそのお話をしてきたつもりですけど」と思ったのですが、きっと話が簡潔でなかったのだと反省して、あらたにまとめのスライドを作り、これらの言葉を紹介することにしました。「誰かに本気で興味をもったら、人は自動的にコミュニケーショ
私の若いころと比べれば、医者が患者さんに説明する時間も長くなりましたし、内容も豊富(膨大)になりました。わかりやすいようにと心がけてもいるようですし、一生懸命説明しています。この50年の間に、ずいぶん変わりました(患者さんたちが声を挙げた成果です)。とは言え、50年経っても「まだ、こんなものか」と思わされることも少なくありません。「説明が足らない」「言葉が難しい」「上からの一方的な説明」と患者さんから指摘されることは少なくありませんし(そのように感じている人はきっと、もっとずっと多い)
これは文字通り、私たちが学校で学んだ医療倫理のすべてに反している。TexasChildrensは、非科学的であることは言うまでもないが、基本的な医療倫理に違反している!ThisliterallygoesagainstEVERYTHINGwelearnedaboutmedicalethicsinschool.@TexasChildrensisinviolationofbasicmedicalethicsnottomentionunscientif
いろいろなサイトで「困った研修医」がいくつも挙げられています。なかには本当に困っただろうなと思わされる例もありますが、病院のあり方がその事態に多少なりとも責任があると感じさせられるものの方が多いような気がします。指導医から「困った」と見える人の中に、「優等生」とは違う秘められた力を持っている人たちがたくさんいる筈です。指導医から「困った」と言われがちな資質の人が、案外患者さんに近いところにいる場合もあるのかもしれません。もちろん、指導医を「困らせない」研修医も、そつなく/優秀に研修
研修医の採用面接ではグループディスカッションをしてもらっていましたが(武蔵野赤十字病院の長い伝統で、今も続いています)、若い人たちは初対面であってもディスカッションすることが上手です。とは言え、表面的に仲良く話すことが上手という感じもして、「合コン世代のためなのかな」と年寄りは勘ぐったりしてしまいます。学生たちはどうしても「目立ってはまずい(変に目立つよりは無難に済ませたい?)」と思いますし、試験では「和やかに話し合いができる資質を持っているか」1)が見られると思っていますから、努力し
事務職員や看護師への教育をしっかりすれば良いのでしょうか。少なくとも採用面接では、きっとわかりません。接遇を教育できる医者はそんなに多くは無さそうです。形も教育できないし、ましてや接遇を支える“心”を伝える医者はとても少ない。いまだに「医療はサービス業ではない」と堂々と言う医者さえいます。「サービス」を、ただ相手に「へつらう」ことのように考えているのかもしれませんが、良いサーバントは相手の人にとっての最適な/最善の状況を、不快な思いをさせることなく(快適な思いをしてもらって)提供する人
googlemapで地図上の診療所や病院名をクリックすると、その病医院についての評価コメントを読むことができます。そこではしばしば「医者は良いのだが、事務職員の態度が悪い」というコメントに出会います。本当に、そんなにどこの病医院にも態度が悪い医療事務の人がいるのでしょうか。最近は医療事務の界隈も人手不足のようなので、そのためもあるのかもしれませんが、ずいぶん前から書かれています。そこには、期待値の違いがあると思います。医者は、もともとそんなに「良い」態度をとるとは期待されて
一人の病者にとっての医療者とは、医学知識を持ちながら、その人が物語を書き直す1)過程で味方になってくれる人である。病者にとって、自分の病いの専門家とは、「どんなときも、自分が自分らしく生きられるように」いつも、最後には必ず自分の味方になってくれる人である。当の病者の味方にならない人は、どのような学歴を持っていようと、研究者として高名であろうと、“その人”にとっては専門家ではない。言い換えれば、ケアとは、徹底して病者の味方であろうとする人によってのみ担われる。いざとなったら絶対に頼れる、
私たちにできることは、その人なりの人生の流れとしてその人の思いを最大限に尊重し、病者の自己正当化・自己肯定の物語を書く過程を妨げないことであり、少しでも書きやすいような状況を作ることである。病者はこの過程を孤独に、自分一人で成し遂げるしかない。病者が望むことは、医療者を含む他人が自らの危機管理(=物語の書き直し作業)の障害にならないでほしい、医療者の価値観を一方的におしつけないでほしい、自分の思いや自分の歴史を否定するようなことを言わないでほしいということである。このようなことから守ら
病者のありようをできるだけ好意的に受けとめ、その人の望む方向に沿って手を添える姿勢は、「病者を客観的に見るという科学的態度」とは相容れないものと言われるかもれない。「主観-客観」というのは哲学の最も大きな問題だが、このような場合の「客観的」という言葉は「相手を突き放し、特別の感情をもたずに、相手のことを考える」という程度の意味で用いられることが多い。だが、この「特別の感情をもたずに」という言葉の底には、悪意ないし敵意が潜んでいる。病者という人間を対象化して分析して、医療者間の共通の認識
病者を「肯定的に受けとめる」という姿勢は、病者を「甘やかす」といわれることがある。だが、“甘え”は人と人との円滑な関係を保つことを付き合いの基本とせざるをえない狭い島国、とりわけ病いを介しての人間関係においては、きわめて重要な要素である。岸田秀は日本人にとっての甘えはあらゆるポジティブな関係の基盤であると言い、木村敏も甘えを日本の対人関係の基本属性として肯定的に評価している。(岸田秀『幻想の未来』河出書房新社、1985.木村敏『人と人との間―精神病理学的日本論―』弘文堂、1972)人
23日に書いた、看護教員が引用して下さった『ケアの情景』(医学書院1996)の、もともとの文章を掲載します。一部加筆してあります。内容的には、これまでこのブログに書いたことと重複しています。肯定的に受け止める医療者とは、病者の心と言葉や行動のうごめきをトータルに肯定的に受けとめ、支持し、見守り、手助けようとする人である。「精神療法家というものは、傷つき悩むクライエントにとって最後の『自由』を守る空間と自由を保障する人間の一人なのだ」と山中康裕は言うが(『少年期の心』中公新書、1978
本を出したおかげで、何度か思いがけない出会いがありました。研修医たちが福岡敏雄先生(現:倉敷中央病院副院長/当時は名古屋大学)を自主的な研修講義の講師にお招きしたので、「始めまして」とご挨拶したところ「ご本(『子どもの病む世界で』ゆみる出版1983)を読んでいました」と言っていただき、恐縮してしまいました(2005年前後/その後何度かお目にかかりました)。いつも診察している喘息の子どもが旅先で発作を起こし、救急病院を受診したとき、かかりつけ医を尋ねられ私の名前を言ったところ「(日下
まぁ、相変わらず鈍臭い日々は続いております時間が解決してくれることもある。そう思って、焦らないことも大事だなぁ…っ思う最近ですさて、タイトルの「医療倫理」医療倫理の4原則↓ほうほう、そんなものがありましたねぇ(国試に出ますよ!笑)うちの病棟で、うちのチームで、今度病院の倫理委員会へ議題として出すから、看護師のチームとしての意見を出してほしいと言われました。医師が病状説明を患者の家族にしました。元々は脳梗塞後のリハビリ、退院調整目的での入院の患者さん。経鼻胃管が入っています。
1-8までで書いたことは、ずいぶん昔の話です。あのころは慢性疾患で長期入院の子どもがいっぱいいて、院内学級にもたくさんの子どもたちが通級していました。子どもたちは、しばしば「徒党」を組んでいました。しかし、今では急性期病院の武蔵野赤十字病院には慢性疾患で長期入院する子どもたちはわずかになりました。以前なら長期に入院していた疾患でも、入院期間は短くなりました。そもそも、子どもの数も少なくなりました。それでも、短い入院生活であろうと、子どもたちにとって入院がファンタジーの時間であることは変
M.エンデの『はてしない物語』(岩波書店、1982)の中で、“幼ごころの君”はその国の危機を救う少年アトレーユに言う。「ファンタージェン(幻想世界)と人間界の境を越える道は2つ、正しい道と誤った道とがあるのです。ファンタージェンの生きものが恐ろしい方法でむりやり向こうにひきずられていくのは、誤った道。けれども人の子たちがわたくしたちの世界にやってくるのは、それは正しい道なのです。ここにきた人の子たちはみなこの国でしかできない経験をして、それまでとはちがう人間になってもとの世界に帰ってゆ
子ども一人一人の中には、それぞれ別の時間が流れている。一人の中でも、一秒一秒が違う。病気になるということは、もともとそうだ。それぞれの時間の中で、今という時を紡いでいる子どもたちを僕たちはそっと見守っていくしかない。からかわれ、「叱る」ことを笑い飛ばされ、こちらの頼みを無視され、それでもともかく「見捨てることなく」見つづけていくオトナである以外に私たちのありようはない。異次元の世界に生き、常ならぬ時間の中を生きぬいて、その楽しさ(そして怖さ)を体験することが、きっと将来のために一番大
入院という魔法の時空の中で生きる子どもたちの世界は、成長発達を直線的に上昇していく過程とみれば一時的停止であるかもしれないが、その非日常的な時間を楽しく生きることで、子どもの世界が水平方向に大きく広がり、その生が多重性を獲得していくという意味では、大きな展開であり発達である。子どもたちの生は、病いをとおして広がる。そのとき彼らは、この病院というファンタジーの世界を、登場人物として遊泳しているのである。意識するとしないとにかかわらず、僕たちもファンタジーの登場人物である。だが、ここがファン
床頭台の引き出しに薬をいっぱい貯めていたという武勇伝を持つ腎炎のマモルが、ある日、寂しそうに看護婦控室の入り口にじっと立って、話している僕たちを黙ってみていた。「どうしたの」と何度も尋ねると、やっと彼は「おにぎりが食べたい」と言った。治療食で塩分をかなり厳しく制限されていた彼は、おにぎりなども食べてはいけないことになっていたのだが、塩分制限が必要なことを話しても彼は「どうしても」とがんばった。「ねえ、中に入れるものがないよ。辛いものはだめだし、それにここには何もないのよ。あのドロップく
子どもたちにとって病気で入院して過ごす時間は、それまでの日常とは全く別の世界に生きる時間だ。死をかいま見たとき、人間が生きるとはどういうことなのかと言う問いが、年齢に関係なく覆いかぶさってくる。死の影は子どもにも生を問うし、生がまだ短くきゃしゃな分だけオトナ以上に子どもは翻弄されるかもしれない。子どもたちにとって、入院で体験するこの非日常的な時空を生きることは異界(それは冥界に通じる)を翔けぬける時空だ。だが、死の影を感じ取らなくとも、非日常的な時を過ごすということは、どこかで死と
マリは、激しい悪痛で入院した。大量の腹水を抜いてみたところ、大きな卵巣腫瘍が見つかった。外科の若い医師に「1年くらいしかもたないでしょう※1」と言われてあわてたのか、母親は中学1年生のマリに『あんた、癌なんだってよ』と言ってしまった、僕はことさらに彼女に病気のことを言わなかったが※2、後になって「私の病気、大変な病気だったの?」と彼女が訊いてきた時には、「うん、あんな病気でこんなに元気になるのは珍しいから、君は運が良かったんだよ」と答えた。「一緒に遊んでいた、イトスギ(院内学級のこ
オトナたちの心配にもかかわらず子どもたちは奔放な時を過ごし、あるいは”怠惰な“時を過ごしていく。全然勉強せずに一日中テレビを見たり、テレビゲームばかりしていたりする。わがままになりききわけがなくなり、甘えてばかりになったりする。オトナをからかったり、いたずらしたりする。男の子は、看護婦の胸にさわり、スカート※1をめくって、走り去る。「病気なんだから」という切札は、きわめて有効に働く。病院のオトナとは、利害関係はもともと希薄だし、しかもこちらは患者なのだから最後には必ず優しくしてくれる。
『ケアの情景』(医学書院1996)から転載、一部改変。患者名は仮名。文体、「看護婦」は原文のままとしました。35年ほど前の話です。一部は、〈2022.10.21〉「子どもの入院ファンタジーの世界」と重複しています。子どもたちはいつだってオトナの言うことに唯々諾々と従うものではないし、病院とはふだん以上に言いつけに従わなくてよいところだ。いつもと体調が違い、さまざまな痛い検査や処置に満ちた、そして周囲のオトナがこれまで見たこともないような心配りをして特別扱いしてくれるお祭りのような時間