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いろいろ書いてきましたが、希望はあると信じています。年寄りの心配などと関係なく、患者さんとの深い付き合いを模索している若い医師たちもたくさんいますし、地域医療に飛び込んでいく医師もいます。どんなに制度に問題があっても、それを跳ね返していく意志とエネルギーを保ち続ける(いっそう燃え上がらせていく)力を若い人たちは持っています。その力を信じるところから教育は始まります。その思いが一番強いのは新人医師の時です。その時がいちばん望ましい状態であり、そこから徐々に(人によっては急速に
細切れになるのは、患者さんだけではなく、医者の方も同じです。ベルトコンベアに乗って流れてくる患者さんに、ある医者は検査を、ある医者は初期治療を、ある医者は手術を、ある医者は外来での経過観察を、そして、ある医者は看取りを。患者さんから「感謝」の言葉(心からのものかどうかはわかりません)をかけてもらえることを除けば、オートメーション工場の労働者と大差なくなってしまいそうです。オートメーション工場で人間の仕事の少なくない部分がロボットに担われるようになっています。同じように、医者の仕事も
小児科では、昔から「大学病院や専門病院だけでは、子どもの「ありふれた」病気を見ることができない。だから、市中病院でそのような患者さんをいっぱい診る経験が絶対に必要だ」と言われています。私の若いころにも、そのような患者さんが「わんさか」集まる病院での2年目以降の研修を希望する(あまり集まらない病院には行きたがらない)研修医たちがいっぱいいました。でも、今の医学生たちに人気の研修病院の多くは高度医療や急性期医療に特化した病院です。そのような病院の中には、小児であっても、紹介状なしで救急
1月22日の記事で「一方で手術の経過が順調にいくと、その患者さんは病院から離れてかかりつけ医のもとに帰って行かれます」という外科医の文章を紹介しました。外科に限らず、急性期病院での診療は必要ないと医師が判断する場合、以後のフォローは地域の開業医に委ねられます(否応なく)。どうしても、当初の病院にかかりたいと患者さんが思う場合には、再診時選定療養費1)が必要になります(再診ごとに1万円程度かかる病院も少なくない)。病院の医者は、地域の開業医への「逆紹介」をするように迫られます。地域の医療
具合が悪い時だからこそ信頼できる医療者にそばに居てほしいのだけれど、患者さんには何度もそのような医者を探すという負荷が増えます。それだけの付き合いがなかなかできません。深い付き合いが一瞬で生まれることがあるのは確かですが、その場合でも、それが持続できなくなります。深い付き合いが生まれるためには、ある程度付き合いを熟成する時間が必要なことの方が多いと思いますが、その時間が無くなりつつあります。「働き方改革」で医者と話しあえる時間も少なくなってしまいます。「最初の治療をしてくれた医
いまから十数年前の或る時のことです。心が疲れていて重たい。運転したら危ないと判断、重たい足でも駅まで歩いて地方ローカル線に。それでガタゴト揺られながら座席で一人グッタリしていたら列車が停止。なにか付近で呼びかけられてる感じがする。ふと気づいたら誰かが立っていて「ん?」と顔を上げると手が届く距離に運転手が仁王立ちしていて・・・「ん?なにかあった?」と私が怪訝な反応したところ怒鳴られたのです。なんのことだか訳わからずにいると面倒くさいのか運転席に戻って発車・・・ありりりりっ、なんだ
そこに、「在院期間の短縮」というプレッシャーが迫ってきます。高度急性期病院/地域医療支援病院は診療密度が高い治療に専念し、そこで必要な治療が終了後には別の病院(後方病院)に引き継ぐ(転院する)か「かかりつけ医や在宅医療中心として、時々、重症度に応じた病院への入院」という流れ。プレッシャーは、診療報酬や病院の認定という「外圧」です。患者さんから見れば、自分の人生が細切れにされて、処理されるような気がするのではないでしょうか。流れ作業に乗せられるかのようです。一つのステップを過ぎたと判断
患者さんにしてみれば、気を遣ってつきあわなければならない医者が増えてしまいます。それぞれの医者の性格を推察して、どの医者にはどのように接するか、どのような内容のことを話すか、何倍も気遣いしなければならなくなります(看護師に対しては、以前から患者さんはそんなふうに気を遣っているのですが)。特定の医者と親しくなろうとしても、他の医者との関係を思うと難しくなるかもしれません。担当医が一人の時、どうしてもその医者と「合わない」ことがありますから、複数いれば誰か「合う」人を見つけることができる可
最近、大きな病院では「医師の働き方改革」もあって、「入院患者さんの担当は複数の医者で行うことになるので、日によって担当医が変わることがある(ことを理解してほしいと、ある病院長が言っていました)」ようになりつつあります。「何人もの医者に手厚く診てもらっている」と感じる患者さんもいるでしょうか、どの医者からも(責任もって)「大切にしてもらっていない」と感じてしまう患者さんもいるのではないでしょうか。「チーム受け持ち制」と「在院期間の短縮」が、患者さんにとっては負担が増加する面がある
武蔵野赤十字病院の外科部長の一人が開業することになりました。ホームページの開院の挨拶に次のようなことが書かれていました。「12年間でこの地域の患者さん約3000人の手術に携わってきました。また、消化器外科部長として、ロボット手術の立ち上げなどに従事して参りました。受診された患者さんに体を預けていただくにあたり、まず患者さんと信頼関係を築くこと、そして患者さんの全身状態や背景を把握した上で最も適した治療を行うことを大切にしてきました。そして治療が無事に完了して、患者さんにかけていただ
学生の時の実習や臨床に出て1、2年目の、患者さんとの戸惑いに満ちた手探りのつきあいだからこそ生まれてくるケアがあります。指導者がそこで若い人たちと一緒に戸惑い、一緒に迷い、一緒に悩むことが、心を通わせるコミュニケーションを育み、倫理的姿勢を育みます。どんどん「正しい」方法や答えを「与える」こと、その「至らないところ」を叱責することは、教育とは縁遠い。曖昧さ、答えの出ないことに耐える力は、一緒に迷い一緒に耐えてくれる(ほんとうのところは、どうすべきかわかっていても)先輩・指導者がいるこ
私が初めて「講演」をしたのは、1976年、当時の日本赤十字中央女子短期大学(現・日本赤十字看護大学)の1年生の演習に招いていただいた時でした。(〈2023.11.23〉でも書きました)。私の文章をもとに学生たちがディスカッションし、そこでの質問に私が答え、最後に少しまとめのお話しをしました。今思い返すと拙い講演だったと思います。自分でも「分からないこと」ばかりでしたし、学生たちにどのように話せばよいかも全然わかっていませんでした。学生たちの質問に必死の思いで答えていたことだけが、記
「「私のようなつまらない問題でも良いですか?」という質問に私は絶えず「あなたにとっては大事なことでしょう?」と返してきた。」(河野貴代美「フェミニストカウンセリング」臨床心理学増刊15号『あたらしいジェンダースタディーズ』金剛出版2023)医者は、このような言葉を「ぶつけて」もらえるところまで患者さんと付き合えていないことのほうがずっと多いのではないでしょうか。患者さんには、自分の聞きたいことが「つまらない」ことかどうかわからないこともあります。控えめに「つまらない」といっ
「さっき長女と並んで空を眺めながら「私が見ている夕焼けと長女ちゃんの見ている夕焼けの色が同じかどうかは誰にも確かめようがないんだよね」なんてことを話したら「もし違っても、きれいなのは一緒だよ」と言われました。そうして私が長いこと心の奥底で飼っていた孤独がまたひとつ成仏したのでした。」(あるツィッターから)大森壮蔵さんも、他者理解と言うことについてこんなことを言っていたような気がします1)。哲学者の考察と子どもの心が通じているように感じて、なんだかホッコリしました。「きれい」とい
リブログさせて頂きました抗がん剤使わなくなって他国は癌減ったんですよねこれも怖すぎる(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル他国で止めてることが日本では普通に使われてるの⁉️(@ ̄□ ̄@;)!!
写真家でがん闘病((共存?)中の幡野広志さんが、26歳の癌患者の「これからどう生きるべきか」という問いへの答をツィッターに挙げています(2023.12.26)。そのまま引用してみます。--------------------------------------------------------------これをいうと「そんなことができる人はいないよ」って友人の医師や看護師から怒られるんです。なにかというと、ぼくはなるべくすべてを受け入れてます。これが怒られるんですよ。受
私たちの思考は、すでに手持ちの言葉(自分が生きている世界の言葉)によって行われるしかありません。思考が言葉に絡めとられているとも、言葉の檻を抜けられないとも言えます(そんなふうに言っている「偉い」人はいっぱいいます)。一つ一つの言葉には多様な意味がありますし、微妙なニュアンスの違いは無限にあります。でも、その枠を超えることはできません。日常の言葉では、語るほうも聞くほうもそのような微妙な違いをいちいち気にしていません。詩的な人ならば言葉の意味を飛翔させるかもしれませんが(その飛翔も
あるテレビドラマの感想ツイッターに「この主人公は、思いを心に秘めて口に出さない日本人の美徳1)を表している」と書いている人がいました。「思いを心に秘めて口に出さない」人がいるのは日本には限らないと思います。日本ではその傾向が強いかもしれませんし、患者になれば(どこの国の人も)その傾向は強くなってしまうかもしれませんが、それもきっとどこの国でも同じでしょう。「思いを心に秘めて口に出さない」ことを「美徳」と言ってしまうのは危険です。「美徳」は「悪徳」と対の言葉です。「美徳」という
“まど・みちお”さんは、素敵な歌詞をたくさん書いています。そのことを認めた上で、人間の視野というのは、時代などに制約されざるを得ないものなのだなと感じてもいます。まどさんの代表作とも言うべき「1年生になったら」。でも「ともだち100人できるかな」という言葉に傷つく人もいます。自分の子どもが他の子どもとうまくコミュニケーションが取れないことに悩む親たちにとって、この歌詞は決して楽しいものではありません。このことは、自閉症の子どもたちと関わる仕事をしていた妻から指摘されるまで気がつきません
看護大学の院生や研究者による勉強会に、久しぶりに(コロナ以来初めて)参加してきました。今回は、院内学級の存在に支えら続けた小児がんの中学生についての報告でした。武蔵野赤十字病院にも院内学級があります。開設されたのは1973年で1)、全国でも早いほうでした。長期入院のため原級で登校日数が足らなくなり、また、勉強が「遅れて」しまうことに対して、何とかしたいという初代小児科部長(当時は病院長)の熱意で実現しました。しかし、病院が急性期病院に特化され、以前のように長く入院/入級する子どもが
もう一つ、児玉真美さんの文章から。「地域包括ケアが言われ始めた頃に、病院の医師の一部から「地域の街路を病院の廊下にするぞ!」と張り切る声が聞こえてきた。・・・・地域の家庭を病院の病室扱いし、私たちの生活の場に急性期病院の価値観で踏み込んでくるのはカンベンしてほしい。」(『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023)「地域の街路を病院の廊下にする」というのは、社会の病院化です。イヴァン・イリッチが病院化社会について指摘したのはもう40年以上も前のことですが(『脱病院化社会-
看護師がその臨床の実践で迷ったこと/感じたことをインタビューした「偉い」哲学者の先生が、その語りを整理して、看護師の言葉の背後にある本人も意識していなかった「気づき」「実践の意味」を「解明」するという本がありました。社会学ではこうした聞き取りがよく行われるようです(質的研究と言われたりします)。ケアの現場は、「これでよいのだろうか」「これって何?」「どうしてこんなふうになったのだろうか」「どうしたらよかったのだろう」「患者さんはどう思っていたのだろう」という思いに日々包まれるところです
今は、入院したその日にACPやDNARについての「意向」が尋ねられる時代です。具合が悪いのに、しばしば突然の事態に戸惑っているのに、信頼関係も何もまだない初対面の人に答えなければならないのはおかしくはないでしょうか。初対面なのにこんなことを訊けてしまう無神経さ、「医療者はどんなことを尋ねてもよい」という傲慢さは、パターナリズムそのものです。「いやです」「話し(合い)たくない」「成り行きに任せます」と言ったら、医療者はどんな反応をするのでしょう。「あなたのためですよ」「あなた自身
言葉による名づけが、混沌とした思いを明確にするということはあります。マイクロアグレッション、トーンポリシング、マンスプレイニング、○○ハラスメント・・・・。でも、どうしていつも外来語なのでしょうか。その言葉に出会うまで、日本語では何も考えられていなかったのでしょうか。視力の問題なのか、姿勢のの問題なのか。一言で表わすことは、「埋もれている実践が見えるようになる」ことと同時に、「どう言えば良いのだろう」と迷い、行きつ戻りつしていた医者の混沌とした思いが捨て去られることでもあります。「
「共同意思決定」という言葉がしばしば用いられるようになりました。SharedDecisionMakingの訳なのでしょうか。私の英語力が貧弱なためだと思うのですが、この訳語はなにか少しズレているような感じがしてしまいます。Sharedという言葉に、私は「これからの人生を一緒に背負っていきますから、一緒に考えてみましょう」という意味合いに感じていました。それが「共同」ということにまとめられるのは、ちょっと違うという気がしています。DecisionMakingを「意思決
「市民参画」ということが、医療についても語られています。「臨床・制度設計・研究・教育などの様々な営みにおいて、患者・市民参画の重要性が認識され、その実践が広がりつつある。患者・市民はヘルスケアの受け手であるだけでなく、医療費や保険料を支払うことで医療制度そのものを支えており、その意向は無視できない。また、保健医療福祉の従事者だけで考えていては気が付かなかったサービスの改善のためのアイディアを、患者・市民が自らの経験や知識、市民感覚に基づいて提案することもある。」(熊倉陽介「精神医療の官
コミュニケーションで大切なことは、まずは相手の言うことを虚心に(先入観なしに、評価的姿勢を排して)「聴く」ことだと教えられます。私も、いつもそのようにお話ししています(講演や研修では、そこまでしか話せないことが多い)。コミュニケーション教育が行われるようになって、医者は確かに以前より患者さんの話に耳を傾けるようになりました。けれども、そのぶん、患者さんの言葉を、言葉通りのものとして受け止める「危険」も増しているのではないかと気になっています。患者さんの言葉は、「混沌」とした思い
物語の書き換えは、本人にしかできないことです。私たちはそこに介入すべきではありません(もちろん、書き換えられつつあるその物語の登場人物の一人にはなります)。介入したら、もう本人の物語ではなくなります。私たちにできることは、その患者さんの「格闘」を見守り、支持することだけです。それは、放置ではありません。「寂しさ」の共有とでも言えば良いでしょうか。この見守りは、信頼しあえる人間関係が構築されたときのみ可能となります。そのような人がそばにいるかいないかで、物語は全く変わってきます。「自
病の本質はアイデンティティの動揺/喪失です(〈2022.8.16~8.25〉に書きました)。アイデンティティをもたずに生きられない人間は、病気による肉体的な苦痛がどんなに強くとも、病いを得た瞬間から、その新たな事態を踏まえての自分についての新たな物語を描く作業に取りかからずにはいられません。現に苦しみつつある日々の自分のありようについて、そして自分の未来について、少しでも安定した物語(=自分がなんとか納得できる物語)を描かなければなりません。なにかしら自分に都合の良い、なにかしら
「命の断念」には肯定的な言葉がかけられます。「温かな最期」「人間らしい最期」そして「死ぬ権利」(権利という言葉は「よりよく生きる」ための言葉なのに)。他方、「生き抜こう」とすることには否定的な言葉がかけられています。「無駄な治療」「無益な治療」「医療費の無駄遣い」「つらいばかりの治療」「生きながらえさせる悲惨な医療」「人間らしくない」「尊厳がない」「生きている価値がない」・・・・これらの言葉は元気な障害者や高齢者にも掛けられがちです。この構図はおかしくはないでしょうか。「洗脳」し