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隠岐の島玉若酢命神社古墳群玉若酢命神社①赤丸:玉若酢命神社古墳群②緑丸:日御碕神社③青丸:出雲大社④白丸:三穂神社④黄丸:見島、ジーコンボ遺跡⑤黒丸:上津守神社⑥東西赤線:北緯34度14分参考玉若酢命神社古墳群(wikiより)八尾平野の南側丘陵に分布する古墳群である。南東の麓には玉若酢命神社境内が立地する。古墳群は前方後円墳1基(8号墳)と円墳14基の計15基から成り、前方後円墳は尾根頂上部に、他の円墳は玉若酢命神社境内から山頂への途中一帯に
大分県南部から四国南部の夫婦岩は四国に聖なるラインを導入するためにあった。①青丸:手結山の夫婦岩②赤丸:佐喜浜の夫婦岩③緑丸:豊後二ケ見浦の夫婦岩④黒丸:一宮神社、高知県宿毛市片島⑤黄丸:最御崎寺、高知県室戸市室戸岬町⑥白丸:熊野速玉大社、和歌山県新宮市①夫婦岩、高知県香南市夜須町手結山②夫婦岩、高知県室戸市佐喜浜町③夫婦岩、豊後二ケ見浦④一宮神社、高知県宿毛市片島⑤最御崎寺、高知県室戸市室戸岬町④熊野速玉大社、和歌山県新宮市1番地
豊後二見ヶ浦の夫婦岩①赤丸:豊後二見ヶ浦の夫婦岩②緑丸:石鎚神社③黄丸:姫島④黒丸:見島⑤青丸:空海誕生地の仙遊寺あたり⑥青四角:東門鎮護住吉八幡宮⑦黒四角:宮地嶽神社雑談:この夫婦岩は砕いて作ったものか!?
大神宮神社無格社大神宮(だいじんぐう)神社。大神宮神社は皇大神宮を崇拝するために藩の命令により各村に創設された神社です。この神社の創立年月日は寛文11(1671)年ころ。祭神:天照大神、栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)、手力雄神大神宮神社大神宮神社①赤丸:大神宮神社(壱岐)②緑丸:御嶽神社(大島)③青丸:藍島(北九州市)④白丸:住吉神社(福岡市)⑤黒丸:與止日女神社(佐賀市)⑥黄丸:宮ノ岳山(対馬)⑦白四角:沖ノ島、横赤線:北緯3
大分県の国東半島の北の海上にある姫島の比売語曽神は、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国の王子の都怒我阿羅斯等が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。この摂津の方は、大阪の東成区の比売許曾神社の祭神の下照比売命であるとされる。また高津宮摂社に比売古曽神社がある。さらに、西淀川区姫島の姫嶋神社には、『摂津風土記』に女神が新羅より遁れて来た比売島松原をこの地とする
弘法大師空海が修行した室戸岬は空海が開山する高野山や、空海の一族、佐伯氏が祭祀する宮島と直接に聖なるラインで結ばれている。①赤丸:室戸岬、空海が修行した地②青丸:安芸の宮島、空海の一族の佐伯氏が祭祀③緑丸:空海の高野山金剛峯寺④黄丸:熱田神宮⑤白丸:石鎚山⑤中央の東西赤線:北緯34度14分参考①室戸山最御崎寺最御崎寺(ほつみさきじ、wikiより)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本
太鼓谷稲成神社の立地する聖なるラインを探して見た。見島と宮島を結ぶ聖なるラインにあった。ただし、厳密な位置を確定するためには、もう一本の聖なるラインが必要である。18世紀、津和野の殿様が稲荷神を伏見稲荷大社から勧請する時、神職が聖なるラインを探すと、下関の山田地区にあった旧住吉神社(鎌倉時代に焼失!)と奈良の東大寺の大仏の銅を掘った長登銅山を見出したようだ!太鼓谷稲成神社の境内から山口市方向①赤丸:太鼓谷稲成神社、津和野②緑丸:宮島③青丸:見島(ジーコンボ遺跡あたり)④
山口県萩市見島は対馬海流とリマン海流の交差点付近にある島、東アジアの大陸と日本列島の中継点であった。山口県萩市見島、赤印:ジーコンボ古墳群①赤丸:見島(ジーコンボ古墳群)②緑丸:沖ノ島③黄丸:出雲大社④黒丸:宮地嶽神社⑤青丸:宮島⑥白丸:石鎚神社⑦黄四角:東門鎮護住吉八幡宮⑧黒四角:大山祇神社参考①ジーコンボ古墳群みしまジーコンボこふんぐん(見島ジーコンボ古墳群、コトバンクより)山口県萩市見島にある古墳群。萩の沖合約45kmの日本海上
①赤丸:求菩提山②緑丸:英彦山神宮③黄丸:香春神社④黒丸:與止日女神社⑤白四角:姫島⑥白丸:沖ノ島⑦青丸:高良大社参考①求菩提山(wikiより)福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山伏信仰が行われていた。山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在
聖なるラインの交点には何かがあると思って、グーグルマップを拡大して行くと、まさにその位置に神社があった。例えば、下関の西海岸の南北の聖なるラインと宮地嶽神社から石鎚山に向かう東方向の聖なるラインの交点は、沖ノ島から宇佐神宮へ向かう聖なるラインも通過していた所に、貫山権現があった。今までに検討してきた聖なるラインには未知の神社などの発見の為の予言能力がありそうだ。①赤丸:貫山権現(芝津神社上宮)②緑丸:英彦山神宮、真北に貫山権現、足立山妙見宮③黄丸:宇佐神宮④青丸:宮地
宇美八幡宮を創建する時、既に香椎宮があり、沖ノ島を真っ直ぐに見通したようだ。これよりずっと後に菅原道真公の亡骸を運んだ牛車が停まったところが、やはり宇美八幡宮、香椎宮、沖ノ島を串刺しに真っ直ぐ見通している。①白青丸:宇美八幡宮(主祭神は応神天皇、神功皇后)②白黒丸:香椎宮(主祭神は仲哀天皇と神功皇后)③緑丸:太宰府天満宮(主祭神は菅原道真)④黒丸:沖ノ島参考①宇美八幡宮(wikiより)応神天皇・神功皇后・玉依姫命・住吉大神・伊弉諾尊を祀る。社伝「伝子孫書」によ
北九州市門司区の関門海峡の早鞆瀬戸の間際の和布刈神社、そして安徳天皇が都を置いた大里あたりは、下関市長府の忌宮神社と北九州市の足立山妙見宮を結ぶ聖なるラインに乗っていた。安徳天皇と平家は下関市彦島に立て籠もって源氏に対峙したが、北九州市門司区の大里に都を置いていたと言われている。この辺りは今でも綺麗な碁盤の目の様な街並みを保っている。①赤丸:和布刈神社、北九州市門司区(参考)②緑楕円:安徳天皇の都、北九州市門司区大里(参考)③黒丸:忌宮神社(参考)④白丸:足立山妙見宮(
奈良の大仏の銅を採掘した長登銅山は北緯34度14分の神津島から沖ノ島、秦の始皇帝の咸陽宮(長安)方向と、土井ヶ浜方向の交差点に位置していた。さらに聖なるラインは狗留孫山を中継して周防灘を越えて宇佐神宮にも接続している。①緑丸:狗留孫山:741年に行基が修行②緑四角:狗留孫山:650年に霊場を開く③赤楕円:土井ヶ浜の神功皇后神社:1288年7月10日創建、住吉神社:719年に八幡宮として宇佐より勧請、田耕神社:摂社の厳島神社が古社④赤四角:美祢市の神功皇后神社:
対馬の著名な神社、すなわち海神神社、和多都美神社、厳原八幡宮神社は、どれも由来があやふやとなり、何れも式内社の和多都美神社かも知れないとのことであるが、明治になって現在のように整理された。聖なるラインを沖ノ島を支点として引いて見ると、回転対称のような精密な対応関係が見出せた。この関係を例えば、海神に対して海神、応神天皇や神功皇后の八幡神に対しては八幡神が対応すると仮定することは自然であろう。すなわち、対馬国一之宮の海神神社に対しては長門国一之宮の住吉神社、厳原八幡宮神社に対して、神功皇后神社
著者が知っている範囲の下関市の主要な神社を結ぶ聖なるラインのネットワークを描いてみた。特に図1と図3に注目すると、今は無き、梅ケ峠の応神天皇の軽島豊明宮の跡地(青丸)と、山田地区の住吉神社の元宮(赤丸)へ向かう聖なるラインが特に多いことが分かる。これに引き換え、忌宮神社(白四角)と現在の住吉神社(二重白四角)へ向かう聖なるラインは比較的に少ない。今は無き二地点(赤丸と青丸)を取り除いて聖なるラインを引いたとしたら、ネットワーク化出来ずに無意味な神社配置になり、何故この神社がここに鎮座しているの
周防灘の姫島では後期旧石器時代から黒曜石が産出し、海人族安曇氏が黒曜石を掘り出し日本全国に送り出した。縄文時代の沖ノ島にも黒曜石が出土している。関門海峡の西側出口にある藍島には海人族の古墳群がある。さらに、関門海峡の早鞆瀬戸の門司側に和布刈神社があるが、海人族安曇氏の長の安曇磯良を主祭神としている。海人族達は姫島の黒曜石を沖ノ島など日本海側の各地に運び出すのに、関門海峡を通過したのであろう。当時、岩礁などで浅く、急流の関門海峡の早鞆瀬戸の通過の安全を確保する為に和布刈神社を建立したのであろう。
長門城は白村江の戦いに負けてから、北緯34度14分に沿って最短航路で本州に来襲する夷狄を監視する為であろう。かつて応神天皇らが滞在した軽島豊明宮が秦氏らの渡来人を引き受ける為の滞在施設と考えられるが、同時に夷狄にとっても最も容易に上陸できる場所でもあったのである。軽島豊明宮も長門城も日本書紀に出てくるが、その場所は具体的には明記されていない。すなわち記紀に明記すると、将来、本州への最短航路を夷狄に読み取れる恐れがあるからである。だいたい応神天皇の誕生地が北部九州の博多湾を上陸した内陸部にして
応神天皇が滞在された軽島豊明宮と難波大隅宮の場所であるが、それぞれ、下関の住吉神社と大阪の住吉大社が近くに存在し、一直線の聖なるラインの上にのっていた。①青丸:応神天皇の難波大隅宮(現大隅神社、参考)②黄丸:住吉大社(参考)③緑丸:秦氏創建の松尾大社(参考)④赤丸:秦氏創建の八坂神社(参考)⑤黒丸:比叡山延暦寺(参考)①難波大隅宮(現大隅神社)②住吉大社参考⑴下関の住吉神社と応神天皇の軽島豊明宮①赤丸:応神天皇の軽島豊明宮②緑丸:現在
住吉大神が神功皇后に穴門国の山田邑に自分を祀れとお告げされたと日本書紀にある。この山田邑、現在の山田地区(下関市大字蒲生野の山田)に探した。果たして、推測の地に雨乞い祭りの神事に利用すると思しき祭事場を見つけた。さらに山を登ると、予測地点に社殿を建てるに十分な小高い丘状の地があった。①黄丸:穴門の山田邑の旧住吉神社②白青四角:穴門の豊浦宮③緑丸:現在の住吉神社④黒丸:観音岬(または村崎鼻)⑤青丸:忌宮神社⑥赤丸:梅ケ峠の応神天皇の軽島豊明宮の跡地穴門の山田
吉母の若宮神社は長門国一の宮、住吉神社の本宮であり、その浜辺で「応神天皇」が御誕生されたとある。吉母(よしも)の地名の由来は、神功皇后が海岸で藻をよせ集めて身を暖めてお産をされたことから“よせも”と言われたことからです。この若宮神社と秋根の若宮神社は下関市大字蒲生野の山田地区にあった住吉神社の元宮を挟むように聖なるラインでつながっていた。そして、梅ケ峠の応神天皇の軽島豊明宮から忌宮神社、そして宇佐神宮に延びる聖なるラインと平行していた。吉母の若宮神社が住吉神社の本宮であるとの社伝は、やっと納
日本書紀に記述があるが、住吉大神(三神)は神功皇后に我を山田邑に祀れと託宣して鎮座したのが、現在地の住吉神社であると云われている。しかし、現在の地名としての山田は住吉神社の地とは異なっている。この現在の山田地区も神聖な地であり、他地区とは異なった扱いを受け、かつては旱魃の雨乞いの祭りなどは住吉神社の神官がここで執り行った。ここ山田地区は真西に観音岬が見え、現在の住吉神社から穴門豊浦宮、そして梅ケ峠の軽島豊明宮を結ぶ聖なるライン上にある。そして、真南には穴門豊浦宮への目印になったであろう火ノ見
現在、下関市長府の忌宮神社の社伝によると、鎌倉時代に焼失した豊浦宮と豊明宮を忌宮にまとめて、仲哀天皇と応神天皇と神功皇后を祀っている。元々は長門一宮の住吉神社の近くに仲哀天皇の穴門の豊浦宮、長門二宮の忌宮神社に神功皇后の忌宮、長門三宮の乳母屋社と杜屋神社に挟まれて応神天皇の軽島豊明宮があったと確信した。下関市梅ケ峠の軽島豊明宮から南の下関市内に聖なるラインを引いてみると、まさに確信した通りとなった。下関市立考古博物館には下関市秋根あたりの膨大な発掘報告書がある。この報告書では穴門国の国衙又
万葉集に沖つ借島(軽島)と歌われた蓋井島は神功皇后ゆかりの島であった。対岸の本州本土に応神天皇の誕生伝説のある吉母地区と本州最西端の毘沙ノ鼻がある。渡船から見た蓋井島と乞月山蓋井島港から見た乞月山神功皇后が三韓征伐から凱旋され、蹴鞠のお遊びをされたところが“鞠の庭”そのとき、日が暮れて真っ暗になったので、山に登られ、月を乞われたところ、たちまち満月になったというところから“乞月山”というようになりました。本州最西端の毘沙ノ鼻から見た蓋井島本州最西端の毘沙ノ鼻、蓋井島も近くに迫って見える
下関市の永田と厚母の境に梅ケ峠がある。この峠のすぐ隣の高台に旧梅光女学院大学キャンパスがある。ここは大学が立地する前からずっと神社の境内の様な平地であった。実は鎌倉時代に焼失した応神天皇の軽島豊明宮の跡地であった。そして、近隣の神社群のみならず九州の神社群、例えば応神天皇を主祭神とする宇佐神宮に至る聖なるラインの焦点であった。軽島豊明宮、旧梅光女学院大学、下関市梅ケ峠(3D、南東方向に見下ろす。左の太陽光発電所の敷地も含む)①赤丸:応神天皇の軽島豊明宮、下関市梅ケ峠(参考)②黄丸:
豊北町の土井ヶ浜遺跡と神功皇后神社、住吉神社、田耕神社は概ね北西方向の直線にフィットする。この直線を延長すると概ね山東半島の臨淄の方向であった。あくまで推測ではあるが、現在の豊北町の田耕神社の厳島社や住吉神社の氏子は土井ヶ浜遺跡に眠る弥生人、すなわち山の民の末裔であり、神功皇后神社の蛭子社の氏子の海の民と協働して、七年に一度の浜出祭を2200年に渡って遂行していると考えられないか?!グーグルマップでの土井ヶ浜遺跡と田耕神社の位置関係(メルカトル図法)①青丸:田耕神社の摂社の厳島神社②
豊北町の浜出祭は同町神玉地区神功皇后神社の中の蛭子社と田耕神社の中の厳島神社の二社で、七年に一回行われる。14キロメートルの道のりを400人近い行列となって土井ケ浜に向かう。伝説では蒙古来襲の兵の霊を鎮めるとも言われているが、さらに古い祭祀形式と言われている。さらに、先の二社の間にある住吉神社は遡る8世紀初頭に国防の観点で創建されている。この地域は大陸からの渡海の到着地として適した地点であり、日本人のルーツの一つの渡来系弥生人が真っ先に上陸した地域であった。すなわち、渡来人自らの上陸地であった
日本列島の聖なるラインのネットワークをまとめて、示す。著者の知っている神社、古墳、環状列石などを結び付けた。他にも未発見の聖なるラインはあろう!要は、聖なるラインのネットワークは、現代における三角測量の測地ネットワークと全く同じと考えられる。例えば、卑弥呼が日食を予言する為にはヤマトの都の上空に太陽の影が過ぎる必要があるが、太陽と月の軌道の予測と日本列島の上の影の軌跡の予測が出来る必要がある。さらに、地方の神社が氏子たちに日食などの天変地異に関するお告げをするためには、神社の正確な位置情報が
宮島の弥山の山頂に奇妙な巨石群がある!どうも、天文観測施設らしく、宿星図を巨石を使って表現していた。この島が北緯34度14分にあることは指摘したが、古代からある世界の天文図や宿星図はこの緯度で見た星空であった。同じ北緯34度14分の空海誕生の地の香川県の飯野山の山頂の巨石群も多分、天文観測施設であろう。さらに、岐阜県下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡が太陽観測施設と考えられているが、これに対応した筑波山の山頂の巨石群も天文観測施設であろう。これらの天文観測施設は聖なるライン(レイライン)で連結されて
古事記の国生み神話で大八洲を作ったあとに生んだ6つの島について考察する。日本書紀では抹消されて存在しない。従来の解釈では、瀬戸内海をほぼ東西に並ぶが、最後の知訶島と両児島の比定地が、なんとも奇妙にも有っても無くても構わないような五島列島あたりに当てられている。6つの島とも、ほぼ当てずっぽの解釈と考えても良さそうだ。北緯34度14分の東西を貫くラインを支える沖ノ島から宮島、神津島が、この6つの島に含まれ、残りの3島もこのラインに関わると考えられないか!?例えば、・小豆島であるが、現在の小豆
古事記に記述された国生み神話で、大八洲が出来上がった後に出来た6つの島の1つに吉備児島がある。この島は現在、児島半島となっている。この児島半島の真南の讃岐平野には北緯34度14分の聖なるラインが通過し、弘法大師空海が誕生した善通寺の仙遊寺がある。この児島半島と讃岐平野を串刺しする南北線を辿ると、著名な寺社が並んでいた。横赤線:北緯34度14分①黄丸:最上稲荷②緑丸:日本第一熊野神社③青丸:鷲羽山④赤丸:金刀比羅宮注:北緯34度14分には、善通寺、弥谷寺、紫雲