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吉川弘文館の『東海の中世史』シリーズは、その名の通り東海地方の中世史を概説したシリーズで、本書は鎌倉幕府滅亡~南北朝時代を扱っています。東海地方、特に三河国は鎌倉時代に足利氏の所領が多かったこともあり、足利氏庶流が多く名字の地としており、本書の第1章では足利一門筆頭である吉良氏を中心にした構成となっています。第2章、第3章ではそれぞれ伊勢北畠氏、美濃土岐氏を扱っています。北畠氏と言えば圧倒的な行軍速度で上洛したことで知られる花将軍・鎮守府将軍顕家が知られていますが伊勢北畠氏は
前回の続きです。今回は三杉ふるさと資料館です。三重県津市美杉町多気(たき)現在の地名の読みは「たき」です。美杉ふるさと資料館に行きます。Googleマップです。上図①の右を流れる八手俣(ハテマタ)川は城下の盆地を流れる川です。多気(たき)と読みますが、多気(たげ)とも読み多芸とも書かれていました。①付近の八手俣川です。竹が多いので多気(たけ)と言われたとの説もあります。美杉ふるさと資料館より引用霧山城が近世城郭風に描かれているので、安土桃山時代か
所在地〒515-2616三重県津市白山町稲垣特徴伊勢守護北畠氏の配下にあった山城で、東麓に小さな案内板がある。入山し谷を登ると堀と土塁を巡らせた主郭で、東へ連郭式の遺構が続いている。感想主郭と二ノ郭の間には堀と土塁の虎口が明瞭に残っている。規模は大きくないが、かなり技巧的な遺構を楽しめる。
吉川弘文館のシリーズ「東海の中世史」の第二弾では、鎌倉後期~南北朝時代という動乱の時代を扱っています。俗に「三英傑」と呼ばれる、戦国時代を制した織田信長・羽柴(豊臣)秀吉・徳川家康の3人が東海地方の出身である(現在の行政区分で言えば愛知県、当時の国名では信長と秀吉が尾張、家康が三河)ことはよく知られていると思いますが、鎌倉幕府を打倒し、南北朝時代を勝ち抜き室町幕府を開いた足利氏の重要拠点が三河にあったことはあまり知られていないのではないでしょうか。東海道は行政区分、あるいは中世の街道
霧山城に続き北畠氏繋がりで攻めました。三重県名張市神屋伊賀・北畠具親城(きたばたけともちかじょう)別名:関岡城、具親城、神屋敷城、城山北畠具親城は天正年間(1573〜1592)に伊勢国司・北畠晴具の三男である北畠具親によって築かれた城です。天正4年(1576)に具親の兄である北畠具教がその養子となった織田信長さまの次男、北畠信雄に殺されると、僧となって奈良の興福寺にいた具親は織田氏から実権を取り戻すために、還俗してこの城を築いて挙兵しました。駄菓子菓子!信雄によって鎮圧される
キケンな激夏猛暑が続く中、キケンを犯して出陣しました。三重県津市美杉町上多気伊勢・北畠氏館跡、北畠神社別名:多気御所北畠氏館は伊勢国司として勢力をふるった北畠顕能によって築かれた居館です。氏館跡は現在北畠神社が鎮座してますが、中世館跡として日本最古の石垣や礎石建物跡などが発掘され案内板があります。館跡背後には北畠氏館詰城、霧山城が控えています。また庭園は三大武将庭園・日本名園五十撰として国指定の名勝に選ばれてます。ちなみに三大武将庭園はここ北畠氏館庭園、一乗谷朝倉氏
※こちらの記事は、令和2年8月12日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第25弾として、「天正伊賀の乱」について、ビジネス的視点で見直したいと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。第1回今山の合戦第2回耳川の合戦第3回沖田畷の合戦第4回小豆坂の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第7回稲葉山城の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第9回姉川の合戦第10回二俣城の合戦第1
日本史でも人気のある戦国時代ですが、あまり研究されてこなかったのが天皇と公家衆たちです。戦前は皇国史観の影響で天皇を研究すること自体がタブー視され、「研究すると言っても、天皇を崇拝し、その永続性を強調する傾向にあった」(「はじめに」より)というほどです。敗戦後は皇国史観への反発からなおさら研究されなくなり、ようやく研究されるようになったのは昭和天皇崩御が契機とのこと。それまでは戦国時代といえば武士の時代という印象から、天皇や公家衆はなんとなく「お飾り」と見られていたのです。し
11月24日(木)夜から27日(日)にかけて、亡き父の「20年祭」を行うために、実家の伊勢市に帰っていました。その間の出来事です。①ヒトカラに行きました。(ブログにアップ済み)②“恐怖”の夜。(ブログにアップ済み)③父の20年祭&法事の後の会食「みやび」で(ブログにアップ済み)④伊勢神宮(外宮)へ紅葉を撮りに行く。(ブログにアップ済み)⑤松阪農業公園ベルファームバラの花を撮る。(ブログにアップ済み)⑥松阪豚を食べる。(ブログにアップ済み)⑦黒潮ダイニング花熱烈一番亭で食
5年前にUPした京都仙洞御所追加してます。前回の続きで最終回です。今回は内館と浪岡北畠氏滅亡です。内館虎口です。内館の虎口を入った所です。内館の御殿跡です。内館は浪岡城の本丸で、浪岡北畠氏の当主が住んでいました。カメラを右(南側)に回すと南側です。北畠家系図です。浪岡北畠家と伊勢国司家の名前には顕や具という共通の字があり、叙爵任官も公家扱いで、他の大名より優遇されていました。北畠顕家から数えて5代目の、北畠顕義が南朝拠点の霊山城から、南部
広瀬川の支流不忘橋を渡ると霊山神社霊山神社-Wikipediaja.m.wikipedia.org🍁北畠親房鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰した。しかし、親房は後醍醐と対立していた護良親王派の人物であったため、奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村か天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴くこととなった。いわゆる、左遷ですな陸奥将軍府設置の主導
三重県明和町といいますと、斎宮に関わることで有名(なはず)です。斎宮歴史博物館のホームページに次のような説明がありました。斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。しかしながら、この斎宮、伊勢神宮のすぐ側にあったわけではなく、伊勢神宮から約20㎞離れた、現在の明和町にありました。ということで、明和町内をうろう
どもども(・∀・)ノ☆りおたん@歩く歩行者です!今回の凸りおは、、、板柳町館野越橋元にある滝井館(古館)に行ってみたいと思います(^ω^)※この辺。えー。あの浪岡北畠氏の末裔が住んでいてあの菅江真澄が訪れたというね。コレはめっちゃ興味ありますね!そんなワケで。早速凸していきましょう!レッツゴー👊北畠氏といえば津軽為信公の前に津軽地方を統治していた豪族ですね。皇家の血を引く名門で国司として
伊勢遠征の初日、松阪に宿をとりましたチェックインまで少し時間があったので訪れてみましたガイドブックの大雑把な地図を参考にしましたが迷いましたww三渡川河口に近い松ヶ島町の東側、耕作地に城跡があります↓松ヶ島城の古図(現地解説板より)聞き込みをして城の近くまで来ていることはわかっていましたが石碑や天守台と伝わる塚がみつかりません辺りが暗くなり気持ちが焦りだしたときに『松ヶ島城跡→』の案内表示を見つけましたこれがまた見難い場所に設置されているんだ~遺構状態は情報通りで明確ではありま
映画で見るウクライナ周辺国の歴史カット割りや構図も素晴らしい-山陽新聞山陽新聞間接的ですが、その国の歴史理解を深めることは友好につながるのではないでしょうか。とは言え、物理的にも情報的にも遠かったウクライナや隣国のポーランド。「まつどデジタルミュージアム」開設|松戸市役所のプレスリリース-PRTIMESPRTIMES歴史、考古、民俗学、写真等、松戸に関する多様な情報を網羅しています。大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した徳川昭武の貴重な写真資料も掲載するなど、観光
今回は、三重県松阪市のおすすめランキング(ベスト10)を紹介します。いままで市単位のおすすめランキングは初の記事となります。対象エリアは次のとおりです。①大河内城を中心に一緒に効率よくまわれる山城大河内城は低山の山城では日本トップレベルの名城です。②織田信長の伊勢侵攻のエリア織田軍の攻撃ルート(南下ルート)天花寺城(下図中央上)⇒八田城⇒高城⇒阿坂城⇒大河内城今回、アクセスがわかりづらかったり、遺構確認が難しい山城がありましたので次の①~③の評価点の掛け算で④オススメ度を
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バスの通う道に来ました左・県道43号、右29号です峠越え出来ましたこの道/峠こそ私の未踏のルートだったのです美杉町下之川山本彼らはここからバスに乗りましたこれで一応、私の最小の目的はかないましたが、せっかくですので、できるだけ彼らの後をなぞってみます八手俣川/これも雲出川の支流です八手俣川に沿って進みます鳥河原橋を渡って・・・進むと・・・北畠神社ですお参りしていきます北畠氏(読み)きたばたけうじ詳しくは次を参照にhttps://kotobank.jp
おはようございます、たけちです。昨日は小春日和でしたが、今日は気温も下がってくると聞いていますが、まだまだ!去年の北海道に比べれば西宮近郊なんて🥶さて、今回は多気北畠氏城館跡の紹介です。『三重とちょっと奈良の旅(その3)』おはようございます、たけちです。今日からまた1週間が始まるテンションが上がらないなぁ〜。因みに一番テンションが上がるのは金曜日あと、〇〇時間で土曜が来ると思う…ameblo.jpあまり関係ないけど北畠顕家像多気御所と霧山城を総じて多気北畠氏城館としています。南北朝時
原爆ドーム前で鎮魂の能-下野新聞社下野新聞社鼓や笛の音が響き、幻想的な雰囲気に包まれた。映像作家の田辺雅章さん(83)が育ったのは、後に原爆ドームとなる「産業奨励館」...京都着物レンタル夢館×THESODOHHIGASHIYAMAKYOTOプラン新設記念プレゼント...SankeiBiz京都着物レンタル夢館(本社:京都府京都市、代表取締役:久保村一文)は、この度、THESODOHHIGASHIYAMAKYOTO(@kyoto_thesod…小樽市総合
【問題】伊勢国国司であった北畠氏歴代当主を、古い順に並べたものは次のうちどれか?【選択肢】北畠具教→晴具→具房北畠晴具→具教→具房北畠具房→晴具→具教北畠晴具→具房→具教【正解】北畠晴具→具教→具房【解説】伊勢国司北畠氏7代目が北畠晴具(はるとも)である。晴具は周辺国にまで版図を拡げたが、具教の代に織田信長が台頭し、具房の代となって信長の子を養嗣子として迎えることで和睦した。
円光寺から北へ150m程の神社に来ました神社名;上野神社所在地;三重県津市河芸町上野3163TEL;059-245-1552【主祭神】誉田別尊上野神社の創始年代は不詳ですが鎌倉時代の末期に伊勢の国司、北畠氏の祈願社として奉祀されたと伝えられています應永13年(1406)の棟札には上野正八幡と記されてます一の鳥居二の鳥居手水舎阿形狛犬吽形狛犬明治の神社制度確立により八幡神社と称し明治41年(1908)上野・久知野・中瀬の神社35
【問題】陸奥の北畠氏は、戦国時代末期に次のうちどのように分かれたか?【選択肢】乳井御所と和徳御所唐川御所と福島御所浪岡御所と川原御所八戸御所と三戸御所【正解】浪岡御所と川原御所【解説】戦国時代末期、陸奥の北畠氏は浪岡御所と川原御所に分かれたが、川原御所の乱によって浪岡具運が殺害され、その報復で川原御所も滅びると、急速に弱体化した。
村人から「足いた地蔵さん」と呼ばれている双石仏わが山家の隣の集落にあるといっても4キロほど離れてるんだけど右側の仏様は、一つの大きな石に2つの仏様が彫られている「双石仏」と呼ばれる少し珍しい石仏だ右側に阿弥陀立像、左に地蔵立像が彫られているそして、左側の石には地蔵磨崖仏が彫られているちなみにこの双石仏には慶長十七年(1612)九月二日の日付が彫られているので、その古さがうかがわれるわが山家のお寺には延元四年(1339年)と刻まれた双石仏があり、これは日本で2番目に古い双石
「益田の宝」を知って偉人や民話、冊子で紹介NPO発行、英文併記で教育にも/島根毎日新聞郷土の偉人の顕彰活動などに取り組む益田市の「NPO-MASUDA」が、同市鎌手地区の偉人と民話を紹介する冊子「ふるさと益田のお話鎌手編」(A5判、18...九条の会・七尾発足15年目会員の声を会報に47NEWSこれまでの活動を振り返り、今後に思いをめぐらせる代表の高瀬英美枝さん(左)と古田励子さん=中能登町で活動自粛で初の意見募集戦争反対や憲法九条...世界遺産の有料エリ
簡易ブログにてお伝えします。〖国盗りクイズ答え〗織田信長が、次男・信雄を養子として送り込み、家督を継がせることで乗っ取りに成功した戦国大名家といえば?答え:2.北畠氏〖城めぐりクイズ答え〗皆川城(栃木県栃木市)の別名として知られるものは次のうちどれか?答え:法螺貝城〖コロナ対策〗使い捨てマスク❮安いマスク❯Youmayマスクホワイトmask使い捨てマスク50枚入保護マスクフェイスマスクmask個人不織布マスク防塵不織布花粉男女兼用白色Am
若之神社伊勢国多気郡三重県多気郡明和町大字佐田675(駐車は覚えていません)■祭神譽田別命明和町の「斎宮跡」より北200mほどの平地に鎮座する社。社伝によると、天文・弘治年間(1532~1558年)に当地国司となった北畠教具が、三男の具郷に命じて城の守護神として若宮八幡宮を創建したのが始まり。後に神社は城とともに滅んだものの、旧跡に若之神社と改め再興したようです。現在は村の産土神として祀られているようです。※写真は2018年5月撮影のものです。■伊勢国の神社
〇南紀一周の旅2019年の7月に計画していたのが、「紀勢本線を1日で三重県亀山~和歌山県和歌山市まで全線争覇する」というものでした。ちなみにその距離はというと…96駅、384.2キロに及ぶ長大な距離当然のことながら、こんな距離を1日、ましてや普通列車だけ乗り継いでいったらとてもではないが、足りませんので亀山までは前夜に移動して、例によって例のごとく朝一の始発に乗車しての出発となりました。朝6時の亀山駅、7月でしたのですでに明るくなっていますが、この時間の駅の人影はほとんどありませんで
築城年代は定かではないが、北畠氏家臣団の一人・治田五兵衛によって、現在の三重県いなべ市に築かれた城・治田城趾へ。ここは、我が祖・楠木正具が入城した事でも知られています。(※一説には松坂市の治田城の説も有り)永禄年間(1558年~1570年)に治田城主を務めたのが楠正成八代孫にして伊勢楠氏中興の祖である楠七郎左衛門正具。永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢攻めの折に対抗、長期の篭城戦となったが結果、落城する事なく、信長も諦めて一旦、退却しました。この時に、正具は、信