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道教は漢民族【黄帝】が生み出した思想です。『黄帝一族』に戦闘して惨敗した【蚩尤族しゆう、九黎きゅうれい族】と共にに戦った、『北狄』ほくてきの王女、【簡狄】かんてき【黄帝】の曾孫【嚳】こく、殷王朝の始祖【絜】けつ、『火の神」その母親簡狄【かんてき】【陰の王女】嚳【こく】は黄帝の曾孫であり、嚳は生まれながらにして自分の名を言う事ができました。嚳帝の時世は徳の高さと聡明で國が平和に治まったと謂れております。その嚳帝の側室簡狄は2番目の妻になります。簡狄【かんてき】は殷王朝の始祖になる人を
夜明け前、煌々と輝く明星を眺めながら、骸隠《がいいん》は、金姒老愠《きんじろうおん》の幕舎《ばくしゃ》に着いた。骸隠《がいいん》の訪問を金拆玄《きんさくげん》は、不吉な気配を感じながら受け入れることにした。「火急のお知らせにて、無礼をお許し戴きたい。先ごろ、南蛮《なんばん》の瑞高《ずいこう》なる海賊、五万の兵とともに、渤海《ぼっかい》に現れました。瑞高《ずいこう》は、上陸するや黄河《こうが》流域を折檻《せっかん》し、次々に城を奪っては、殺戮《さつりく》を繰り返しております。」
悪いことは、重なるものである。夏后《かごう》は、そのことを肝に銘じて作戦を練った。子文趙《しぶんちょう》に、帝への伝令を出させると、直ぐに、次の準備に掛かった。不安は、次々に重なってこそ、絶望を生み出すものである。次なる目標は、女残城《にょざんじょう》である。女残城《にょざんじょう》に、婦玲《ふれい》と徐伸《じょしん》がいることは、夏后《かごう》にとっては、最期の隠し玉であった。まだ確認が取れていないので、そのままにしていたのだが、この時期、女残城《にょざん
やがて、月が満ち、円月の輝く光が、雲中城《うんちゅうじょう》を煌々《こうこう》と照らし出していた。城外《じょうがい》には城郭に入れていない狄人《てきじん》の天幕が所狭しと立ち並んでいる。姫鮮喗《きせんぐん》は婦好妃《ふこうひ》からもらった玉剣を腰にかけ意気揚々としていた。姫鮮喗《きせんぐん》は雲中城《うんちゅうじょう》に到着すると、北東に抜ける道と東の道を塞いだ。決してここを通さないぞという覚悟の現れであった。さらには、婦好妃《ふこうひ》の計らいで、姫鮮喗《
辛巌門《しんがんもん》の策は的中した。金拆玄《きんさくげん》は、雲中《うんちゅう》に着くと、城門は開いたままであった。生活の臭いを残したままの城内に、誰も居ないことを確認すると、狂気して喜んだ。拆玄《さくげん》は、直ちに張家口《ちょうかこう》に居座る金一族《きむいちぞく》に早馬を出した。早馬なら日に何度か行き来できる距離である。数日の間は、早馬の往来で騒がしくなったが、いよいよ、北狄《ほくてき》の部族群団が動き始めた。動き出すと止まらない。川を渡って峠に向かう道は、蟻《あり
冀将軍《きしょうぐん》と夏后《かごう》との睨《にら》み合いはしばらく続いていたが、その均衡を破ったのは、北からの攻撃であった。姫鮮喗《きせんぐん》の北狄防衛軍《ほくてきぼうえいぐん》は、山西地域の最北部の城、張家口《ちょうかこう》に前線基地をおいた。秋口から南下する狄族の兵士とよく出くわすようになったのだが、その背後には、寒さをしのぐため、北の砂漠を渡って移動する大量の遊牧民がいた。移動民がどこから現れて、どこに向かっているのかを確かめるため、大規模な探索隊が派遣された
帝武丁《ていぶてい》は、西戎《にしのえびす》、北狄《きたのえびす》の侵入を受け、気を休める暇がなかった。それだけではない。陽城《ようじょう》で謹慎《きんしん》しているとは言え、夏后《かごう》と子文趙《しぶんちょう》の動きも穏やかならざるものがあり、内憂外患《ないゆうがいかん》とは、まさにこのことであであった。表向きは、西の護りを冀将軍《きしょうぐん》が、北の護りを婦好妃《ふこうひ》が指揮した。だが、渭水平原《いすいへいげん》の司令官は夏大沈《かだいちん》であり、冀将軍《きしょ
御三家の代弁者である窮膳《きゅうぜん》は、ここぞとばかりに、冀将軍《きしょうぐん》を持ち上げた。「さすがに、万敵を熟知しておられる将軍であります。ここは、朝廷が一つになって、西戎《せいじゅう》、北狄《ほくてき》に備えるべきでありましよう。朝廷の権威において、再度、兵を集めれば、北狄討伐隊《ほくてきとうばつたい》は即座に集められるでしょう。ただ今、姫鮮喗殿《きせんぐんどの》、私兵七千騎の申し入れは、帝を守る庚家《こううけ》の存亡をかけた捨て身の策と見受けられる。この際、北狄討伐隊長《ほ
東西で不穏な動きが慌ただしくなるなか、今度は黄河中原に災難がおとずれた。冀将軍《きしょうぐん》の出身地である北の冀族《きぞく》、有斟氏《ゆうしんし》の領地で賊徒《ぞくと》が暴れだし、次々と領内の城郭が襲われた。北狄《ほくてき》と呼ばれる賊徒《ぞくと》である。北の砂漠を縄張りとする遊牧民であるが、張家口《ちょうかこう》の北の砂漠あたりにたむろし、溢れた若き騎馬衆が群れを成して、太行山脈を越えて東の平原に降りてきたのである。後の燕《えん》の地であり、朝廷の重臣でもある有斟興《ゆうし
日本海側の北限トベラは南国の花である。海岸近くに生える高さ2~3㍍の常緑樹。葉は厚く光沢があり陽光を受けて輝き南国的である。枝先につく白花は強く香り、むせるような芳香は南国の香りである。暖帯林の島、佐渡。シイ(佐渡が北限)、ヤブツバキ、アカガシ(佐渡が北限)、マルバシャリンバイなどの暖地樹林が分布する。しかしトベラが発見され日本海側のトベラの北限の島となった。佐渡の最南端の小木岬の犬神平の段丘上。そのうち最大株の樹高は5㍍、横樹幅8㍍、根元で2本に分かれ太い方で
昨日2017年3月21日13:30に、産経ニュースに表題タイトルのコラムが掲載されました。http://www.sankei.com/column/news/170321/clm1703210009-n2.html中国外務省の女性報道官と産経新聞記者に対する質疑応答の様子について書かれています。コラム前半の内容は、たしか先週の産経ニュースのコラムで既に掲載された内容ですが、最後の部分は新たな内容です。このコラムを書いた記者はきっと最後の内容をもっとも強調したかったのでしょう。この女性報