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【小樽:過去と未来】先週末、小樽市総合博物館・運河館、旧手宮線跡地、日銀旧小樽支店、政寿司本店他にお邪魔してきた。以下は、添付Webサイトからの一部抜粋。1.手宮線北海道で最初に開通した路線(NHKアーカイブ)https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0040063手宮線は北海道で最初に開通した鉄道です。南小樽駅から小樽港のふ頭のすぐ近くにある手宮駅まで。小樽の街中を走る2.8キロメートルは、道内各地で産出された石
今日は一日引きこもり。原稿を仕上げ、身の回りを整理しました。さて、本日のテーマは、室蘭製鋼所前の櫛形印。フロントカバーながら、鉱山局関係の資料として入手しましたが、もう少し前の時期だとうれしいので、リリースするか検討中。昭和3年5月14日引き受けです。室蘭製鋼所に関するWikipediaの記載は以下の通り。明治39年)、「鉄道国有法」によって北海道炭礦鉄道から業種転換した北海道炭礦汽船は、夕張炭の納入をきっかけとする呉海軍工廠との結びつきから、室蘭港に面する入江を埋め立てて
昨日コハフ1が目処が付いたので放置していた牽引機の8100の様子が見たくて引っ張り出しました。殆ど下廻りは手を付けてなかったので説明書の理解にかなり時間を要しました。結局、連動ギア⚙の組み付けに3時間程かかりましたがそのおかげで大予想の仕組みが解って来ました。手が止まった理由は手前の右手絶縁ブッシュの紛失が原因です何とか代用品で解決出来そうな感じです。動輪は圧入と説明書では指示されてますが結構ユルユルですねネットで組み立てた方の記事によればやはり最終的には接着剤で
(昨日投稿予定でしたが挫折したので本日の投稿です)今日(8/4)は本来仕事の予定でしたが昨日キャンセルの連絡があり今日は全くフリーの一日になりました。さて今日は何しましょうか?取り敢えず掃除🧹してYouTubeを観てそして昼食を済ませて午後から何か作ろうかな…タクシー会社の製作進めようか…あっ‼️そうだ‼️7月18日の投稿でワールド工芸の9200形、購入の許可が降りて予約したんだ発送はまだ先になるけどそろそろそっち系の方も進めようかなと言う事で今日は久々の
北炭夕張新炭鉱は夕張市清水沢・沼ノ沢の東部地区に開発された北海道炭礦汽船(1978年以降は北炭夕張炭鉱)の炭鉱。炭鉱の閉山・合理化が進む中、旺盛な需要の鉄鋼用原料炭を確保するために三菱南大夕張、三井三池有明炭鉱と共に新鉱開発された。・立坑と総合事務所1975年頃夕張新鉱絵はがき・清陵町の居住区1975年頃夕張新鉱絵はがき夕張新炭鉱開発工事は1970(昭和45)年10月に着手。清水沢清陵町に居住区、通洞(水平トンネル)で連絡したペンケマヤ川の谷間に総合事務所、立坑を建設。・夕張新
・夕張鉄道1形1号夕張鉄道1形蒸気機関車は1925(大正14)年にドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペルで2両を製造された、2気筒単式の飽和式のタンク式蒸気機関車である。建設工事用に入線している。この2両の発注者は、親会社である北海道炭礦汽船であり、契約の時点では夕張鉄道がまだ発足していなかったことがうかがえる。1925年6月22日付で設計認可が行われ、現車は同年10月に入線した。その後は、主に鹿ノ谷駅、若菜駅構内の入換用や、小運転用として使用された。ブレーキ装置は、当初は蒸気ブレーキ
•8100形は、かつて日本国有鉄道およびその前身である鉄道作業局、鉄道院、鉄道省に在籍していたテンダー式蒸気機関車で、勾配線区の客貨両用の蒸気機関車として20両が、1897(明治30)年にアメリカのボールドウィン社から輸入されたものである。軸配置は2-6-0(1C)。・北炭真谷地炭鉱専用鉄道8100形SL沼ノ沢1964年頃•道内の炭鉱鉄道へ実に12両が払下げられ、北炭真谷地炭鉱専用鉄道では5051、5052(旧番号8118、8106)の2両が小運転や客車輸送に活躍した。5052は196
北炭真谷地炭鉱は夕張市南西部沼ノ沢の東方約4km、夕張川支流のパンケマヤチ川・ホロカクルキ川中上流域に展開された北海道炭礦汽船経営の炭鉱。1905(明治38)年北炭が「クリキ炭鉱」を買収。真谷地坑として沼ノ沢への馬車鉄道を開通。1913(大正2)年には専用鉄道が開通した。1941(昭和16)年から1969(昭和44年)は同社平和鉱業所に所属した。・北炭真谷地専用線に乗入れる鉄道院追分機関区所属の9200形工作場付近ヨリ見タル真谷地礦(真谷地礦絵葉書北海道炭礦汽船株式会社)大正〜昭和初
私が夕張線沼ノ沢から真谷地方面に分岐する北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用線を初めて訪れたのは1974年の年末(12月27日)で、既にE型タンク機5055や5056の姿はなく、そんなに古いお話しではありません。初めて訪問した時から31年ほど経った2005年10月3日のことです。道東に帰る途中で、真谷地炭鉱のことを思い出して、衝動的に少し寄り道をしてみました。廃墟と化した真谷地炭鉱跡地には、微かな記憶の中にある懐かしい建物が未だ存在していたことに驚き、言い表すことのできないほどの感動を覚え
発電所なのに大きなガラスの窓。今ではあり得ない意匠だが、それだけに余計、当時の人たちがこの火力発電所に寄せた思いの強さが伝わってくる。(写真/割れたガラスと残ったままの曇りガラスの対比が面白い)二階からは清水沢ダムが見渡せる。かつてここで水力発電をしていた頃は、堤体の向こうの貯水湖から取水していたと思われるが、北炭清水沢火力発電所閉鎖後の平成6年(1994)、北海道企業局に譲渡されている。平成29(2017)年度から改修工事が行われ、現在は発電の運転を停止している。上流に大夕張ダムが
2019年1月24日(thu)鹿ノ谷駅は明治34年(1901)北海道炭礦鉄道の一般駅として誕生している。駅の周辺には同社の幹部用住居が建てられたため駅が必要になったとされる。鉄道事業が官設鉄道に移管されると、北海道炭礦汽船に名を変え炭鉱事業に力を注ぐ。全盛期の頃には駅の周辺は高級住宅街となって、「夕張鹿鳴館」と呼ばれた北炭鹿ノ谷倶楽部も、大正2年(1913)建設されている。(写真/停車した車内から夜の鹿ノ谷駅を写す)2019年1月25日(fri)明治35年(1902)新夕張
駅の名前は、 夕張川に流入する、駅の近くを流れる志幌加別川に、清水の湧く場所があり「清水の沢」と呼ばれていたことに由来する。「沢」が付いたことで、他の地域にもある清水駅と混同するこが回避できた。(写真/ホーム上の駅名標) かつて、三菱大夕張炭鉱や南大夕張炭鉱から石炭を運ぶ貨物列車が数多く行き来し、国鉄と大夕張鉄道線が乗り入れる駅として栄えた清水沢駅だったが、炭鉱の閉山により石炭輸送は廃止され、平成16年(2004)には新夕張駅間で行われていたタブレット閉塞方式が廃止される。これにより北海
2019年1月25日(fri)沼ノ沢駅には、旧事務室にレストランおーやまが入居していることで有名だ(写真左)。ご主人は帝国ホテルで料理を作っていた方で、その味を楽しみにわざわざ遠方から訪れる人も多いのだという。駅舎は市が譲り受けるので、店はこのまま残るのではないかと期待している。沼ノ沢駅は、明治38年(1905)北海道炭礦鉄道の貨物駅として開業しているが、そのきっかけになったのが、玄洋社の総帥だった頭山満や実業家の金子元三郎より真谷地の鉱区を譲渡されたからのようだ。同社はすぐに炭鉱開
皆さま、こんにちは!テレビや雑誌に自分が行ったことがある場所が出てるとついつい嬉しくなっちゃいますよね。こちらは春に買った愛用の時刻表です。表紙には、緑に囲まれた美しい木造駅舎が写っておりますが、こちらは昨年秋の北海道旅の際に訪れた石勝線・鹿ノ谷(しかのたに)駅でした。さぞ、自分も気持ちの良い時間を過ごしたと思われそうですけど…訪れた日はどんより天気なの。この時は本当に自分の雨男ぶりを恨みましたよ。せっかく北海道まで来たっていうのに。自分が鹿ノ谷駅に到着したのは